食事を終え、クライアントと別れた。
「僕はもう一件、軽く行くから先にホテルに戻っていいよ」
「あ、そうですか?」
結衣はもう少しドンジュと一緒にいたかった。
「あのう、私もついて行っていいですか? せっかくの台湾だし」
「いいけど、スナックなんだよね、おじさんが行くような。 あ!別にいやらしい店じゃないよ。台湾の果物を出してくれるやさしいママさんがいるいい店だよ。」
「わ、台湾のパイナップルやアップルマンゴー、有名って聞きましたよ」
「それはよかったね、きっと気にいると思う」
ドンジュの声に導かれ、大通りから一方通行の七条通へ入った。
夜の七条通は、スナックや日本料理の日本語看板が並んでいて日本語があっちこっちで聞こえてきた。賑やかな通りだけどなんか落ち着く。
異国で出会う日本語に結衣はなぜか安心感を抱いた。
ヒールの音を気にして歩く結衣の横で、ドンジュはさりげなく歩幅を合わせてくれる。肩が触れるか触れないかの距離で並んで歩くたび、心臓が落ち着かなくなる。
「台湾に来ると、よくこの道を通るんだ。なんか台湾でもなく、日本でもないこの曖昧さがなんとなく心地いいんだよね」
彼の低い声が夜の空気に響き、灯りの温かさと重なって、私の胸をじんわりと満たしていく。
五分ほど歩いた先に、ネオンが柔らかく灯る店が現れる。
── スナック「沙都美」
メンバーズオンリーの標識と店内を覗かせない重いドアは近寄ってはいけないという雰囲気を漂わせていた。
その重いドアを開けると、来客を知らせる鐘の音がした。
「いらっしゃいませ。あらー、キムさん。久しぶり」
「お久しぶりです。今日は会社の綺麗なお嬢さんと出張に来たので」
「こんばんは」
「いらっしゃい。珍しいね。キムさんいつも一人。あなたが初彼女?」
「いや、彼女じゃないです。部下です」
「わかってるわよ、ふふ」
50代の小柄な女性──“沙都美ママ”は満面の笑顔で迎えてくれた。
カウンターに座ると、常連客たちの談笑が心地よいBGMになる。
ドンジュは自然な笑顔で先客と挨拶を交わしていた。
(こんな店、初めて……)
自分では決して訪れない空間で、彼と並んでいる。それだけで胸が高鳴る。
「おつまみ、どうする?」
「青葉っぱでいっぱい食べたから、果物でお願いします」
「ちょうどアップルマンゴーが入り始めたよ。甘くておいしいよ」
入口の重い扉とは裏腹に、ここは温かい空間だった。
気づけば2時間があっという間に過ぎていた。
「今日は付き合ってくれてありがとう」
「いいえ、すごく楽しかったです」
店を出てホテル前まで歩き、彼が立ち止まる。
「今日は楽しかったよ。ありがとう」
ドンジュは、ほんの一瞬だけ、結衣の目を見た。
その黒い瞳に自分の姿が映っていることに気づいた瞬間、結衣は息を呑む。
そして、口元に微笑みを浮かべて、ドンジュが言う。
「じゃあ、おやすみ」
──心臓がまた高鳴った。
この鼓動がまさか最後になるなんて、思ってもいなかった。