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第11話 睦言


「旦那は―――どうして江戸になんて来たんだい? ここはあんた向きの町じゃないよ」


 伊佐馬がわざわざ持ってきた筵の上で、赤銅色の分厚い胸にしなだれかかりながら、お堀は言った。

 もう何度も肌を重ねた結果、ふたりの肉体はかなり馴染んでいる。

 あくまで夜鷹とその客という関係でありながら、お堀は伊佐馬のなんともいえない力強さに溺れていたともいえる。

 なぜなら、いつも文無しに近い浪人からほとんど銭をとろうとしないのだから。

 これまでに伊佐馬が支払った銭は四十文ほど。出会いのときにお堀が口にした二十四文の二晩分にもたりない程度だ。寝た回数を考えると、お堀の行動は傍から見て只働きか安売り以外のなにものでもなかった。

 最下級の私娼である夜鷹から値切るというのは、武士としてどころか男としてもかなりみっともない行いである。


 もっとも伊佐馬の方はあまり気にしていない。

 銭を稼いだらすぐにでもこれまでの貸しもすべて返すつもりであるが、ここ最近は特に運が悪く金が稼げないだけなのだ。

 必要な時期に至れば、お堀を散々抱いた分の銭は耳を揃えて返済する。

 武士に二言はない。

 そう確信していた。

 それに……


「そもそもわしは別にわいつに会いにここまで来ている訳ではないぞ」


 伊佐馬としては釣り場をかえて上流の方にたまたま上ったときに出会う、馴染みの夜鷹でしかないのだ。

 金があるときもあるし、ないときもある。お堀に会えるときもあるし、会えないときもある。

 吉原へ女郎を抱きにいく男どもと違い、そもそも女目当てではないのだから金をもっていなくて当然だというのにお堀の方から伊佐馬を見つけてやってくるから寝ているだけなのだ。

 お堀に会おうとしてきているのではないのだから、銭の持ち合わせがなくても仕方のないことだと言えよう。


 だいたいにおいて伊佐馬はそういうことを言って夜鷹を呆れさせてきた。

 お堀という夜鷹自身が客を見つけて、川の中から上がってくることによってできる関係だからということもあり、伊佐馬を見つけてわざわざ声をかけてしまうお堀が悪いといっているようなものである。


「旦那は勝手だねえ」

「そうか」

「文無しのくせにそこまで威張るお武家様はあまりいないよ」

「昔は持っていたぞ」

「はいはいよっと」


 胸筋を枕にしているお堀の髪をかき上げ、


「わいつ、吉原では辻々に燈火がおかれ、夜になっても仰天するほど明るいのを知っておるだろう」

「……ええ、まあ、わたしも春をひさぐ女ですから吉原のことはよーく知ってますよ。で、それがどうしました?」

「あれには鯨油を使うのだ」


 闇の夜も吉原ばかり月夜かな


 という其角の句がある。

 吉原では辻々に燈火が灯され、田舎から来たものはまるで満月の夜なのかと驚いてしまうというもので、その燃料として重宝されていたのが鯨油であった。

 同様に用いられていた菜種油に比べても廉価であり、他の魚脂より臭いがきつくなかったというのが選ばれた理由であるらしい


「鯨油……ねえ」

「わしは若い頃に鯨を獲っておったから、その儲けを随分とちょうだいしたもんだ」

「そういえば旦那はよく勇魚いさなの話をしますねぇ」

「ああ、嘘だとでも思っておったのか」

「いいえ。―――昔のことを話す旦那はいつもわたしを見もしないので、本当のことだというのはよくわかっておりましたよ」


 お堀の口調にはわずかだけ悪意があった。

 男と女の事後の語らいで自分のことを忘れられるのは、屈辱以外のなにものでもないというのが悪意の原因だ。

 情交をかわして余韻の熱に浸っていて冷めやらぬ中、抱かれたばかりの男に放っておかれるのはさすがにいい気分はしない。

 憎たらしくて嫌みの一つもいいたくもなる。

 そんな女の機微に気が付くほど伊佐馬は敏感ではないのだが。


「鯨油はな、一頭仕留めればだいたい百石(18キロリットル)は採れる。はらわた、骨と皮、皮の下の脂、骨までも小さく切ってな、大鍋でぐつぐつと煮るのよ。鍋が冷えると油とロウに分かれる。この油を樽につめて江戸やらに売るのさ」

「へえ」

「ロウの方は蝋燭にするとなかなかよい品になるのだ。これも同じように高く売れる。……鯨一頭を獲れば村一つが十分に潤い、十頭なら城下町一つ。天和の元年に、太地で大鯨が九十五頭も獲れたときは、それはそれは大騒ぎになったもんだ。太地の大庄屋である角右衛門どのの屋敷には千両箱が山のように積まれていたほどだからな」


 鯨漁というのは危険もあるが、それだけ儲かるということだ。

 ただ、伊佐馬は銭を手に入れたことよりも、過去の血沸き肉躍る思い出に浸っているようだった。

 青春時代という二度とやってこない高い酒に酔っていたのかもしれない。


「……旦那が銭を持っていたなんてとてもじゃないけど信じられない。てほじゃないんですか?」

「まあ、わいつの言う通りにわしの手元にはまったく残らなかったがな。去年の今頃には一文無しよ、旅をする種銭もなくなっていた」

「旦那が江戸にきたのって、その頃?」

「そうだ」


 お堀には伊佐馬の後ろに海が見える。

 怒涛の飛沫、渦巻く波、鼻孔を刺す潮の香り、荒ぶる巨獣。

 見たこともないそれらの雄々しい光景がよく似合う男であった。


 しかし、彼女の知る限り、伊佐馬はもう二度とその世界には戻る気がないようだった。

 血涙を流すほどに狂おしく願いながら、もう何があっても帰ることはしない。

 激しい情交の果てにお堀が知ったのは、伊佐馬のそんな閉塞しきった精神であった。

 だからこそ―――お堀は金もとらずに伊佐馬と寝続けたのかもしれない。


「―――旦那も江戸には向いてないよ。この町は海が狭いからさ」

「わかっている。江戸には海と呼べるものはないこともな。さて、もうひと頑張りするか」

「待って。……いえ、またね」


 奇妙な夜鷹と過去に縛られた侍がいつもよりも深くつながろうとしたとき、お堀は突然立ち上がった。

 いつものように枯れ木にかけておいた襦袢もとらずに、そのまま川の中に飛び込んでいく。


「お、おい」


 伊佐馬の方を見もせずに、お堀は背を向けて泳ぎだした。

 いや、伊佐馬を見ないのではなく顔を背けていたせいだということを察した。

 隅田川を泳ぎ去るお堀とは逆方向の土手に視線をやる。


 武士が一人こちらを見ていた。

 浪人ではなくどこかの藩勤めのものだろう。

 それにしては剣呑な雰囲気をまとっている。

 武士は伊佐馬を一切見ずにぷいと振り向くとそのまま道を歩いていく。


「わしではなく、お堀を見ておったのか?」


 伊佐馬は裸のまま胡坐をくむ。

 すでに隅田川の水面のどこにも馴染みの夜鷹の姿はない。

 夜中ということもあるが、常日頃から神出鬼没の行動をする女なので、もしかしたらまだその辺にいるかもしれない

 だが、少なくとも伊佐馬のところに戻ってこようとする気配はない。


「まえからどうにもけったいな女だと思っておったが、やはり訳ありか。しかし、このまま放っておくのも目覚めが悪いな」


 そう呟くと、自らもざぶざぶと川の中に入る。

 もちろん、お堀がどこにいったかはわからない。

 初対面のときもそうだったが、泳ぐときにほとんど音もたてず飛沫も上げないので痕跡が見つからないのだ。

 そうなると、伊佐馬のできることは知恵を巡らすことだけである。


「―――海と違って隅々まで知り尽くしているとはいえんが、まあ、追うことぐらいはできるだろう」


 伊佐馬は隅田川の中央までゆっくりと水をかきだした……





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