「その夜鷹は、客の男が河原に一人でいると大川(隅田川)の中から現われて、誘うんだそうでさ。白い襦袢一枚だけの格好で、首には客が支払った文銭の穴に紐を通してかけている。手に持っていると泳ぐときに邪魔になるからでしょうね。事情を知らない男は女をみてあやかしだと怖気づいて逃げちまうが、噂で聞いているもの好きなんかは銭を払って抱いちまう。なんでも、夜鷹とは思えねえぐらいの若さでしかも艶っぽいとくるから嫌いじゃねえ男なら堪えきれないんでしょうや。そして、おしげりが終わると銭を受け取ってまた川の中に戻っていく。だから、ついた評判が河童の夜鷹でさあ。河原で相撲を取っていると混ぜて貰いたがる河童の子守り咄そのままってことですな」
岡っ引きの徳一が語ったのは、そういう噂だった。
女房一筋で色里にも興味のない徳一にとって、この妙な話はたまたましいれた情報の一つにすぎず、本来ならば特に必要な知識でもないとすぐに忘れてしまっているところだ。
だが、馬喰町で見つかった夜鷹のふりをした女の死体を前にしたとき、どういう訳か脳裏に浮かんできた。
十手を預かるものとしての長年の勘だったのだろう。
この勘が働いたときは、えてして推理が大筋から外れたことはない。
「……どうして、この女が、その河童の夜鷹だと思ったんだい?」
「この死骸、夜鷹にしちゃあ、若すぎるじゃないですか? このあたりでよく口の端に昇る夜鷹の中でもこれぐらいの女盛りはそうはいねえ。ほとんど大年増のババアばかりなんですから。となると、たまたま若い夜鷹が殺されたというよりは河童の夜鷹がやられたという方が辻褄があうんじゃねえですかい」
「なるほど。では、この死体がその河童の夜鷹なら、川を泳ぐのに邪魔だろうから筵は持ち歩いたりはしないはずだよね。少し探してみようか……」
結局、死体の持ち物らしい夜鷹の商売道具である筵は見つからなかったが、伯之進はその際に女の足の裏がとてもきれいなままなのに気が付き、女陰を改めて、夜鷹である可能性が薄いという事実を突き止めたのである。
ただし、徳一の勘も軽んじていいものとは思えない。
経験を積んだ岡っ引きの勘働きを無視することはできなかった。
だから、伯之進としてはその河童の夜鷹を調べてみようと思い立ったという訳である。
―――もっとも、その手がかりになりそうなものをこの大柄で謎の多い友が握っているとは思いもよらなかった。
河童の夜鷹の話を振ったときに、見間違いようのない鋭い眼光を発したことを見逃さなかったのである。
しかも、あの反応から見てただ噂として聞いているという段階を過ぎ去って、個人的に見知っているのは確かである。
二人の間には沈黙が続いた。
(いかに私でも権藤さん相手に口を割らすのはさすがに荷が重い。脅しなんて一切効かないだろうし、拷問の類いだって笑って堪えそうだ。なにより、私には権藤さんをなんとかできる器量がない。さて、どうするべきか……)
伊佐馬の口をどうやって割らせるか、伯之進が思案しだしたとき、当の大男が漸く口を開いた。
「わしをひっかけたようではないな」
「そんなつもりはありません」
「だろうな。顔に出した、わしのしくじりだ」
「目だけでしたよ」
「それだけで諸々読み取る男が居る。しくじり以外の何ものでもないさ」
どうやら、伊佐馬としては珍しく反省をしているらしい。
自分のしたことに後悔などする男ではないが失敗を失敗として認め反省することはできるのだ。
伯之進の言葉に必要以上に反応してしまったのは彼らしくないこと、という訳である。
「権藤さんが河童の夜鷹という女のことを知っていることはわかりました。しかも、酒の肴の噂話程度ではないくらいに
これは、話すかどうかということを尋ねているのだ。
伊佐馬の反応から、少なくとも無闇に口にしていい話題ではないということは明らかである。
事情はまったくわからないが、ここで権藤伊佐馬と面倒な関係になることは避けたい。
友であるということをさておいて、奉行所の同心としてもこの奇妙な男を野放しにしておくのはよくないと感じていた。
「
きぶいは厳しいということである。
伊佐馬がやりたくないことをするときによく使う方言だった。
どこの言葉かはわからない。おそらく伊佐馬が産まれたという紀州のものだろう。
「―――なら、やめましょう。どうせ、この一件は別の山から火が点く。私と権藤さんがもめるほどの話じゃない。それでいいですか」
「燃えだしそうな話なのか」
「なりますね。もし、権藤さんが関わったときお役に立つ話として一つだけ伝えて、あとはいつも通りに酒の相手をしていただきましょう」
伯之進としては、ここで伊佐馬を介さなくても事件を探索できる自信がある。
今日の夜鷹(のふりをした女かも知れないが)殺しの下手人を追うための材料はまだあるのだから。
「そないことをして、いいのか」
「いいですよ。―――馬喰町で夜鷹がひとり殺されました。おそらく夜鷹の格好をしているだけの女でしょうがね。手口は何らかの術で首の骨を折るというものでした。これだけです。あとは明日から奉行所で探索が始まってからとなるでしょう」
「……わかった。礼を言う」
そして、二人は互いに酒を注ぎあい、いつものように飲み始める。
一刻半ほど飲み交わしてから、珍しく伊佐馬が金を出してお開きになった。
◇◆◇
翌日、報告を終えて南町奉行所をでると、伯之進のところに徳一がやってきた。
表門のところで待っていたらしい。
岡っ引きは公儀から十手を与えられてはいるが、滅多に奉行所の中にまで立ち入らないし、入ったとしても同心詰め所ぐらいのものだ。
同心に用事がある場合は、特に同心についた小者でもなければ、たいていは表門の反対側にある茶屋の長床几に腰をかけて待っているのが普通であった。
「青碕さま」
「私を待っていたのかい? もしかして昨日の殺しの一件かな」
「へえ。青碕さまの見立て通り、やはりあの死骸は夜鷹ではなかったようでさ。それと夜鷹屋の女衒にも当たりましたが、着物も筵も貸した覚えはねえとのことです」
「……河童の夜鷹という女のことは? それだと縄張り荒らしにならないのかな」
「それも知らねえと言ってました。手間かけて探り出しもしなかったとまで。あいつらにとってのしょば荒らしをしているといっても、まあ、夜鷹に縄張りなんぞあるんだかないんだかわかりませんから、たいして気にはしていなかったらしく、どういう素性の出なのかもわからねえとのことでさ」
最下級の売春婦である夜鷹を管理しても意味がない。
奉行所として取り締まりに手が回らなかったため、遊郭の吉原のものたちを利用して隠れた私娼たちの摘発をしていたが、夜鷹についてはこちらも放置しているというのが現実であった。
要するに夜鷹は江戸という町に暮らしていても、その枠外に生きているといっても過言ではなかったのである。
当然、殺されたとしてもさほど気にはされない。
今回の一件も、しばらく探索して下手人が割れなかった場合、子細なしとして放置されて意図的に忘れられる可能性もあった。
ゆえに探索は急いで執り行う必要がある。
「殺しの現場を通りがかったものはいなかったのか」
「そいつがいれば、おれのところに真っ先に来るでしょうが、今のところ、誰も」
「女の方からは手掛かりなしか」
「商売女じゃないとするなら、尋ね人の願いがでるかもしれねえのでそちらをあたってみやす」
「ああ。頼む」
「あと、青碕さま。まだ裏を取っていねえのですが、一つだけ」
まるで昨日の自分のようだと思いながら、伯之進は続きを促がした。
「河童の夜鷹のことですが、どうも馴染みの客がいたそうです」
「馴染み?」
「へえ。河童の噂をきいて買いにくる助平どももけっこういたようですが、銭を払って寝たという客はあまり数はいなかったそうです。どうも、客を選んでいたそうで一晩ひとりだけということもよくあったらしいでさ。で、その中でよく河原で一緒にいた客の一人が、その……まあ……真っ赤に日焼けした大男の浪人ものだということでした」
この二人の知己にそんな男は一人しかない。
「たぶん、あの旦那だと」
「まあ、あの人だろうね」
(やはり、有無を言わさず関わってくるよね)
そう伯之進は内心でほくそ笑んだ。