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第3話 権藤伊佐馬と青碕伯之進


 その侍らしくない男は、海に近い本所深川の永代橋のたもとで釣り糸を垂らしていた。

 雨の日を除けば、ほぼ毎日といっていい。

 釣りの腕はそこそこらしくまったく一匹も釣れない坊主の日は滅多にないので、自分が食べる分だけを除いて余った分を住んでいる長屋の傍の小料理屋にはした金で売りさばいて糊口をしのいでいる。

 日々の暮らしはそれで賄っているようであった。

 滞納もせずに律儀に家賃も支払うので、大家の覚えも良く、面倒ごとに巻き込まれもせず静かに暮らしているといえた。

 もっとも背が高く大柄な体格をして、侍どころか江戸の住人らしくない肌の色のせいで近所の者からは遠巻きにされてはいた。

 濃厚な潮の香りのこびりついた海の底からやってきたような男は、江戸の人間からすると異端でしかないのだ。

 見た目のおかげもありほとんど知己らしいものもいないせいで、男はほとんどすることといったら釣りぐらいしかないのだ。

 この当時、そろそろ後の世にいう生類憐みの令の先触れが布告されていたのだが、まだまだその対象は魚にまでは及んでおらず、これをとがめだてするものは存在しなかったため、自由に釣りをしていた。

 悪法として知られた令が漁師を除く魚にまで及ぶのはまだまだ先の話である。


 その日も手製の釣り道具とびくを持って、大川で竿を垂らしていた。

 あまりにも毎日のことなので、横を通る町人も漁師もほとんど気に留めなくなっていた。

 滅多に動かないので岩か何かと誤解しているのもいたかもしれない。


 水面をそろそろ枯れ枝が流れていく晩夏の一日であった。

 二匹ほど釣り上げると風が心地よいからか、眠気が襲ってきてそのまま横になる。

 川の流れに竿さえ持って行かれなければべつによしとばかりに昼寝を始めた。

 しばらくすると、陽光で大量の汗をかいたからか不快になり目を覚ます。

 彼の隣に誰かが座っている。

 寝転がったまま仰ぎ見ると、恰好からして同心のようだった。


「何をしているんだね?」

「魚が引いていたので釣り上げておきました」

「どれ」


 だらしない姿勢のままびくの中を覗きこむと、五匹おさまっている。

 彼が釣ったのは二匹だから、そのうちの三匹はこの同心が釣ったものだろう。


「くれるのか?」

「もちろん」

「あんがとな」


 釣り侍は上半身をもち上げた。

 同心は彼と比べれば小柄で、顔のつくりもだいぶ違っている。

 その同心は透き通るような美貌をもつ若者で―――名を青碕伯之進という―――釣りをしていた侍は困った顔をした。

 あまりの美しさに女子と同衾しているかのような気恥ずかしさを覚えたからだ。

 とはいえ衆道の趣味がある訳でもないのでそんな状態も長くは続かない。

 美しいといっても所詮縁もゆかりもない相手だ。

 気を遣う必要はないはずである。


「わいつ、暇なのか」

「いいえ。今もお役目の最中です」

「八丁堀のようだが……こんなところで時をつぶしておったら上役に小言を食らわんのか」

「ですから、お役目の最中です」

「ふむ」


 差し出された竿を受けとり、侍は水面の浮を見つめる。

 面と向かってしゃべるよりも幾分かましになった。

 そうなると役目の最中の八丁堀の同心がどうしてこんなところで自分が起きるのを待っていたのか気になった。

 江戸の治安を守る奉行所の役人がどうしてわしなどに……

 思いついたことは一つだ。


「わしは悪党ではないぞ」

「知っております。ただ、お聞きしたいことがありまして、目を覚まされるのを待っていたのです」

「ならば起こせばよかっただろう」

「気持ち良さそうにされていたので遠慮しました」

「そうか。それは助かった」


 浮がかすかに動いた。

 同時に浮き侍の手首がさっと上下する。

 次の瞬間には、ひっぱりあげられたマハゼが宙を舞っていた。

 弧を描いてやってきたマハゼを手のひらで受け止めてびくにうつす。

 口の中の針を取るのもあっという間の手の動きであった。


「早業ですね」

「なに、漁師ならば誰でもできる」

「あなたは漁師にはみえません。少なくとも見た目は相応の武士だ」

「昔の話さ」


 片手で器用に針に餌をつけ直し、もう一度水面へ投げ込む。

 釣りの道に関してあまり詳しくない伯之進からしてもほれぼれするような手際だった。


「で、なにを聞きたいんだ。魚の礼だ。わしでわかることならなんでも話そう」

「ありがとうございます。―――昨日、隅田川のほとりで水死人を見られていたとおもいますが、覚えておいでですか」

「いくらわしが愚図でも昨日のことまでは忘れんぞ。ここ何日か釣果が良くなかったのでな、気分を変えようと上の方まで足を伸ばしてみたら、吾妻橋で野次馬がたかっておったので何かあるのかと土手から降りて見にいった。で、それがどうしたのか。岡っ引きに追いやられてすぐに離れたのから、あまりきちんと見物はできなかったが」

「そのとき、海から死体を運んだと仰られていたと思いますが、こちらも覚えておいでですか」

「ああ、確かに言ったな」

「なぜ、海から運んだと思われたのでしょうか」


 釣り侍はなんだそんなことかという拍子抜けした顔をする。

 もう少し小難しいことを聞かれるかと思っていたのだ。


「あそこにいた岡っ引きどもは、死んだ船頭が仕事の途中で誤って落水した挙句に、運が悪くて溺れたと考えていたようだったが、そんなはずはない」

「どうして?」

「川の渡しをしているような、河童と呼ばれている船頭もたまさか溺れることはあるだろうが、あいつが死んだのは海か少なくともここよりも海に近い水場だ。少なくとも死体が上がった吾妻橋傍の川辺ではない。だから、岡っ引きどもの見立ては誤りという訳だ。そんなことはすぐにわかる」


 ぴんとこないらしい伯之進に対して、


「―――海は塩辛い水で満ちている。そうするとな、海で死んだ場合、死人の眼が塩水で膨らむのよ。塩のない水ばかりの川で溺れたのとはちぃと違う。あの船頭の眼球はぼこっと膨らんでいてまるで天を睨んでいるようだった。他にも髪に小海老がついておったが、あれは海の産だった。……つまり、あいつは海で溺れ死んだということよ。海で死んだ者があんな川の上流で打ち上げられることなど、大きな津波でもない限りありえん。そうとなったら、誰かがわざわざ水死体を運んで捨てたに決まっておるだろう」


 その容姿と巨躯に不釣り合いなほどよく考え抜かれた話だった。

 海の傍で暮らして、海に知悉したものがだけがもてる知識をよく咀嚼して理解した結果だろう。

 思わず伯之進が内心感嘆して、呻いてしまうぐらいに。


「なるほど。で、誰が捨てた、と?」

「知らん。船頭が海で死んだとわかると都合の悪いものがおったのだろう。舟で夜中にでも川登りしてこっそり運んで捨てたのだろうさ」


 伯之進は立ち上がった。

 頭の中でとある図面ができあがったからだ。

 これで喉に刺さっていた棘が抜けた。

 爽快な気分だった。


「行くのかい」

「はい。御助言、感謝いたします」

「わしはたいしたことはしてないよ。むしろ、魚二匹分、貸しが多いぐらいだ」

「それではいつかまたお会いすることがあったら残りを取り立てたいと思います」

「悪くない商いだな」


 伯之進は立ち去る寸前、一度振り向き、


「私は青碕伯之進と申します。あなたさまのお名前を聞かせていただけますか」


 侍は振り向きもせず、再び浮を見つめていたが、


「わしは権藤伊左馬ごんどういさまだ、八丁堀」


『いさま』という響きを耳にしたとき、伯之進はふと海原にどこまでも続く黒い巨大な生き物を連想していた……





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