レオーネは、よく言えばおっとり、有体に言えば、ぼんやりしている、ように見える。
領民からは親しみを込めて、「眠り猫姫」と呼ばれている。笑った時の弧を描く瞳が、寝ている猫に似ているそうだ。レオーネは一応、コードリアス子爵家の令嬢だ。一応……。
ちなみに学園内でのレオーネは『薄暮の令嬢』という仇名がついている。
同じ貴族たちの前では、レオーネの表情は薄い。
体全体の色素も薄いし、顔貌も薄い。
女性の体つきとしても、これまた薄い
さらに言えば、貴族令嬢としての意識や矜持もペラッペラッなのだ。
ただし、ぼんやりしていても、頭の働きが悪いわけではない。
もっとも、素晴らしく良い、とも言えない。
レオーネがまだ、四歳か五歳頃に、こんなことがあった。
父が懇意にしている何処かの貴族(どこの家だか忘れた)が、たまに遊びに来ていた頃だ。
その貴族は、息子を一人連れて来ていた。全体的にぽちゃとした少年だ。
レオーネは子爵家の庭で遊ぶのが好きだったので、小綺麗な恰好をしている、ぽっちゃり子息を庭に誘う。蝶々や甲虫を追いかけ、落ち葉拾いをしているうちに、子ども同士はすぐに仲良くなっていた。ぽっちゃりしていても、子息は温和な性格で、レオーネを令嬢として扱っていた。
ある日、いつもの様にレオーネと子息が遊んでいると、「にゃあ」という声がした。
「猫! 猫ちゃんがいるわ!」
鳴き声の元を探ると、一本の樹の上にたどり着く。
「あ、子猫だ」
子息が声の主を指す。子息は腕まくりをして、樹に登ろうとする。
レオーネはそれを制した。
「私が行くわ」
レオーネは木登りが得意ではなく、ノタクタしながら猫を目指す。
「おいで、猫ちゃん」
猫はシャーッと威嚇する。
「ほら、こっちへおいで。こ、怖くないから」
コワいのは、見ている自分だと子息は胸に片手を当てた。
レオーネの必死な救出作戦により、なんとか猫は彼女の腕に捕獲された。
「よ、良かった……」
子息がため息をつくと同時に、レオーネは樹から落ちた。
猫を抱いたまま落ちた。
ボスンと音がした。
「ああっ!」
慌てて子息が駆け寄ると、運よくレオーネは根元の低木の茂みに頭から突っ込んでいた。
猫を抱いたまま。
猫は無事だった。
子息がレオーネを助け起こすと、レオーネの頬をペロペロ舐めていた。
レオーネに壊滅的な怪我はなかったが、茂みの小枝で顔面にかすり傷が出来ていた。
ほっとしたのかレオーネはポロポロ涙を流す。
「猫ちゃん、無事でよかった」
涙を流しながらも、レオーネは猫の背を撫でた。
「でもヒリヒリするわ。か、顔に傷がついたから、もうお嫁に行けないかも……」
ぐすぐすしながらも、猫ナデを続けるレオーネに子息は優しい眼差しをする。
「もしも……」
「えっ?」
「もしも君がお嫁に行けなかったら」
「た、ら?」
「その時は僕が、君を迎えに来るよ」
幼い日の想い出である。
レオーネも子息も、その場限りの口約束。
幸い、レオーネの顔に傷は残らなかったが、その時の子息の顔も、レオーネの記憶に残らなかったのである。
ぽっちゃりした輪郭と丸いお腹。青っぽい短髪であったことは、なんとなく覚えているのだが。
そんなレオーネ、ぼんやりと昔を思い出しお茶を飲んでいたら、いつの間にやら婚約していた。
父が何か言っていたのだが、聞き逃していたようだ。
婚約相手と顔合わせをした時も、薄ぼんやりとしたまま挨拶した。
婚約者の子爵令息ハワード・シーンは、レオーネの全てが最初から気に入らなかった。
同じ家格だが自分は他の奴とは違う。
もっと上の爵位の令嬢か、絶世の美人を娶りたいと思っていた。
だって、俺自身が優秀で美しいのだから、と。
ハワードの爵位と学識は大したことないが、外見は美しい。
それを彼自身、自覚しているのがまた面倒くさい。
今日も月一回の婚約者同士のお茶会で、親睦を深める機会であるのだが、ハワードは正面からレオーネを見ようとはしない。
子爵邸の四阿で、彼は顔を傾けて髪を掻きあげる。サラサラのブロンドヘアが秋風になびく。
これが一番カッコ良く見えると、ハワードは自覚している。
レオーネには、なんかアホっぽく見えるのだが……。
「それで、今日も孤児院に慰問してたの?」
「はい、お友だちと一緒に行きました。……そのあと、孤児院の近くで一人暮らしをされている、ご老人のお邸にも参りました」
「友だちって誰?」
「グリモール様と、アリエンヌ様です」
高位貴族のグリモールが慰問していると聞いて、ハワードは鼻白む。アリエンヌは男爵家の息女だったっけ。
グリモールとはハワードが勝手に、ライバル認定をしている相手でもある。
ふと思い返せば、グリモールから慰問に誘われたことがある。
多忙を理由に断った。何の得にもならないことに時間をかけるほど、ハワードは暇ではないのだから。
どうぞ、とレオーネは包みを開ける。
中からは、焼き菓子が出てくる。
「孤児院の子どもの手作りか?」
「いえいえ。ご老人からのいただきものです」
「ふん……」
どっちも変わらんと思いながら、ハワードは一口頬張った。
存外旨い。
だが、それをレオーネに言うのは癪に障る。
「君は、孤児院や老人の家で、何をしているんだ?」
「そうですねえ……」
レオーネは、ホワンホワンと孤児院での様子を思い出す。
元々、レオーネとアリエンヌは、年に数回開催される、孤児院のバザーを手伝っていた。
それを聞いたグリモール・カザランド。王太子の側近候補で、知勇武に優れた男子である。
彼が定期的に、孤児院を訪問しようと言いだした。
「孤児であっても、教育の機会を与えたい」
若干上から目線だが、まあそこは高位貴族。
国を良くしたいという想いはある。レオーネとアリエンヌは素直に従った。
ゆえに一年くらい前から、一ヶ月に一度は三人で訪問している。
最近、孤児院の敷地に棲みついた猫が、子猫を産んだので、子猫たちに会うのもレオーネは楽しみだ。かつてレオーネが木登りをして助けた猫は、だいぶ高齢になっていて、遊んでくれないから。
「本日孤児院では、子どもたちと一緒に絵本を読みながら、文字を教えたり、お菓子を食べたり……ご老人のところでは、お掃除やお洗濯を手伝ったり……お菓子を食べたり、ですね」
結局お菓子かよ!
何が楽しいのかと、ハワードは思う。
一文の得にもならんことだ。
しかも孤児院やら老人宅訪問やらの場合、レオーネの着る服は一層地味になる。
今日のワンピースも、薄暮というより薄闇の色だ。
やはり、無理だ。
自他ともに認める麗しい自分の隣にいるのが、薄暮令嬢では釣り合わない。
学園の仲間たちにもそう言われている。
貴族の男たるもの、仲間から羨ましがられるような女性を、パートナーにするべきだ。
ため息一つ吐くと、ハワードは立ち上がり、片手を挙げただけでレオーネの前から立ち去った。
レオーネも吐き出したい息と想いを飲み込んで、お茶会を終了させた。
レオーネ・コードリアスはハワード・シーンと、互いに十三歳の時に婚約を結んだ。
貴族同士の政略結婚。
愛情は二の次、三の次。
ぼんやりとしていても、レオーネは他人の微細な感情を読み取ることは出来る。
婚約者が自分を気に入っていないことくらい、レオーネも承知している。
会った時から分かっていた。
分かっているから、レオーネはハワードに聞かれたことしか答えない。
婚約して三年、ハワードからレオーネへの贈り物はない。
手紙もない。
夜会へのお誘いも、勿論ない。
二人とも、貴族が通う学園に在籍しているが、学園内では無視されている。
レオーネは一応、季節の折々や、お茶会のお礼の手紙をハワードに送っている。庭で見つけた、愛らしい花や落ち葉を栞にして、同封したりもする。
そんなささやかな贈り物すら、ハワードは気に入らないようだ。
けち臭い女。
そうも言われた。
レオーネの父、コードリアス子爵は、いくつもの事業を手がけている資産家だ。
どうせなら、もっと高額な、貴金属や宝石が良いとも仄めかされた。
父は確かに資産家だが、レオーネに無駄使いを許す人ではない。
「相性、悪いのでしょうね……」
ハワードとのお茶会の数日後、レオーネはまた、ご老人のお邸を訪問していた。
邸の主はノーマス卿。妻に先立たれ、爵位も領地も子息に譲り、郊外の邸に一人で暮らしている。
この辺りの土地一帯は、レオーネの父、コードリアス子爵のものだ。
コードリアス子爵とノーマス卿は、元々親交があるという。
だから爵位は同じくらいだろうと、レオーネは思っている。
お互い伴侶に先立たれ、相通じるものもある子爵と卿。
ハワードと婚約した頃、父はレオーネに告げた。
「レオーネ。たまにノーマス卿のところに行って、お手伝いをしなさい」
「ノーマス、卿?」
「そうだ。伴侶に先立たれた男が集う『やもめ会』のリーダーもしている方だ」
やもめ、会?
やもめと鴎って響きが似ている……。
レオーネの脳裏には、父の顔した鴎が、仲間を探して飛んでいる姿が映る。
な、何だか……。
か、可愛い。
「こらこら。レオーネ、そこでぼんやりしない」
「……はあい。……でも私、お手伝いって、何をすれば良いのでしょう?」
「一緒にお茶飲んで、菓子でも食べなさい」
こうしてレオーネは、時折ノーマス卿のお邸を訪問している。
今ではその訪問が、レオーネの楽しみの一つとなっている。
だって、会話のテンポがゆったりしていて、話が合うのだから。
「うふふ。お話聞く限り、婚約者の男性、ハワード君だっけ、面倒くさいタイプだから、あなた以外の人でも相性合わないわよ、きっと」
「そう、でしょうか……」
レオーネを励ましたのは、カンティマ夫人。銀色の髪を緩やかに巻いていて、紺色の総レースのドレスに大変似合っている。
夫君と共に、本日はノーマス邸に遊びに来ているようだ。
カンティマ夫妻とも、親しくしてもらっているレオーネである。
特に夫人は、貴族の女性のあり方や嗜みを、さりげなく諭す。母を亡くしたレオーネには、有難い人物だ。
「いっそ、婚約なんか止めちゃえ」
ノーマス卿は、凄いことをさらっと言う。
ドキリとしたレオーネ、卿の顔を見る。
レオーネも、ずっと思っていたことだったのだ。
会うたびに疲労するハワードと結婚しても、きっとレオーネには何も良いことがない。
「そうですね……」
ほわほわと、レオーネは思い浮かべる。
自身の結婚式を。
ウエディングドレス姿のレオーネと、腕を組む相手の顔を。
相手の男性の顔は、どうしても、ハワードにならなかった。