陽は高く、熱く熱く肌を焼く。
雲一つない蒼穹に吸い込まれるようだ。
眼下に広がる大海原も空と同様に広い。
天も海もすべてが抱きかかえられないほど大きく、誰の眼にも収められるほどに小さい。
そんな不思議な錯覚に囚われそうだった。
二十隻の漆塗りの舟はすでに海上を弧状に散開し、列の中央には目立つように突出した一番舟がついていた。
舟に乗る猟夫のことを沖合いといい、一隻につき十五人ほど乗り込んでいる。
さらに、反りのついた長く黒い舳先に立つ、男が一人。
赤銅色に焼かれた肌と、太い四肢、それを支えるのに相応しい分厚い胸板を持った巨漢であった。
男は刃刺頭。
それぞれの舟の舟長を刃刺といい、海の上でも陸の上でも長として振る舞うことが許される、男たちである。
中でも勢子舟に乗って直接に挑むことになる五人の刃刺は別格扱いされていた。
彼らを束ねるのが、刃刺頭でこの二十隻余りの船団を率いるものであった。
船団の後ろには島の陰に隠れた小さな港と密集した家屋があった。
舟の母港であり、それを操る男たちの住処の村であった。
ほら貝の鳴り響く音が聞こえる。
切り立った崖の上にいる山見番からの合図だ。
遠眼鏡をつかっても黒いしみにしか見えない獲物を教えるためであり、同時に一番の勢子舟からもほら貝が鳴る。
西に獲物がいると旗の色で山見番が伝えてきた。
あの旗の色や種類で今回の獲物がどのような種類なのかを教え、それをみて最適な鯨狩りを行うのがここの浜のやり方であった。
ただ、今回ばかりは普通ではない。
なぜなら、揚がった旗が黒一色であったからだ。
つまり、「わからない」ということである。
山見番が見つけた獲物がどんなものなのかはわからないなどということは普通あり得ない。
彼ら山見番は事情によって船に乗ることができなくなったものが就く場合が多く、それだけ鯨にも詳しい。
上から見下ろして種類が分からないということはないはずだ。
ただし、船乗りたちはそういうこともあると判断した。
実際に、艫の先には獲物―――巨大な海棲生物が泳いでいる。
感覚でわかる。
ならば、臨機応変に行こうではないか。
今の時期だと、おそらくセミクジラだろう。
マッコウクジラはもう少し季節が巡らないとやってこないから、セミということに仮定してだいたいの示しを合わせる。
浜にも旗が上がった。
村の長からの「漁をはじめろ」という指令だった。
大納屋、鯨始末、採油などの後処理の係の支度も整ったということである。
そこから、はじめて漁が始まる。
あとは、彼らの領域だ。
勢子舟、網舟、樽舟、道具舟が連絡を取り合い、仲間の動きを観察しながら、水軍のように臨機応変に呼応して連動する。
まず動くのは、網を張る網舟である。
これが獲物を捕えるための網を打合せ通りに広げていく。
次に勢子舟が続く。
鯨の通路にあたる地点で張り番をし、鯨を待ち受け、発見すると接近し、追走する。
まだまだ通常の半分の数しか揃っていない勢子舟だが、そのぶん訓練を重ねて、連携はよく取れている。
刃刺になった男たちの立場からしても、よく鍛えられているといえた。
「やっと、でてくるぞ!」
海面に渦を生み出し、長い潜水をやめて獲物が浮上した。
鯨も生物であるため、呼吸のために二十分に一度ほど浮上する。
この獲物は信じられないほど呼吸をしない珍しいやつであった。
それでも勢子一番舟の頭は的確に予想して、鯨を網へと追い込まなくてはならない。
判断を誤れば逃げられる重要な役回りである。
「なといせ!」
浮上してくる獲物を睨みつけていた漁師たちは目を丸くした。
頭上に巨大なものがさしかけられた。
誰もが鯨の手羽かと思った。
だが、手羽にしては長くそして振り下ろされない。
鼻腔に奇妙な臭気が潜り込んできた。
鯨のものとは違う。
吐き気のする深海からの匂い。
例えるのならば腐った死骸の死臭。
その臭いの元は頭上にあった。
なんだ?
この海上にいたすべての沖合いが天を見上げた。
滝のように水を滴らせた貌があった。
十五尺(約五メートル半)以上の高みに。
口がせり出し、横に裂けた口が三日月のように広がっていて、そこから無数の牙がのぞいている。
人間を飲み干せそうな大きく四角い頭をしてどんよりとした光る目をもって海上を睥睨する……例えるのならば大蛇。
だが、大蛇にはこんな鯨のようなでかい胴体はなく、四肢が手羽になっているということもない。
口の中にずらりと並んだ鋭い剣山のような牙もない。
咬まれて毒を流し込まれるのではなく、噛みつかれて咀嚼されるための歯並びであった。
尋常な生き物とは思えない、妖気すらも感じさせる。
そいつに睨まれるだけで沖合いたちは腹の底から震え上がった。
「いがん、こいつから離れっど! 底上がりじゃ!」
水面に白い気泡が上がってくる。
鯨が海底から浮上して意図的に舟を転覆させようすることを底上がりという。
刃刺たちの命令に従い、水主たちが止まっていた手を動かし漕ぎ続けようとしたとき、
「り、りゅ、竜じゃあああああ!」
見習いの一人が叫んだ。
同時に、それが合図であったかのようにもう一本の海蛇が海の下から跳ね上がり、強烈な波を発する。
その煽りを受けて、一艘の船がなすすべなく転覆していった。
一番勢子舟であった。
銛を打つ為にちょうどいい距離をとっていたことが仇になったらしい。
ひっくり返されて、底をさらした一番船の乗員たちが浮上してくる。
刃刺頭の姿は見えない。
つまりは、船団を操る頭脳が停止したことを意味する。
沖合いたちは恐慌状態に陥りかけた。
彼らは自分たちを沈めたのが、もう一匹の海蛇などではなく、このいつまで海の上からわがらたちを睨みつけるこの大蛇の尻尾であることを察していた。
そして、もう一つ。
皆が理解していたのは、狂ったような見習いの叫びが的を射ているということを。
海面が揺らぐような衝撃とともに、また一艘転覆する。
今度は二番舟。
鯨漁については他の追随を許さない猛者たちの乗る舟が相次いで転覆したのだ。
これで船団の指揮系統は分断された。
各舟ごとの独自の判断が要求されることになる。
だが、そんなものが通用する状況ではない。
全員に恐怖が伝染し、あっというまに総崩れするだろうとき、
三番舟から放たれた銛が、巨獣の眼に突き刺さった。
「おお、見ゆっと!」
竜が痙攣した。
そして、かすれ気味の咆哮をする。
長い頸からの水飛沫が周囲に撒き散らかされた。
隙が生まれたといっていい。
もしも、いつも同様に、鯨が対象の場合ならば、漁の継続よりも転覆した舟の救助を優先するのが掟である。
対象の鯨を逃がしてしまうことによって、人を警戒する個体―――恨み鯨を放ってしまうおそれもあるが、人命重視が漁師たちの掟なのだ。
しかし、今日は違う。
目の前の竜は、沖合いたちを敵と認識しているようだった。
怯む様子すらない。
猟ではなくいくさ。
これは殺すか殺されるかの境地に至っていたといえる。
それほどまで目の前の竜は凶暴そのものなのだ。
戦わなければ殺される。
だが、血に慣れているとはいえ、沖合いは兵士ではない。
戦うためにもきっかけが必要だった。
そのとき、
「かかれぃ! かかれぃ!」
先ほどの銛を投げた三番舟の刃刺が刺水夫から受け取った銛を、まるで槍のように振り回した。
これは捕鯨のための叫びではなかった。
戦場で侍大将がやるべき鼓舞であった。
怯懦を捨てよ、背を見せれば死ぬぞ。
男はそう喚いていたのだ。
この刃刺は、武士でもあったのだ。
「かかれぃ! かかれぃ! いかねば、死ぬぞ! かかれぃ!」
刃刺―――権藤伊左馬が吼えた。
竜のものよりももっともっと強かったかもしれない。
鼓膜も破れんばかりの大音声であった。
だが、それだけで沖合いたちは奮い立った。
血を流すにしても、それはこの化け物の血であって仲間たちのものにしてはならない。
手に手に、銛と剣を握り、沖合いたちは長く太い頸に挑みかかった。
そして、沖合いたちと竜のかつてない死闘が始まった……