翌日、チェックアウトを済ませ、ドンジュと結衣は空港行きのタクシーに乗り込んだ。
朝9時。台湾桃園国際空港へ向かう、1時間ほどの道のり。
運転手の男性が後部座席の確認を終えると、何か中国語で話しかけてきたが、よく分からず笑って返した。
車内には中国語のポップソングが静かに流れていた。
***
信号が青に変わった。
車は交差点を曲がり、大通りへと出る。
その瞬間だった。
右手側から、何か大きな影が迫ってきた。
──え?
視界の端に映ったのは、巨大なトラック。
信号無視。
急ブレーキの裂ける音が迫ってきて
そして──衝突。
鈍い衝撃音とともに、タクシーのボディが跳ね上がった。
フロントガラスが砕け、無数の破片が空中に舞う。
……だけど。
そのすべてが、まるで“止まって”見えた。
キラキラと、朝陽を受けて輝くガラス片。
ふわりと浮かび上がるショルダーバッグ...
運転手の腕が宙に伸びたまま固まり、自分の髪が風に広がる。
しかし、音はなく風もない。
時間も、ない。
その
自分の身体が、シートから浮かび上がり、
天井が地面よりも近くに見える。
天地がぐるりと反転しているのに、なぜか恐怖はなかった。
そして隣には、ドンジュ課長の横顔。
眉間に深く皺を寄せ、咄嗟に私の方へ腕を伸ばそうとしていた。
その手が、指先わずかに届かぬまま宙に凍りついている。
──届かない手。
二人の視線がぴたりと重なった。
時間が止まった世界で、ただその瞳だけが私を確かに捉えていた。
何も言えなくても、何も届かなくても、互いに目を離せない。
まるで最後の合図のように──心臓が強く脈打った。
──ああ……これが、死ぬってことなんだ。
浮かんだ言葉に、不思議と冷静に頷けた。
体はどこまでも軽く、遠く、遠く、沈んでいく。
***
静寂の中。
まるで、水の中に沈んでいるようだった。
音もなく、光もなく、重力も消えていた。
それでも、意識だけははっきりと残っていた。
そして、記憶が流れ始める。
彼と初めて出会った日。
部署異動の朝、コピー機の前でぎこちなく挨拶を交わしたこと。
一緒に資料を作った夜、さりげなく差し入れてくれた缶コーヒーの味。
打ち上げの席で、酔ったふりをして彼の隣に座ったこと。
彼の左手薬指の指輪に、目を逸らしたこと。
全部、覚えてる。
忘れられない。忘れたくない。
──ドンジュ課長。
名前を呼んでも、もう声にならない。
私は、あなたが好きでした。
ずっと、好きでした。
たった一度でいいから、「好き」って言いたかった。
それすら、叶わなかった。
私のこの想いは、どこへ行くの?
せめて、もう一度だけ。
もう一度、あなたに出会えるなら。
やり直せるなら──今度こそ、あなたの隣を歩きたい。
そのときだった。
何かが、パチンと弾けたような音がして──
世界が、白く塗り替えられた。
すべての痛みも、すべての願いも、その白の中に溶けていった。