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第3話 届かない手

 翌日、チェックアウトを済ませ、ドンジュと結衣は空港行きのタクシーに乗り込んだ。

 朝9時。台湾桃園国際空港へ向かう、1時間ほどの道のり。


 運転手の男性が後部座席の確認を終えると、何か中国語で話しかけてきたが、よく分からず笑って返した。

 車内には中国語のポップソングが静かに流れていた。


 ***


 信号が青に変わった。

 車は交差点を曲がり、大通りへと出る。


 その瞬間だった。


 右手側から、何か大きな影が迫ってきた。


 ──え?


 視界の端に映ったのは、巨大なトラック。

 信号無視。

 急ブレーキの裂ける音が迫ってきて


 そして──衝突。


 鈍い衝撃音とともに、タクシーのボディが跳ね上がった。

 フロントガラスが砕け、無数の破片が空中に舞う。


 ……だけど。


 そのすべてが、まるで“止まって”見えた。


 キラキラと、朝陽を受けて輝くガラス片。

 ふわりと浮かび上がるショルダーバッグ...

 運転手の腕が宙に伸びたまま固まり、自分の髪が風に広がる。

 しかし、音はなく風もない。

 時間も、ない。


 その瞬間ときだけ、世界が完璧に静止していた。


 自分の身体が、シートから浮かび上がり、

 天井が地面よりも近くに見える。

 天地がぐるりと反転しているのに、なぜか恐怖はなかった。


そして隣には、ドンジュ課長の横顔。

眉間に深く皺を寄せ、咄嗟に私の方へ腕を伸ばそうとしていた。

その手が、指先わずかに届かぬまま宙に凍りついている。


──届かない手。


二人の視線がぴたりと重なった。

時間が止まった世界で、ただその瞳だけが私を確かに捉えていた。

何も言えなくても、何も届かなくても、互いに目を離せない。


まるで最後の合図のように──心臓が強く脈打った。


 ──ああ……これが、死ぬってことなんだ。


 浮かんだ言葉に、不思議と冷静に頷けた。

 体はどこまでも軽く、遠く、遠く、沈んでいく。


 ***


 静寂の中。

 まるで、水の中に沈んでいるようだった。


 音もなく、光もなく、重力も消えていた。

 それでも、意識だけははっきりと残っていた。


 そして、記憶が流れ始める。


 彼と初めて出会った日。

部署異動の朝、コピー機の前でぎこちなく挨拶を交わしたこと。

 一緒に資料を作った夜、さりげなく差し入れてくれた缶コーヒーの味。

 打ち上げの席で、酔ったふりをして彼の隣に座ったこと。

 彼の左手薬指の指輪に、目を逸らしたこと。


 全部、覚えてる。

 忘れられない。忘れたくない。


 ──ドンジュ課長。


 名前を呼んでも、もう声にならない。


 私は、あなたが好きでした。

 ずっと、好きでした。

 たった一度でいいから、「好き」って言いたかった。


 それすら、叶わなかった。

 私のこの想いは、どこへ行くの?


 せめて、もう一度だけ。

 もう一度、あなたに出会えるなら。


 やり直せるなら──今度こそ、あなたの隣を歩きたい。


 そのときだった。

何かが、パチンと弾けたような音がして──


世界が、白く塗り替えられた。

すべての痛みも、すべての願いも、その白の中に溶けていった。

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