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第34話 くじら侍


 新宮藩の江戸上屋敷は、市ヶ谷浄瑠璃坂にあった。

 後の幕末に、大老井伊直弼と組んで徳川家茂を十四代将軍にするのに全力を注いだ水野土佐守忠央の出身藩でもある。

 もともと水野家は、徳川家康のいとこを祖にもつ名門であるため、初代重央のとき、家康の命により頼宣付きのお守り役にさせられた。

 とはいえ、直参としての誇りを強く持っていたため、御三家である紀州藩の付家老であるため、新宮水野家は幕府から陪臣の扱いをうけてきたことに不満があったという。

 これについては、二代重良が「三万五千石よりも、直参旗本の二千石」と、あくまで徳川家の直臣であることを切望して付家老職を継ぐのを拒否したこともあるほどである。

 新宮家の財政は、熊野三山貸付と富籤でふくれあがった潤沢な資金と良質の熊野炭で賄われていた。

 新宮産の炭はとても評判がよく、江戸に海路を使って年間十万俵も送られ、江戸の炭相場を左右したともいわれている。

 新宮炭を満載した藩船は、黒潮に乗って、丹鶴城下の炭納屋に集められ、新宮河口の池田港、あるいは鵜殿港から江戸へと航行した。

 御手船といわれた藩船は港に常時五十隻も停泊し、六百石積みの船で、一航海に二千俵を廻送した。

 このとき、海を越えて運ばれた熊野材は、江戸の木材需要の三割にも達したと言われている。

 この黒潮が、北方から鯨も運んでくるため、太地のような鯨を専門とする漁港が発達したのである。

 ある意味では、新宮藩を支えていたのは黒潮であったのかもしれない。


「―――江戸詰めになっていたはずの加判家老松井誠玄は幾日か前に国許に帰ったようですね。上屋敷のものは誰も姿を見ていない」


 御用のついでといって、新宮藩の上屋敷に入っていった青崎伯之進は、しばらくしてから外で待っていた権藤伊左馬のもとへやってきた。

 さすがに知人を警戒しているのか、はみ出てはいたものの珍しく物陰に隠れていた。

 そこで、伯之進が対応に出た用人から聞いたという話を披露した。

 用人からすれば、奉行所の同心が屋敷に入ってくるだけでも忌々しいと感じることがあるというのに、それが人気のない加判家老についてとなったら、逆に舌がよく回りだしたのである。

 伯之進がわざわざ水を向けなくてもぺらぺらと喋った。


「数年前に新宮領で何かあったらしく国許に居られなくなったのか、江戸家老としてやってきたらしいのですが、めっぽう評判が悪く、もともと江戸詰めだった家臣たちと激しく対立していたようですね」

「そうだろう。清濁のうち、濁りばかりを好む男だった。似たようなもの以外とはうまくやれるはずがない。それすら危ういがな。―――だいたい最初は恐縮そうな顔をしているが、煮ても焼いても駄目な食わせ者だとすぐにわかる。江戸には新宮のときと違って、近くに親しい海賊衆もおらんしな。おそらく、どれほど勤めたとしても味方は少なかっただろう」

「その味方も、あなたにやられて潰走する羽目になった、と。それではさっさと逃げ出すわけですね」

「陸に上がれば水軍は役に立たん。となると、あやつの行く先は一つか」


 そう言い放つと、伊左馬は踵を返した。

 伯之進も後に続く。

 行き先は、どうやら深川の江戸湊のようであった。


  ◇◆◇


 伊左馬の長屋が襲撃されたあと、二人は表の路地で腰を抜かしていた浪人―――葛西悌二郎を捕まえた。

 そして、簡単な尋問ののち、襲撃を命じたのが江戸上屋敷にいる加判家老松井誠玄であることを吐かせたのである。

 吐かせること自体は簡単だった。

 すでに伊左馬と伯之進の鬼神めいた喧嘩を見てしまった後であり、さらにいえば悌二郎自身、気絶するまでぶん殴られた経験がある。

 そのため、伊左馬の顔を見ただけでわずかに震え上がってしまった。


「―――ご家老に貴様のことをお知らせした。とても驚かれておった。しばらくしてから、ご家老のお部屋に呼ばれ、貴様をなんとしてでも連れて来い、叶わぬ場合は切り捨てろという命を受けたのだ」


 悌二郎は抵抗もせずに口を開いた。

 八丁堀の同心である伯之進がいたせいもある。

 もし、今回の騒ぎで奉行所が動けば大事になり、新宮藩すべてに責任が及ぶ。

 いかに直参旗本の家柄でも幕府に目を付けられるのはまずい。

 せめて、松井誠玄だけのせいに留めねば、葛西家の浪人を解除してもらって藩士に取り立ててもらうこともできなくなる。


 それに、さっきの狼藉ものたちは松井誠玄がどこからか集めてきた不逞の者どもだ。

 あんな騒ぎをおこしたのもすべて松井の責任といえる。

 案内をしただけで、襲撃にも加わってもいない悌二郎に咎はない。

 と、そんな勝手きわまる計算をした結果である。


「おい、悌二郎。わいつ、松井誠玄の助っ人をしたこやつらが、どういう氏素性のものか知っておるのか」


 悌二郎同様、縛り上げられて土間に転がされている男のことを彼はよく知らない。

 単に、今日の真夜中に命令の通りに向かった廃寺で落ち合った荒くれものうちの一人でしかないのだから。

 ただの破落戸でないことはさすがにわかっていた。

 かといって細かく問いただして、結果として松井誠玄にいらぬ告げ口をされるのも避けたかったので黙っていた。


「し、知らん。俺はご家老に命じられて案内しただけだ」

「だが、わしを連れて来いとも言われたのだろう? ときによっては殺せと。なにも存じ上げぬとはいかんぞ。それに、なぜ、わしが竜珠を持っておると言った」

「そ、それはご家老が……」

「まあまあ」


 伯之進が二人の間に割って入った。

 珍しく伊左馬が熱くなりかけている気がしたのだ。

 いつも飄々としたこの大男らしからぬ態度であった。


「権藤さんはこいつらの氏素性はわかっているのでしょう? どういう奴らなんです?」


 伊左馬は眼を閉じて、少し考えをまとめてから、


「熊野水軍の生き残りだろうな。人を襲う手際が良すぎる。ただの船乗りでもなく、海賊というにはよく動いていた。……あの有り様からすると、えせ倭寇のようなことをしているようだが」

「源平の世にいた熊野水軍ですか?」

「そうだ。おそらくは、間違ってはいないだろう。しかし、これで松井誠玄の後ろ盾がわかったというものだ」

「なんでしょう」

「やがらは水軍の出だ。太地の角右衛門どのと反りが合わぬのも納得よ」


 そう呟くと、伊左馬は立てかけてあった銛を手にする。


「久しく忘れておったが……」


 銛先はいつも寝刃を重ねて切れ味を失わないようにしていた。


「わしは鵜殿のものどもを好いとうたようだ」


 なかったことにするには、まだ早すぎたのかもしれなかった。


  ◇◆◇


 深川の江戸湊には、各藩からさまざまな舟が集まってくる江戸の一大交易地であった。

 北前船、千石船、樽廻船、菱垣廻船が沖に留まり、伝馬船や高瀬舟が陸地との間を行き来する活気ある土地だ。

 伊左馬自身はこの貿易地には興味がなかったが、知己の数人はいる。

 そのうちの一人に尋ねると、何日か前から随分と古い関船を改造した千石船が錨を下げていたという。

 関船とは、海上の関を破る船を追撃することから名付けられたといわれる、水軍が使用する軍船である。

 速度を上げるために船体が細長くなっているのが特徴で、積荷を運ぶ船でもあることから積船と称されることもあった。

 この時代、廃業した水軍上がりの廻船問屋もあることから、港に入ることは黙認されているが、当然のこととして武装は許されていない。

 一目見て関船とわかることも禁じられていた。


「そいつはどこだ?」

「そういえば姿が見えねえな。一昨日あたりにはいたんだが」


 礼を言うと、伊左馬はその怪しい元関船がいたという海を見つめた。

 数多くの舟、あまり馴染みのない船が並んでいる。

 だが、その中には龍虎華形を彩色し五色爛然たりと謳われたほどの、豪華絢爛な捕鯨のための勢子舟はない。

 あの漆塗りの派手派手しい舟の船首に立つ刃刺になることが沖合いたちの夢だった。

 かつては伊左馬も同じ夢を持っていた。


「権藤さん」


 彼を心配してついてきた伯之進が声をかけた。

 ずっと黙り込んでいる友を気遣っている。

 今思うと、随分と世話になったと思う。

 伊左馬はこの年少の友がいてくれてよかったと心底感謝していた。


「伯之進。―――わしは故郷に戻る。やらねばならんことがあった」


 いつかはその日が来るだろうと伯之進は思っていた。

 どうやら、それは今日だったらしい。


「鯨を捕りにですか」


 少し軽口を叩きたくなった。

 この無骨な大男は太平の江戸の世で、伯之進の生き方を黙って隣で見つめていてくれるという安心感を抱かせる稀有な友だった。

 どうやればあなたを殺せるか、そんな夢想を語っても平然と受けて立ってくれそうな器のでかさに惚れていたのかもしれない。


「捕鯨は一人ではできん。男たちが必要だ。別して強い男たちがな」

「新宮に戻ってもその男たちは待っていませんよ」

「だから、刃刺は廃業したのさ。わしが用があるのは、」


 そういって、海へと続く道を西へと伊左馬は歩き出した。

 腰に江戸に現れたときにも持っていた小刀だけを指して。


「また、くるよ」


 そういって、陸に上がっていたくじら侍は、再び海へと孵っていく。

 伯之進はいつまでも飽きることなくその大きな背中を見つめていた。



                     「陸のくじら侍」完

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