大川橋の川辺で釣り糸を垂らして、うつらうつらと眠りかけていた権藤伊佐馬に話しかけるものがいた。
目を覚ますと、南町奉行所の同心青碕伯之進が隣にいた。
「……今日は代わりに釣りをしてくれなくともいいぞ」
「探しましたよ。どうして、こんなところで釣りをされているのですか」
「なに、昨日、沖の方の雲行きが少し悪かっただろう。雨が降ったのさ。こういうときの翌日は、河口付近の魚は泥を腹に入れたりして餌の喰いが悪いんだ。だから、上流まで行くことになる」
「なるほど。船頭の水死体が見つかったときはそういうことで浅草にいたのですね」
「まあな」
納得いったという顔の伯之進。
「それで、わいつはわしに何か用があるのか」
「とりあえず、古西屋の件が片付いたのでご報告に参りました」
「なんだ、そんなことか」
伊佐馬にとってはすでに終わったことだ。
終わったことは何があろうと終わったことであり、それを何度も反芻して思い出すことなど無駄なことでしかない。
今を生きるだけの彼には明日のことさえ、随分と先のことだ。
逆に江戸の治安を守るという使命を持つ同心は斬り合いが終わったからといって、ものがすべて片付くことはない。
古西屋が死んだとしても、生き残った盗賊の子分どもの尋問をしなければならぬし、古西屋の店舗を初めとする関係各所の捜索もしなければならない。樽廻船の中に隠されていた盗品の確保、事件の証人の洗い出し、お白州での取り調べ、後始末は山のようにある。
すべてを片づけるのに七日はかかってしまった。
それでようやっと伊佐馬のところにやってこられたという訳である。
伯之進の苦労を知らん顔で釣りをしているのがやや憎たらしい。
「―――古西屋六兵衛は大阪と江戸で酒を売買する廻船問屋でしたが、同業者には評判の悪い男でした。二艘持っていた樽廻船の内一艘を難破させて積荷ごと海の藻屑となったのですが、積荷の弁償も、死んだ水夫の家族の面倒もみようとはしないでいたからなのです。この評判については私も小耳に挟んではいたのですが、廻船問屋は北町の縄張りなもので詳しくは知りませんでした」
「それがどうして盗賊などを船に匿っていたんだ?」
勝手に隣に座りこんで伯之進が語りだすと、さすがに止める訳にも行かず、聞き役に回らざるをえない。
話し出されると気になってしまうので思わず問いを発してしまった。
「正確に言うと、匿っていたのではなく、隠れさせていたのです」
「というと」
「古西屋六兵衛は大阪では名の知れた盗賊でしてね。よくまあ江戸でそれなりの商売ができたものだというぐらいの悪だったのです。十年程は真面目に廻船問屋をやっていたようですが、一艘難破させてからやはり資金繰りが厳しくなったのでしょう。昔の子分どもを呼びよせて盗賊家業を関東で再開した訳です」
伯之進は続ける。
古西屋は十数人の子分がまとまっていると奉行所に目をつけられることをわかっていたので、残った一艘の樽廻船に潜ませ、押し込みの度に外に出すという手段を使った。
江戸は水と川の町である。
いたるところに水路があるから、夜中に舟を使って移動されたらそう簡単に見つかることはない。
しかも、古西屋は両国の河童とまでいわれた船頭の長助を仲間に引き入れ、大川(隅田川)から神田川を自在に移動することを可能にした。
幕府の船を管理し、海上輸送を司る海賊奉行―――御船手頭の目さえごまかせれば、あとは好き放題に四ツ谷と市ヶ谷を荒らし回れる。
奉行所が盗賊たちの足に気が付くまではいつまでも続けるつもりだった。
そのために浅草の岡っ引き源三を抱きこみ、奉行所の同心の動向も探り続けた。
もし、舟を使っていることがばれたら、すぐにでも大阪に逃げ出すつもりだったからだ。
「……誤算だったのは、沖に嵐が起きまして、たまたま長助が樽廻船から落ちて溺れ死んでしまったことです。長助は川でこそ河童でしたが、海では手も足も出なかったようですね」
「荒ぶる海には感情があるからのお」
溺れ死んだ長助の死体を船において疫病でも発生されると厄介だが、そのまま無造作に海に捨てて、もし浜辺にでも流れ着いたら探索の眼が沖合にまで伸びるかもしれない。
古西屋六兵衛の指示のもと、盗賊たちは死体を長助の猪牙で隅田川の上流まで運び岸辺に捨てた。
後の始末は源三に任せて、それで済んだはずだった。
長助が単に仕事中に川で溺れ死んだことになれば、万が一にも盗賊たちと沖に隠れた船を、水死体に結び付けるものはいない。
もっとも、これ以上の盗賊仕事はもう難しいとみて、頃合いをみて大阪に逃げ出そうと古西屋たちは段取りをつけ始めていた……
「そこで、権藤どのの言葉です」
「ああ、あれか」
―――源三は、水死人を「海から運んできた」と看破した謎の浪人がいることをすぐに古西屋に告げた。
理由はわからないが、時間稼ぎのために古西屋たちが行った小細工を見破ったかもしれないものがいるのだ。
源三は翌日には奉行所にいき、水死人の報告がてら浪人の素性を世間話ついでに聞きだした。
伯之進は知らなかったが、奉行所には伊佐馬のことについて多少なりとも知識のあるものがいたのである。
そして、伊佐馬自身の評判は釣りばかりをしているウドの大木で無害な浪人というもので、古西屋のことをいちいち嗅ぎまわる男ではないとわかったが、念のために確認をとろうと探しだし、場合によっては始末しようとした。
だが、襲撃する直前にその伊佐馬に南町奉行所の同心が接触したことがわかる。
しかも、奉行所の中でも厄介中の厄介である青碕伯之進だった。
伯之進の実力をよく知っていた源三は破落戸を金で雇って襲う以外にないと考えた。
それだけ伯之進を恐れていたともいえる。
「……そういえばどうしてあんなところに権藤どのはおられたのですか」
伯之進が路地で襲撃を受けたときのことだ。
尾行している連中を誘い出すために、かなり不規則にあちこちを歩き回っていたから偶然とは考えられない。
もしかして伯之進を探していたのだろうか。
「いいや。あのときは、わしの周りを嗅ぎまわっていたやつがおったから気になってあとを追っただけよ。そうしたら、わいつが斬り合っていたので、まあ、手助けをしてやったという訳だ。魚の貸しもあったしな」
「なるほど。やつらは探っているつもりで、逆に探られていたということですか」
「用心深い
ぽちゃん。
今日一匹目のオイカワが釣れた。
ここまで上流に来ると釣れる魚もいつもとは違ってくる。
かなりの数が釣れそうだった。
「―――わしからも一つあるがいいか」
「なんでしょう」
伯之進の顔を見ようともしない。
実際、船頭の水死体よりも興味がないのかもしれなかった。
「わしを斬りこみに誘ったのはなぜだ。小舟を手に入れるのには手間がかかったろうが、それでもわいつならきっと一人でもやれただろう。どうしてだ」
ここで初めて同心の美貌に光が差した。
輝くようだった。
「権藤どのをお強い方と見抜きましたので」
「なに?」
「私、幼少の頃より、ただ単純に強い御仁には目がないのです」
輝くような笑顔で不気味なことを告白され、さすがの伊佐馬もどうすればいいのかわからなくなり困ってしまう。
(まったく江戸というのは変なものが多い町だ)
自分も結局流れ着いた身で勝手なことを思う伊佐馬であった。
それからしばらく伯之進は黙って隣に座っていた。
油断をすれば斬りかかってきそうなおかしな奴に傍にいられると非常に面倒くさい。
とはいえ、獲物が釣れなければ明日の食い物にも事欠く生活だ。
仕方ないな。
今すぐにとって食おうというものでもあるまい。
さっさと諦めて釣りを続けるしか伊佐馬の選ぶ道はなかった……
第一話 完