「君との婚約を解消する」
王太子アルバート・フォレスターは、いつしか悪女と呼ばれるようになってしまった自身の婚約者、セラフィーナ・オールディス公爵令嬢に静かにそう告げた。
大勢の視線がセラフィーナへと注がれる中で、セラフィーナは目を閉じ無言でその言葉を受け入れた。
王太子であるアルバートが告げたのは、ただそれだけのことだった。
平民でありながら、親しげにアルバートの傍に寄り添うミラベル・バレットはもっと多くのことを期待していた。
多くの人が集まるこの場で、全てのセラフィーナの悪事がつまびらかにされ、いかにセラフィーナが極悪非道な悪女だったかを皆が知るようになること。
そして、セラフィーナが皆が見ているこの場で、断罪されること。
だが、アルバートはミラベルが期待するようなことは何もしなかった。
そこには、国王の姿もあったが、同様にセラフィーナに罰を与えるようなことは何もしなかった。
セラフィーナはこの場では、ただ、王太子との婚約を解消されて終わっただけだった。
(これからは、王家と関わることなく、ただ静かに暮らせ)
アルバートは心の中でそう呟いて、セラフィーナに背を向けた。
公爵家に生まれたセラフィーナ・オールディスは、人生のほとんどを王家に捧げたといっても過言ではない。
彼女と、まだ王太子となる前のアルバート・フォレスターとの婚約が決まったのは、両者がともにわずか6歳の時のことである。
それからというもの、セラフィーナの両親は、身も心も王家に捧げ、王家に尽くすように何度も何度もセラフィーナへと言い聞かせ、セラフィーナもそうあるようにとひたすらに努力を重ねてきた。
婚約が決まって少しすると、王妃教育というものが始まった。
セラフィーナのためだけの教育の準備が王宮に整えられ、セラフィーナは頻繁に王宮へと通う日々を送るようになった。
そこまでしていただいているのだから、身を粉にして勉学に励まなければならないと言われ、それに応えるためにセラフィーナは毎日必死だった。
時には身につくまで時間がかかってしまい、泊りがけや、長期滞在してまでも、厳しい教育に耐えなければならないこともあった。
けれど、全てはわざわざ自分のために用意されたのだからと、セラフィーナは寝る間も惜しんで必死に学んだ。
気がつくと、セラフィーナの日々から『遊ぶ』という行為が消え去っていたが、そんなことに気づく余裕すらセラフィーナにはなかった。
国王も王妃も、正直なところそこまで厳しい教育がセラフィーナに対して行われることを望んだわけではなかった。
なぜなら、アルバートに対して、国王夫妻はそこまで厳しい教育を課してはいなかったから。
時には遊びからも、学び得ることがたくさんある、というのが二人の教育方針であった。
セラフィーナに対して王宮に通い勉強できるように準備した理由も、アルバートとともに過ごす時間を増やし、2人の仲が深まればと考えたにすぎなかった。
難しいことは、もっと大きくなって覚えればいい、少なくとも王宮にセラフィーナを招いた頃の国王夫妻は、そう考えていたはずだった。
しかし、それを許さなかったのがオールディス公爵夫妻である。
いずれ王家に嫁ぎ、王太子を補佐する立場となる娘に、そのような甘い教育ではいけないと何度も訴え、教育を担当する教師たちでさえ厳しすぎると思うほどの厳しい教育を望んだ。
教師の中にはもう少し易しくと考えた者もいたが、常にオールディス公爵夫妻の目が光っており指導の手を緩めることを、決して許そうとはしなかった。
結局、セラフィーナの実の両親の意向を国王夫妻といえど完全には無視できず、セラフィーナだけが王宮で厳しい教育を受けることになってしまったのである。
セラフィーナが10歳になる頃には、大人顔負けのマナーや知識を身に着けていた。
もう教えることがないと言う教師もいれば、後に通うことになるアカデミーでも学ぶことがないだろうと言う教師もいた。
どの教師も、非常に優秀だとセラフィーナを褒めてまわった。
しかし、それでも尚、オールディス公爵夫妻だけは、まだ足りない、王家のためにもっと勉強が必要だとセラフィーナに強く言い続けた。
そのため、セラフィーナは自身が多くのことを身につけられたという実感を得られることもなく、ただ王家のために身を粉にして勉学に励む日々は、決して終わりを迎えることはなかった。
また、この頃、国王は側妃を迎え入れた。
いずれ王位を継ぐアルバートに兄弟を、国王はずっとそう望んでいたのである。
しかしながら、身体の弱かった王妃との間に、なかなか2人目を授かることができなかった。
そこで、側妃を迎え、側妃に子を生ませようと考えたのである。
側妃として選ばれたのは、実家が借金に追われて苦しむ令嬢だった。
借金を肩代わりする代わりに、未来の王となるアルバートの味方となる兄弟を生んで欲しいと言われ、その令嬢は迷うことなく承諾した。
当然、そこに愛など微塵もないただの契約にすぎなかったのだが、王妃は決してそうは捉えることができなかった。
国王が若い娘に心変わりしてしまったのだと、自分にはもう愛はないのだと思い込んでしまい、王妃は次第に心を病んでいってしまった。
そして、側妃を迎えて2年が経った時のことである。
この国に、念願の第二王子が生まれた。
しかし国王がそのことに喜ぶ一方で、その頃には、王妃の心は完全に壊れてしまっていた。
国王にも、側妃にも、生まれてきた第二王子にさえその気はないというのに、王妃はアルバートから王太子位、ひいては王位を奪われるのではないかと、常に疑っては発狂した。
そして、いつしかその全てを受け止めるのが、セラフィーナの役割となってしまった。
王家のため、身も心も全て捧げるのがセラフィーナの役目、散々両親に口を酸っぱくしてそう言われ続けたセラフィーナは、王妃が当たり散らす相手として最も都合がよかったのだ。
セラフィーナは理不尽な要求を、王妃から多々受けるようになっていく。
アルバートを常に影で支え、アルバートが誰よりも優秀で王位を継ぐに相応しい人間なのだと、誰もが思うようにしなければならない。
一方で、セラフィーナがどれほど優秀であっても、決してアルバートより優秀だと周囲には思わせてはならない、と。
そういった目的の要求を多々受け、セラフィーナはただ黙って従うしかなかった。
また、気に入らないことがあるたび、王妃はセラフィーナを呼び出し、当たり散らした。
しかし、これもまた、セラフィーナは黙って受け入れるしかなかった。
王家のために尽くすことしか教わってきていないセラフィーナは、王族に何をされようとも、ただ黙って耐え忍ぶことが自身の役目なのだと信じて疑わなかったから。
そんな、セラフィーナに、唯一安らぎをくれたのは、国王だった。
国王は時折セラフィーナをお茶に招き、珍しいお菓子を振る舞ってくれた。
「アルバートの分はないから、内緒だよ?」
そう言って、茶目っ気たっぷりに笑いながら。
この瞬間だけは、セラフィーナは心から笑うことができている気がしていた。
だからこそ、油断していたのかもしれない。
「セフィ、どうしたんだい?元気がないね」
両親でさえ呼ばない愛称を、国王だけがいつも親しみを込めて呼んでくれた。
優しい表情、優しい声、優しい空気、セラフィーナはその全てに甘えて、つい言ってしまった。
「最近、王妃様が、厳しくて……」
たった一言だった。
だがその一言が、王妃の、そしてさらには自身の両親の怒りまで買ってしまう。
国王はセラフィーナを思い、すぐに王妃に忠告をしてくれたのだ、セラフィーナに厳しくしすぎないように、と。
しかし、それで王妃が心を入れ替えるようなことはなく、よりにもよって国王に告げ口をしたとセラフィーナを責め立てた。
国王が自身から離れ、ますます側妃にばかり目を向けるようになってしまう、と不安と怒りを覚えた王妃は、その全てをセラフィーナにぶつけたのだった。
また、甘えを許さないセラフィーナの両親は、よりにもよって国王を頼った上、王妃の気分を害すとは、とセラフィーナを叱責した。
セラフィーナは、ほんの少し甘えてしまったことを、非常に後悔しながら涙を流して耐えるしかなかった。
この日以降、セラフィーナは国王の元でも心安らぐことはなく、決して失言をしないようにと常に気を張るようになり、いつしか心から笑うことができなくなってしまった。
時折会うことがあっても笑みすら浮かべないセラフィーナとアルバートが親密な関係になることもなく、2人はただ親が決めた婚約者同士という関係のまま、15歳を迎え、アカデミーへと入学することになる。