鳥のさえずりが聞こえる。
朝の光が、まぶたをやわらかくくすぐった。
──まさか、また朝が来るなんて。
ゆっくりと瞼を開けると、そこは知らない空間だった。
白い漆喰模様の天井。真鍮の装飾がきらめくシャンデリア。厚手のベロアのカーテンが窓を覆い、差し込む光がやわらかく部屋を満たしている。
(……ここは?)
起き上がろうとした瞬間、腕の細さに息を呑んだ。
白く、小さな手。指先を動かすと、かすかに震えながらも、意識どおりにちゃんと動く。
その感覚が現実を告げていた。
慌てて立ち上がり、部屋の隅に置かれた姿見に駆け寄る。
そこに映ったのは──高校の時の私。
長い黒髪を肩で結び、まだ幼さの残る顔立ち。
目を凝らしても、そこには16歳頃の「松山結衣」が立っていた。
(……これ、私?)
呼吸が荒くなる。手で頬を押さえると、鏡の中の少女も同じ仕草を返す。
確かに、これは夢なんかじゃない。
そのとき、ノックに続きドアがそっと開いた。
「恵美様! ようやくお目覚めになりましたか」
初老の執事が駆け寄り、安堵したように微笑む。
続いて、エプロン姿のメイドも「恵美様」と呼びながらタオルを手にして近づいてくる。
(……恵美? 私のことを、恵美と呼んだ?)
頭が混乱する。
結衣だったはずの私は、なぜか「恵美」と呼ばれていた。
(恵美……? 誰? 私じゃない。私は松山結衣のはず……)
思考がぐるぐると空回りする。
胸の鼓動は速すぎて呼吸と合わず、喉がひどく乾いていた。
“恵美様”と呼ばれるたびに、体の奥がざわつく。
耳の奥で自分の名前──「結衣」が何度もこだまし、どちらが本当なのか分からなくなる。
手を握りしめる。けれど、そこにあるのは細く白い手。
鏡に映った16歳の少女の顔と、記憶の中の25歳の自分。
まるで心と体が別々に存在しているみたいだった。
答えを探すように視線をさまよわせると、ベッド横のテレビがふと目に入った。
リモコンを手に取り、スイッチを押す。
映し出されたのは朝のニュース番組。
画面の隅に並んだ数字に、心臓が止まりそうになった。
──2016年5月9日。
アナウンサーの声が流れる。
「続いてのニュースです。先月の熊本地震から一か月、いまも避難生活を送る方々が多く、復旧作業は長期化する見通しです。ゴールデンウィーク期間中は全国から多くのボランティアが集まりました」
「一方、アメリカ大統領選は民主党のヒラリー・クリントン氏、共和党のドナルド・トランプ氏がそれぞれ支持を広げ、11月の本選挙に向けて候補者指名争いは最終局面を迎えています」
(……トランプとヒラリー? そんなの、ずっと前の話だったはずなのに……)
思わず息を呑む。
(うそ……私、10年前に戻ってる?)
声は震え、胸はざわめき、足元から力が抜けていく。
あの事故で終わったはずの命。
脳裏に光景がよみがえる。
赤信号を無視して突っ込んできたトラック。
裂けるようなブレーキ音。
ガラスが砕け、破片が宙に散った瞬間。
そして──隣で私に手を伸ばしたドンジュ課長。
届きそうで届かなかった、その指先。
視線が重なったとき、時間が止まり、心臓が爆発しそうなほど脈打った。
でも、言えなかった。
本当はあの瞬間、ただ一言でよかったのに。
(……好きです)
たったそれだけの言葉を、伝える前に私は終わった。
(確かに、私はあそこで……終わったはずなのに)
でも今、私は確かに生きている──。