荻野たち浪人は、すでに朱鷺の釘千本の投擲術を知っている。
ひとりはその身で実際に味わってもいた。
道場名誉の腕前といっても、飛来してくる手裏剣を刀で撃ち落とすなどということは至難の真似だ。
だから、浪人たちは朱鷺の釘千本対策として刀を八双に高く掲げ、左腕で顔面を覆った。
当然、咽喉という急所を守るために顎は引く。
胴体こそがら空きになるが、釘千本の殺傷力程度ではよほど運が悪くない限り、致命傷には至らないと踏んだのである。
そして、一足飛びに刀の間合いまで入り込めば、脇差相手なら圧倒できる。
三人は朱鷺のことはひとまず無視し、兄の佐吉から始末することに決めた。
佐吉の構えは堂にいったもので、少なくともただの町人ではないことが明らかだ。
油断をすれば手痛いしっぺ返しを喰らう。
だが、逆に考えれば油断さえしなければいいだけのことだ。
三人の武士が同時に襲い掛かかり一太刀でも与えればそれで終わる。
非力な娘の投げる刃物などものの役に立たな―――
「ぐっ!!」
荻野の右脇にいた天真正伝神道流の剣士がつんのめった。
通常の発想の構えよりも刀を高く掲げ気味であったため、無様に上半身から地面に激突する。
飛び道具対策に顔面を覆い、視界を極端に狭くしていたこともあり、鉋で木版を削るように土煙をあげる。
何かに蹴躓いた動きでもなく、明らかに不自然だった。
つまずいた本人とてわかっていなかっただろう。
剣士の自爆を演出したのが朱鷺の打った釘千本によるものだと。
釘千本は五寸しかなく重さも足りない。
奇襲か、急所に命中させるしか、効果をあげることができない武器だ。
取り柄といえば、携帯のしやすさと掌に隠すことで刺突にも使えるという利便性だけである。
だから、相手に気づかれた場合、荻野たちがやったように簡単に対策されてしまう。
現代の日本では完全に廃れてしまい、隠し術として承継している流派もまずないほどだ。
だが、この時代ではまだまだ十分に使い勝手のいい武器であった。
荻野たちは普段と違い、袴の裾を引き上げていた。全速力で走ることと暴れやすくするためである。
本来、袴とは足の動きを隠す意味合いのある着物であり、足首から先もほとんど晒されることがない。
だが、股立ちをとることで、走るときに袴に邪魔をされないという利点があるが、同時に足が露出することにもなる。
つまり、無防備になることと同じなのだ。
そして、朱鷺はそこを狙って打つことのできる技量の持ち主であった。
精密な機械のように打たれた釘千本は、左足の甲で一番高くなっている楔状骨の部分―――現代でいうとインステップの位置を射貫いた。
ちょうど左足で着地した瞬間、全速力の最中であったことから一たまりもなく浪人は地面へと飛び込んでいくことになったのである。
このせいで浪人は鎖骨と肋骨の数本を折る大怪我を負うことになってしまい、結局のところこの戦いからは脱落することになった。
敵のひとりを自爆させた朱鷺であったが、残った二人にまで釘千本を打つことはできなかった。
すでに間合いに侵入されてしまっていたからだ。
兄の影にすっと隠れる。
これで荻野と残ったひとりの相手は佐吉がすることになった。
奇しくももう一つの組み合わせと同じ二対一の状況。
大店の奉公人と野犬のごとき浪人の対決であった。
「きぃぃえええ!!」
鐘巻流の激烈な気迫。
荻野は柳生新陰流三学圓之太刀のうち
実は荻野喜千郎は、道場こそ違え、青碕伯之進と同門だったのである。
二つの異なった太刀筋が佐吉を襲う。
佐吉には権藤伊佐馬の如き、剛剣はない。
どちらかの刀を弾くか、折るか、そんなことは不可能だった。
だが、佐吉には伊佐馬とは異なる武術の力があった。
脇差を右手に持ち、半身に構えたその姿は刀のあたる面を減らすための策ではなかったのである。
それは左脚の踵に重心を乗せ、爆発的な震脚の一歩を踏み出すための下準備だったのだ。
佐吉は脇差を握りしめて、その刃を振るうことなく、ただまっすぐに拳を突きだした。
降りかかる剣林をものともせずに突っ込んで、腰を鋭く回転させ、敵を拳で撃ち抜く。
脇差を振るうのではなく握ったままの拳で脇腹を打たれ、自分自身の加速がそのまま打撃力に結びついたせいでやられた浪人は呼吸が完全に止まる。
肋骨が何本か砕けたのは間違いない。
しかも、佐吉の腕が届くほどに密着されたせいで、荻野が一度振り切った刀を逆袈裟で斬りあげることができなくなる。
仲間ごと斬り捨てるという非道を選べなかったのだ。
佐吉の左手が荻野の左袖をとった。
胸にひきつける。
刀を離すわけにはいかないので、丹田に力を込めて耐えた。
そこで佐吉が力を緩めると、先ほど耐えきった分だけ重心が乱れる。
(柔術だと!?)
荻野が意識できたのはそこまで。
佐吉の右拳が腹に食い込み、間髪入れずにもう一発、そしてトドメとばかりにまっすぐな肘の一撃。
電瞬の早業であった。
素手での殴り合いなら荻野とて何度も経験している。
殴り殺す寸前までいったこともあった。
しかし、顔だけが取り柄の男でしかないと舐めきっていた手代の、かつて感じたことのないほどの重く強烈な打撃をまともに食らって立ち続けることもできなかった。
そのうえ、踏み込みとともに上から叩き下ろすような拳固の痛み。
荻野はまたたくまに失神した。
まさに意識を刈り取られたかのようなやられ方であった。
「―――っ」
自分で仕留めた二人が気を失っているのを確認し、朱鷺の釘千本にやられて自爆した浪人の首を絞めて落としてから初めて佐吉は伊佐馬達の方を見た。
どちらも刹那の攻防で無傷のまま勝負がついている。
六人の浪人すべてが無様にも気を失って倒れているという有様であった。
加えて、これだけの激しい戦いであったというのに死人のひとりもでていない。
圧勝といっていいだろう。
「助太刀、かたじけねえっス」
佐吉は伊佐馬のもとへ近づき、頭を下げた。
垢ぬけた公家のようにいい男であったが、口調はかなり伝法だった。
しかも、いざとなれば本気の浪人ふたりを無傷で撃退する武術の持ち主だという。
どちらもお互い初対面だ。
伊佐馬の方こそ、佐吉が札差吉井屋の手代であるということは知っているが、手代はくじら侍のことなど知るわけがない。
だが―――
「新心流とは……弥太郎どののお弟子か」
「なといせ、師匠のことを……」
「紀州訛りもあるとはのお。もしや、紀州藩の出か、わいつ」
佐吉が顔色を変える。
江戸にでてからこれまで自分たちの兄妹の素性に気づかれたことはないからだ。
丁稚として雇われていた吉井屋治兵衛に対しても単に上方の産まれだとしか教えていない。
これまで必死に隠してきたものを、まさか身に着けた柔術で見破られることになるとは……
「ここしばらくは柔術に縁があるな。仙台の柳生心眼流にわしの故郷に近い新心流。次は何かのお、楽しみになってきたぞ」
「……なといせ、わいの技が新心流だと……」
「当身からの当身、そして肘。確か、先代の関口柔心どのが若い頃に陳元鬢とかいう明の武術家に学んだ大陸の技だろう。確か―――拳法とかいうはずだ」
「よお知ってまんな」
「なに、わしもあのあたりの産まれよ」
佐吉の警戒心が緩む。
いまだなにものかはわからないが、同郷というだけでだいぶあたりが変わってくるものだからだ。
しかも、六人の浪人のうち半分を止めてくれた。
いかに佐吉でも、六人を相手にしていたらどこかで斬られていただろう。
得体が知れないもののやはり恩人であることに変わりはない。
「怖い顔をするな、別にわしはわいつを取って食ったりはせん。―――おい、欣次、こっちにきて、わがらが悪党の類いではないことを説明してやってくれ」
さっきまで親分として認めていてくれたようだったのに、荒事が終わったらすぐに「欣次」に逆戻りかよ、と若い岡っ引きは不満タラタラの顔でやってきた。
どのみち、佐吉が仕留めたらしい荻野たちはさっさと縛りあげねばならない。
あと、兄妹がどうしてこんな不逞の浪人どもに狙われたのか、その理由も聞きだす必要がある。
今回は命を救ってやったが、この佐吉という手代がもし守るに値しない悪だとしたら、こっちもお縄につけないとならないのだから。
「あれあれ、さすがは権藤さんですね。随分と派手にぶちのめしたものです―――おや、これは権藤さんのやり口ではないですね……欣次でもなさそうだし」
佐吉を尋問しようとしたとき、提灯を持った伯之進が闇の中から姿を現した。
すぐうしろに、痩せ瓢箪のような見覚えのある若い男を手縄で引っ張っている徳一の姿がある。
若い男は、吉井屋の手代省吉であった。
「そこの若いのがやったのだ。なかなかにいい腕前だったぞ」
「へえ、まだ小僧みたいな歳なのにやりますね」
佐吉より何歳も若造のくせに自分を棚に上げる伯之進であった。
「八丁堀の旦那っスか。いや、どうしてこんなところに」
ようやく江戸言葉に戻って佐吉が問う。
すると伯之進は、
「とりあえず真相は掴みましたよ。まったく色恋沙汰が絡んでくると、どんな年齢の女でも厄介なことですね」
珍しく呆れたような疲れたような顔をするのであった。