「見つけたわ」
ほのかに暗い、夕闇のせまる公園の一角で、少女は彼にそう言った。
囁くような声だ。
恍惚とした声だ。
うっとりと……自ら酔うように、少女は身を震わせる。すると、まるでそんな少女に呼応するように、空気までもわななく。
ワイングレーの色合い。
黄昏も切なげに吐息すら交えて。
「見つけたわ」
少女はもう一度、深い、さまざまな感慨のこめられたその言葉を口にした。
どの角度より忍びこんだものか……彼自身、理解不能なざわめきとなって巧みに胸をつらぬき、散って、全身に広がる。それは本当に、砕けたガラスの粉末のようにキラキラしていて、少しなりと不快さを感じずにいられない。
よどむ不安感。常に一定でいられない不安定さ。
けれどもそれらは総じて気分を害するほどのものでもなかったので、彼は黙ってその感覚をすみずみで受け入れた。
美しい、少女。
闇に追われた陽が作った不可思議なムーブメントを背に、小さなトランクを足元に置いて、少女は彼を見つめている。
知らない、少女。
その認識に、奇妙な信号が彼の胸の中から頭の方へと送りこまれてきていたけれど、彼はそれをまさかと無視した。
闇の吐き出した媚薬香のような冷気が彼と少女の間に薄い乳白色の幕を引き始め、その距離を危うくさせる。それは同時にそれぞれの心の中にある歯止めを、とても……あやふやなものに変えてしまうものらしかった。
そして今、少女の大きな黒い瞳は潤み、人が、喜びと表すものを漫然とたたえていた。
少女の幼い手が彼にむけ、伸ばされ、それだけで指先は頬へと触れる。
『少女』が『彼』に触れたとき。
陽は完全に沈み、不確かな黄昏も失われた。
冷気と、静寂とがともに訪れた夜の公園に、すでに人影はない。どこかへ消えてしまった影のかわりのように、音もなくつき始めた外灯のまたたきすらも、この穏やかな少女にかしずいているように彼には見えた。
「きみは?」
彼は訊いた。
「まあ」
まるく、甘い声が愛らしい口元から溢れる。けれど少女は言葉ほど驚いたようには見えず、そうしてゆっくりと、まるで無知な子供への嘲りらしきものを含めて、きゃらきゃらと笑いながら言った。
「あなたは、知っているはずよ」
『……知っているはずよ……』
耳元でリフレインする。
柔らかく高く、どこまでも澄んだ声。どうやらこの特殊な韻律を踏んだ音が、胸の内深く築いた壁をいとも軽くすり抜けてくるらしい。
彼は、彼の中、幾度も乱反射しては徐々に光の粒子となる、なんとも心地良い響きに満たされた中で、夢のように何事かをつぶやいた。
「そうよ」
少女の手がうなじの方へと回される。幼い体つきでありながらどうして、豊満な胸が押しつけられ、満足げな微笑がゆうるりと近付いてくる。
「そうよ」
もう一度、夢見るように開かれた唇が、頬に触れ、唇に触れ、下へ降りたとき。
闇にまぎれて何かが少女めがけて投げつけられ、少女はきゃっと声を上げて彼から離れた。
少し離れて転がる、それが小石であると分かる。
悪質な
少女を
「大丈夫?」
「……ええ、なんとか」
少女は気丈にそう答え、手をどけた。前髪の生え際のすぐ下が赤くなって、傷ついているのが分かった。
すっくと立ち上がる、そのどこにも、もうつい先まで見せていた、あの少女特有の不安定な
はるか彼を抜け、先を見据え、敵意を脹らせた静かな瞳は強く、そこにいる男を見ていた。
男は手の中、数個の小石をもてあそんでいる。
闇の中、楽しむように開かれた口元と、ギラギラと光る冷たい視線が印象的な、まるで、鋭利な針を思わせる者だった。
歳は17~18といったところか。
それでは彼と同じ、まだ少年であるはずなのだが、そうと知った今も、変わらず男の持つ、彼の感じる雰囲気は『少年』でなく、あくまで『男』であった。
「早いのね」
少女は言った。
「今度ばかりは」
ともつけ足して。
そして、さも挑発的な、それでいて盛惑的な、あの魅了の力にあふれた瞳で男を見つめる。
肩のむこうへ払いこむ、見事な黒髪一筋にさえも害意を含ませて。
男は、まず彼を見て、それから少女を見て、明確に嗤った。
「またか。おまえはいつもこの手合いだな。牙も生えそろわない子犬。
だが今度はおまえ、俺が来たぞ。どうする」
その言葉に少女は、にいと笑った。
「あいにく、と返せばいいかしら? 彼はちょっと違うわ。
でも、とっても残念だけれど、とりあえずはその快挙に免じて今は逃げてあげる」
弾むように口ずさんだあと、少女はぽおんと跳んだ。
他の誰であれ、たとえ手にしたトランクがカラであっても、ああも軽やかには跳べないだろう。
「待て!」
自分の上をはるかに越え、行こうとする少女の足首を、男の手が捕まえる。少女は慌てる様子もなく、にっこりほほ笑んで、そして男の頬に手をあてた。
「また、ね」