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江戸転生カフェ 〜借金まみれの娘ですが珈琲で天下取ります〜
江戸転生カフェ 〜借金まみれの娘ですが珈琲で天下取ります〜
みにぶた
歴史・時代江戸・幕末
2025年08月25日
公開日
5.5万字
連載中
現代のカフェ店主・田中美咲は、過労で倒れた瞬間に命を落とした。 次に目を覚ましたのは――江戸時代の商人の娘、お春の身体の中。 焼け出され借金を背負った家、行き場を失った少女の前に現れたのは、蔵に眠る南蛮渡来の「珈琲豆」。 馴染みのない異国の飲み物を、江戸の町に広められるのか? 呉服屋の娘としての記憶と、カフェ経営の経験を武器に、彼女は“日本橋初の珈琲茶屋”を開店する。 人情あふれる町人たちとの出会い、和菓子職人との協力、そして老舗茶屋からの圧力――。 一杯の珈琲が、江戸の街を変えていく。 江戸とカフェ文化が出会う、転生グルメ×商売繁盛ストーリー!

第1話 「転生と覚醒」

 胸を突き刺すような痛みが走った瞬間、田中美咲の手からカップが滑り落ちた。


 白い陶器が床で砕け散る音が、やけに遠くに聞こえる。視界が霞み、膝から崩れ落ちる身体を支えることもできない。カウンターの端に爪先が当たり、鈍い痛みが足首を駆け抜けた。


 ああ、だめだ。


 まだ常連のお客様が待っている。明日の仕込みも終わっていない。店を閉めるわけにはいかないのに。


 薄れゆく意識の中で、最後まで珈琲の香りが鼻をかすめていた。深いロースト香と、わずかに残るエスプレッソマシンの湯気。二十八年の人生で最も愛したその香りと共に、田中美咲の心臓は静かに止まった。



「お春、お春」


 誰かが自分を呼んでいる。


 耳の奥でこだまする優しい声に、意識がゆっくりと浮かび上がってくる。身体が水の底から引き上げられるような、不思議な浮遊感。まるで温かな湯船に包まれているような安らぎがあった。


 瞼が重い。鉛でも詰まっているかのように、なかなか開かない。


 やっと目を開けると、見覚えのない天井が視界に入った。


 茶色い板張りで、煤けた梁が走っている。隅には蜘蛛の巣が張り、古い木と香の匂いが鼻をくすぐった。畳の目が細かく、い草の青い香りがかすかに漂っている。


 ここは、どこだろう。


「お春、気がついたかえ」


 振り返ると、着物姿の年配女性が心配そうにこちらを見つめていた。


 丁寧に結い上げた髪、皺の刻まれた優しい顔立ち。紺地に小花模様の着物を品よく着こなし、まるで時代劇から抜け出してきたような、年輩の女中の姿だった。


「あなたは……」


 口を開いた瞬間、違和感に愕然とした。


 自分の声が、やけに高く響く。こんな声だっただろうか。喉に手を当てると、細い首筋の感触。肌は驚くほど滑らかで、これは確実に自分の身体ではない。


「お松でございますよ。もう三日も熱を出して、どれほど心配したことか」


 お松と名乗った女性が、湯呑みを差し出してくる。素焼きの湯呑みから、薄い茶の湯気が立ち上っていた。


「少し水分を取りなされ」


 湯呑みを受け取ろうと手を伸ばして、息を呑んだ。


 小さく華奢で、指先まで細い。二十八年間見慣れた自分の手ではない。これは、まるで十代の少女の手だった。爪は丁寧に手入れされ、手のひらには働いた跡もない。


 心臓の鼓動が早くなる。何かがおかしい。すべてがおかしい。


 辺りを見回すと、畳の上に小さな手鏡が置いてあった。銅製らしく、くすんだ光沢を放っている。恐る恐る覗き込んで、思わず息が止まった。


 鏡の中に映っているのは、十六歳ほどの美しい少女だった。


 大きな瞳、整った鼻筋、桜色の唇。切れ長の目元に上品な面立ち。田中美咲の面影など、微塵もない。見知らぬ顔が、自分と同じように瞬きをしている。


「これは……」


 震え声でつぶやく。手鏡を持つ手も、小刻みに震えていた。


 現実を受け入れることができない。自分は確かに死んだはずなのに、なぜここにいるのか。なぜ違う顔をしているのか。


「夢なのですか」


「夢ではございませんよ。お春様は確かに生きておいでです」


 お松の言葉が、混乱に拍車をかけた。


 田中美咲の記憶ははっきりとある。過労で倒れたカフェのカウンター、胸を刺すような痛み、そして暗闇へと落ちていく感覚。


 死んだのだ。確実に死んだ。


 けれど、同時に別の記憶も頭の中に浮かんでくる。江戸の町で生まれ育った記憶、商人の娘として過ごした日々、最近起きた大火の恐怖。煙の匂い、避難する人々の悲鳴、真っ赤に燃え上がる炎。


 二つの人生が、同じ頭の中で渦を巻いている。まるで絵の具を混ぜるように、記憶が混ざり合って境界があいまいになっていく。


 どちらが本当で、どちらが偽物なのか。


 いや、どちらも本当だと、心の奥で理解していた。受け入れ難い現実だが、これが今の状況なのだ。


「お松……父上は」


 口をついて出た言葉に、自分で驚いた。


 江戸の言葉遣いが、自然に出てくる。まるで生まれた時からそう話していたかのように。舌の動き、発音、すべてが身に付いている。


「旦那様は店の始末でお出かけです。焼け跡の片付けと、お貸しいただいている方々への挨拶回りで」


 火事。


 記憶の糸が繋がった。春之助が営んでいた呉服問屋が、先月の大火で焼失したのだ。店も商品も在庫も、すべて灰と化してしまった。


 炎に包まれた店舗、避難する人々の悲鳴、煙で真っ黒に染まった空。それらすべてが、お春として体験した生々しい記憶だった。熱風に焼かれた肌の感覚まで、鮮明に蘇ってくる。


「借金は……どれほどに」


「かなりの額でございます。商売の元手も、蔵の中身も、すべて失ってしまいましたから」


 お松の表情が暗く沈む。眉間に刻まれた皺が、苦労の深さを物語っていた。


「でも、旦那様は諦めてはいません。必ず立て直すと、毎日仰っています」


 現実の重みが、胸にのしかかってきた。


 これは夢でも幻覚でもない。田中美咲は死に、江戸時代の商人の娘・お春として生きている。そして、この家は破産寸前だった。


 転生。


 荒唐無稽に思える言葉が、唯一の説明だった。


 こんなことが本当にあるのだろうか。しかし、他に説明のつけようがない。目の前の現実が、すべてを雄弁に語っていた。


「お松、少し一人にしてください」


「承知いたしました。お呼びでしたら、すぐに参ります」


 お松が障子戸を閉めて出ていくと、深く息を吐いた。


 手のひらで顔を覆う。細い指、小さな手のひら。触れるもの全てが、この状況の現実を物語っていた。


 受け入れるしかない。


 田中美咲は死に、お春として生きていく。それが、今の現実だった。抗っても始まらない。ここで生きていくしかないのだ。


 立ち上がろうとして、足元がふらつく。三日間寝込んでいたせいで、筋力が落ちているらしい。壁に手をつき、ゆっくりと腰を上げた。


 部屋を出て、家の中を歩いてみる。


 小さな商家で、店の部分は焼け残っているものの、商品棚はからっぽだった。床板には炭の粉が残り、焦げた匂いがかすかに鼻をつく。壁には煤の跡が黒々と残り、火事の凄まじさを物語っていた。


 奥にある蔵も覗いてみた。わずかな家具と衣類があるだけで、商売道具らしいものは見当たらない。


 絶望的だった。


 借金があり、商売の元手もない。十六歳の身で、いったいどうやって生きていけばいいのか。江戸時代の女性にできることは限られている。


 蔵の奥で、足音を止めた。


 隅に、小さな麻袋が置かれている。埃をかぶり、長い間放置されていたようだった。


 近づいて中を覗くと、茶色い豆のようなものがぎっしりと詰まっていた。鼻を近づけた瞬間、電流が走るような衝撃を受けた。


 この香り。


 心臓が激しく打つ。手が震える。全身に鳥肌が立った。


「まさか……珈琲豆?」


 田中美咲の記憶が鮮明に蘇ってくる。


 毎朝扱っていた豆の香り、色合い、形状。一粒一粒の大きさ、表面の光沢。間違いない。これは確実に珈琲豆だった。


 袋の脇には、鉄製の平たい道具も置いてある。形を見る限り、焙煎用の焙烙のようだった。縁が浅く、手で振って炒るのに適している。


「どうしてこんなものが」


 お春の記憶を辿ると、断片的に思い出した。


 父が長崎の商人から譲り受けたという話。南蛮渡来の薬になる豆だと聞いたが、使い方がわからず、蔵にしまい込んでいたのだ。


 豆を一粒手に取る。指先で転がしてみると、確かな重みがある。


 間違いない。現代のカフェで毎日扱っていた珈琲豆と、まったく同じものだった。


 胸の奥で、小さな光が灯った。


 これがあれば、珈琲を淹れることができる。田中美咲として培った知識と技術を、この江戸という時代で活かすことができるかもしれない。


 焙烙を手に取り、豆を少し入れてみる。金属の冷たい感触が手のひらに伝わってくる。


 火にかけて焙煎し、挽いて、湯で抽出すれば珈琲になる。道具は違っても、基本的な原理は変わらない。温度管理と時間、そして豆の状態を見極める技術。すべて身に付いている。


 しかし、問題もあった。


 お春の記憶をどれだけ辿っても、珈琲を飲んだことがある人の話は出てこない。この時代には、珈琲を飲む習慣がないのだ。


 だからこそ、チャンスでもある。


 田中美咲として培った珈琲の知識と技術、カフェ経営の経験。そして、お春として持っている江戸での商売感覚。


 二つの人生が重なった今だからこそ、できることがあるはずだ。


「お春様、お戻りでございますか」


 お松の声が響いた。玄関の方から、重い足音が近づいてくる。下駄の音が、疲れを物語っていた。


「ただいま戻りました」


 低く疲れきった男性の声が聞こえた。父の春之助だった。


 急いで珈琲豆を袋に戻し、蔵から出る。


 玄関に向かうと、初老の男性が肩を落として立っていた。


 質素な着物を身に纏い、顔には深い皺が刻まれている。商売の苦労が、全身から滲み出ていた。背中は丸くなり、歩き方にも元気がない。


「父上、お疲れ様でございます」


「おお、お春。もう大丈夫なのか」


 春之助の疲れた顔に、安堵の色が浮かんだ。


 娘を思う父親の愛情が、疲労の奥から垣間見える。手を伸ばして、お春の額に触れた。熱が下がったことを確認して、ほっと息を吐いた。


「はい。ご心配をおかけして、申し訳ございませんでした」


「いや、お前が元気になってくれれば、それに勝る喜びはない」


 しかし、その表情はすぐに暗く沈んだ。


「借金の方は……」


「厳しい」


 春之助が深いため息をつく。


「元手がなければ、呉服商を再開することもかなわない。かといって、別の商売を始める資金もない」


 肩を落とし、頭を抱える姿が痛々しかった。


「お前には苦労をかけるが、しばらく辛抱してくれ」


「父上」


 珈琲豆のことを話そうかと迷った。


 しかし、まだ時期尚早だと判断する。まずは実際に珈琲を淹れて、その可能性を確かめてからにしよう。説明も難しいし、信じてもらえるかどうかもわからない。


 その夜、春之助とお松が寝静まるのを待った。


 二人の寝息が規則正しく聞こえてくる。月明かりだけを頼りに蔵へ向かい、珈琲豆の袋を台所に運ぶ。


 火鉢に炭を起こし、焙烙を火にかけた。炭の赤い光が、暗い台所を温かく照らし出す。静寂の中で、パチパチと小さな炭の弾ける音だけが響いていた。


 豆を入れて、ゆっくりと炒り始める。


 田中美咲として何千回も繰り返した作業だ。豆の変化を見極め、音を聞き、香りで判断する。すべてが身体に染み付いている。


 道具が変わっても、基本は同じだった。


 豆が少しずつ茶色く色づいていく。香ばしい匂いが立ち上がり、パチパチと小さな音を立てて弾けていく。


 懐かしい香りが台所に満ちていく。何度かき混ぜながら、均一に熱が通るよう注意深く炒り続けた。


 適度なところで火から下ろし、粗熱を取る。それから、すり鉢で丁寧に豆を挽いた。


 電動ミルはないが、手で挽くからこそ出る風味もある。すり鉢でゴリゴリと挽いていくと、より濃厚な香りが立ち上がってくる。


 挽いた豆を急須に入れ、熱湯を注ぐ。蒸らしの時間を心の中で数え、そっと茶碗に注いだ。


 湯気とともに、懐かしい珈琲の香りが立ち上がる。


 そっと口をつけると、確かに珈琲の味がした。


 少し酸味が強く、現代の豆とは風味が異なるが、間違いなく珈琲だった。苦味の奥に、深いコクが広がっている。温かな液体が喉を通り、身体の奥まで染み渡っていく。


 涙が頬を伝った。


 この香り、この味。


 田中美咲として愛し続けた珈琲が、江戸時代でも飲める。それが、どれほど嬉しいことか。故郷の味を見つけたような、安堵と喜びが胸を満たした。


「これで生きていこう」


 小さくつぶやいた言葉には、固い決意が込められていた。


 珈琲を武器に、この江戸で新しい商売を始めよう。父の借金を返し、お松にも楽をさせてあげよう。そして、多くの人に珈琲の素晴らしさを伝えよう。


 田中美咲の技術と経験、お春の江戸での知識。


 二つの人生が重なった今だからこそ、できることがあるはずだ。


 茶碗を両手で包み、最後の一滴まで味わった。


 温かな液体が喉を通り、身体の芯まで温めてくれる。明日から、新しい人生が始まる。


 月光が台所の窓から差し込み、珈琲の香りが静寂の中に漂っていた。


 夜風が障子の隙間を抜け、炭火が小さくちろちろと燃えている。


 すべてが静寂に包まれた中で、お春は未来への第一歩を踏み出していた。夜明けまでには、まだ時間がある。しかし、心の中には確かな光が灯っていた。


 珈琲の香りと共に、新しい物語が始まろうとしている。

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