風に流れる砂のように名の失われた世界。
ヒスミル大陸東の果てに所在するミスティア国の町・ルビアはつい数日前、雨期を終えたばかりだった。いたるところでみずみずしい新芽が芽吹き、砂漠より吹き渡る熱風は町の中央に位置する町長の館へたどり着くころには忘れた清々しさをとり戻す。
枝葉のさざめきは銀の鈴を
肺を焼く熱気ばかりはどうしようもなかったが、それすらも風情であるというように、このときルチアは自室の出窓に身を乗り上げたまま、気持ちよくまどろんでいた。
床に右足が落ちて、崩れた膝には手入れ済みの
あとわずか、ほんの少し
葉の隙間をぬって届く木漏れ陽を弾いて鈍色に光るそれが、ゆらゆら揺れながら閉じたまぶたに強い反射光を当てたとき。ようやく、ルチアは眠りから戻ってきた。
「……ん……」
夢うつつのまま首を振って、まだ残る眠気を振り払う。
いつの間に眠ってしまったのか……ぼんやり記憶の切れ目を振り返りながら前髪をかき上げると、かたんと音がして、とうとう魔導杖が床に転がった。何気に拾い上げようと手を伸ばし、うす暗い室内にはっとなる。
太陽は、とうに真上より移動していた。
仰ぎ見た空に忌々しげに舌打ちを入れる。すっくと立ち上がり、乱暴な手つきで魔導杖を腰帯に差しこんだルチアは、まっすぐドアへ向かい、部屋を出た。
やばい、すっかり遅れてしまっている。
わざとではないにせよ、祝いの席に遅れて着くのは少々罰が悪い。
出しなに椅子の背からもぎ取ってきた上着をはおりながら、陰った廊下をできる限り早足で歩く。
着慣れているはずの
先走ってあせるだけの気を静めようと、とにかく頭をふるう。
脇に挟んでいるのは、この日のために用意しておいた物だ。
3つ下の上級退魔剣士ソジュールが、2年に渡る交際期間を経て、このたびめでたく結婚の運びとなったのである。
リロイと2人して「先を越されたな」と笑い合いながらひそかに準備したこれには、婚約祝いのべールの受渡書が入っていた。
取り寄せに思ったより時間がかかってしまい、現物は間に合わなかったが、これでも十分喜んでもらえるだろう。なんといっても最上級品質のキサラでできた逸品だ。
同僚として7年も付き合いながら、いざあらたまって手渡すのはなんとも気恥ずかしいものがあり、贈呈役を押しつけあったりもしたが、こうなると案外自分に決まってよかったかもしれない。これを見せれば今回の失態も、まあ大目にみてもらえるだろう。
……つくづく貧乏性な考えだ。
26にもなった男がこれとは。われながら情けないと目を伏せながら角を曲がった直後である。
突然何かが胸に飛びこんできた。
「きゃっ……」
ぶつかって弾かれ、短い悲鳴を発した柔らかなそれは、反射的につかんで引き戻してしっかり抱きとめたルチアのおかげでからくも横の壁に頭をぶつけることを回避する。
ほうっと互いにひと息つきあって、それから相手を見あった。
右手に開けた庭園から入ってくる斜陽に、琥珀が燃えるような光を弾く、印象的な瞳と栗色の髪をした少女だった。
ふっくらとした頬をしているので幼く見えるが、まず20歳は越えているだろう。
どうも見覚えのある気がする。
服装からすると中級侍女のようだけれど、この館には数十人いるのでこれというのが思いあたらない。
ルチアは考えこむが、彼女の方はそうする必要もなかったようである。
さもありなん。ルチアなど退魔師は町中を捜しても10を数えられず、中でも『剣師』あるいは『剣士』の称号を持つ者は5人しかいない。
「剣師さま!」
彼を見上げるなりそう叫び、彼女は桃色の頬を朱に染めて口元を両手でおおった。
「も、申しわけありませんっ、よそ見をしておりました!」
ばっと飛び退くように離れて距離をとると、急いで頭を深く下げてきた。
陽差しを避けるベールが白く光って、まぶしさに目を細める。
「いや、こちらも注意不足だったから。すまない」
とにかく顔を上げるように頼むが、すっかり
いくらこの町の守護を受け持つ退魔師とはいえ、そこまで敬服されるほどの者でもないんだが……。
この恐縮しまくっている女性にそれをどう伝えればいいのかさっぱり見当がつかず、ただきまりの悪さにぽりぽり鼻の頭をかいていたら。
はっと何かを思い出した表情でいきなり彼女の背が正された。
「あの、剣師さま。この辺りでお嬢さまをお見かけしませんでしたか?」
切羽詰まった問いかけに、「ああ」と、やっと思いあたる。
この館で『お嬢さま』と呼ばれる存在は1人しかいない。
そうだ、カナンさま付きの侍女の中で見かけたんだ。
想起した記憶の中には、カナンの後ろに従って歩く侍女の1人としての彼女の横顔が、おぼろげながらあった。
「……いや、見ないけど」
腑に落ちて、すっきりした胸で答える。
このとき、実をいうと彼女の死角にある柱の後ろに光る髪飾りを見た気がしたのだが、あえてそれは言わなかった。
「そうですか……」
ほうっと期待のしぼむ溜息をつくと困ったように頬に手をあてる。
一体どこへ消えたのか、行方を思案する表情や仕草がまたやたらと幼く見えて、ついつい笑気がこみあげた。
「大分手をやいてるみたいだね」
かといって本当に笑うのは失礼だ。奥歯で噛み殺すことに苦労しながら言う。
「あ、いえ。そんな……。
お嬢さまのお気持ちも分かりますもの。まだ6つになったばかりなのに、お勉強や礼儀作法で一日中追われて。
私の弟など、10でたった半日の習い事も嫌がって、よく逃げ出しておりましたわ。その連絡を受けるたびに母が
くすくすくす。笑ってその時のことを思い出しながら話す途中、ルチアの身支度の意味に遅れて気付き、またもやぺこりと頭を下げた。
当のルチアはといえば、彼女の豊かで屈託ない表情にすっかり見入っており、そういえば急いでたんだっけ、などとまるで他人事のように用事を思い出す始末だ。
「すみません、失礼します」
数歩歩いてもう一度頭を下げて礼を尽くす。そうして背を向けるなり、彼女はルチアが現れた廊下へ向けてぱたぱたと駆けて行った。
きょろきょろ庭の方に目を配りながら爪先立って進む、己の安全というものをまるで考慮に入れていないその足取りは、見ているこちらのほうがはらはらしてしかたない。目を放すに放せなくて見送っていたら、案の定、曲がり角にある柱に早くも額をぶつけていた。
生来からドジっ子なのか、それともルチアに失礼をはたらいたと思いこんで、あせっているのか。
よほどその背に向かい、気にしないでいいよと言ってやりたかったが、そういった手合の言葉はへたをすればますます彼女を畏まらせてしまうような気がして口に出せない。
ぱたぱたぱた。走り去る軽い足音も消えたあと。腰に手を添え、おもむろに髪飾りの見えた柱へと向き直る。
「カナンお嬢さま。そこにいらっしゃいますね?」