目次
ブックマーク
応援する
3
コメント
シェア
通報

2.影  主

 男は少しの間だけ、息を止めて、そして激しく咳きこんで胸を押えた。

 背を強く打ったのだ。無理もない。あんなに凄まじい勢いで、男の体は茂みへと放り出された。


「大丈夫ですか……?」


 おそるおそる、気弱な声で聞く彼の手は、見知らぬ者へのおびえのためか、言葉よりも明確に震えを発している。

 が、それでも自分のことで傷ついたらしい男を見捨てて逃げ出すほど、彼は卑怯者でもなかった。


「ってえなあ、たくよお……」


 後頭部の辺りに手をやりながら男がうめく。


「ん? ああ、無事だよ、とりあえずはな」


 軽く答えて、男は肩や背についた汚れを払う。

 そうして立ち上がり、彼の何を見つめてか、にやりとまた笑った。


「間に合ったようじゃないか、坊主」

「は?」

「9度目にして追いつく、か……。

 さて、どうするべきかな」

「あの……」


 彼は、まるでつかみあぐねるといったふうに、ただ声を発した。


 見知らぬ男への畏怖と同じくらい、自分独り何も知らないことへの恐怖が強く彼をおびえさせているのだ。男もまたそれを重々に承知していてか、ふんと鼻を鳴らして、まるで値踏みをするように頭の端から靴の先まで彼の姿をなめし見る。


 結果はかんばしくなかったようである。舌打ちをひとつすると、ふいと顔をそむけた先で、男はぶつぶつとつぶやいた。


「あいかわらず、あいつの好みはまるで理解できねえな。気紛れが度を過ぎてるってえのか……前とはまるっきり反対じゃねえか。そうかと思いや、絶世の美女のときもあったっけな。ま、どいつもこいつもなよなよしい甘ったればっかりだったが。

 はっ、ばかばかしい。なんで俺が、あんなやつの考えなんか理解しようとしなくちゃいけねえんだ?」


 それは、横にいる彼の耳に入ることも気にしていないような独り言だった。

 かといって、わざと無視しているわけではない。まるで自分以外の者はここにいないのだと、本当に思っているかのように、男の動作は無頓着だった。


「あの……」

「ああばからしい。んなことよりさっさと始めるか。ばれちまったからな」

「あの、あなたはだれなんですか? あの少女を知っているんですか?」


 無言で、これからを選択させるような背に、彼は思い切って尋ねてみた。

 背を向けたままだった男は、そこで初めて彼に意志というものがある人間だということに気付いたといった顔つきで振り返ったが、やはり興味が持てないといった様子ですぐに視線をそらし、地面に投げ出されたままだった荷袋の口をおもむろに解き始めた。


「坊主、俺は言ったはずだぜ。間に合ってよかったな。俺がおまえに言えるのはそれだけさ。だからさっさとおうちに帰って布団の中にでももぐりこんで震えてな。

 実際そうしたって俺は笑わないぜ。あいつに出会っちまったんだからな。電気もつけてたほうが恐怖もまぎれるってもんだ」

「恐怖?」

「そうさ」


 ごとり、と男は円錐柱のようになって先が尖ったアルミパイプのようなものを取り出して、数本横に並べた。鉛筆よりは大きいのではないかという太さだ。


「坊主も感じたはずだぜ。あいつを見てると腹の底が冷たく震える。魅かれているんだと錯覚するほど目が吸い寄せられ、あの声に焦がれる。

 防護壁なんかまるで役にたちゃしない。まっすぐこう、胸ん中にえぐりこまれるんだ。頭のどこかが危険信号を出すんだが、あの不似合いな容姿にまさかと握りつぶしちまうのさ。

 そうしてだれもかれもがあいつのえじきだ」

「えじき……」


 男の使った言葉を自分の口で繰り返してみる。

 まるで、獣に使うような言葉だと、思った。

 途端、砂のようにざらりとした不快な感覚が、胸の中に広がる。


「そうさなあ……。俺が覚えているだけで、500人はやられちまったっけ。たった2世紀の間に」


 そのつぶやきを耳にしたとき、彼の脳裏にひとつの言葉がひらめいた。口にしようとしたのだが、途端、それをいち速く察した男の手によって素早く口元をふさがれてしまった。


「しっ。

 口にしちゃいけない。だれにも知られちゃいけないんだ。あいつがいると教えることは、そいつを不幸にしちまうからな。自分が知っちまったからといって、ほかのやつにまでその不運をなすりつけることはない。

 いいか? 忘れちまうことだ。知っちまったほかの者たちみたく、きれいさっぱりあいつのことも、俺のことも。

 できるはずだ。おまえたちはそうしてきたからこそここまで勢力を広げられたんだ。おまえもそのうちの1人だ、できないわけがない。

 それができなきゃ……そうだな。死ぬことだ。自分でできなきゃ俺が手伝ってやったっていい。一刻も早くあいつの手の届かない高処へ逝くことだ。

 それもできないとなると、あとはあいつを狩るしかないな。俺みたいに。

 さあどうする? 坊主」


 それはいかにも簡単なことであるとでもいいたげに笑って、男は手の中のそれを彼に向かって差し出した。


 その行為を非難するようにかげってしまった月の下で、鈍く青灰色に光るアルミの先は、まっすぐ彼の喉へと向けられている。

 そうして真剣そのものの瞳の中にもどこか、楽しんでいるような光を浮かべた男は、冗談とも本気ともつかない声で、また彼にこう言った。


「迷ってるな。それでいい。そうすることでおまえはもう選んじまってるんだ。あいつを忘れられても、あの感覚を忘れきることはできやしない、あいつに目をつけられちまったんだからと、おまえはもう気付いてる。その重大さに。

 大低のやつはそこまで迷いきれやしないもんだ。坊主。おまえは賢いやつさ」


 そして男はカラになった手で自分を指し、名乗った。


「俺は『えいしゅ』。影主えいしゅだ」


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?