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3.恋  闇

 いつからいたのか知らない。いつから気付いていたのかも。

 ただ、それはいるのだ。


 真昼と夕闇の狭間。

 前へ進む人々は、時創る憂鬱の波となる。

 立ち止まるのも人だし、振り返るのも人だろう。

 その中、嗤っていたのだ。独り。

 異色の影を黄昏に投げかけて。

 そうして陽炎のように紛れこむ。


 夕闇と深夜の隙間。

 暗躍の息遣い。そばだつ冷気。凍りつく優しさ。

 偽りすらも色褪せる。


 少女よ。

 おまえは何を見てどう思い、

 どう思って何をするのか……。




 影主はもうずいぶんと昔からあの少女を追っていたらしかった。

 ときには遅く、ときには過ぎ行き、ときには終焉だけを……。


「狩るんだ」


 その言葉は囁きとは思えないほど強く彼の心を捕らえ、揺さぶる。


「そうしないとおまえのようなやつはもっと増える」


 ――僕?


「見ただろう?あの女を。あれは人じゃない」


 では、人でなくては殺すのか。

 自分たちとは違う、異端であるから消減させるのか。


「あれに囚われた者は闇を好むようになる。陽の光を恐れないまでも関心を失い、すべてにおいて怠惰に、情念を失ってゆく。

 興味をなくしちまうのさ。脱力し、希薄化していく。

 あんなのは人じゃあない。望んでの解脱者かも知れないが、それは自らの手で得るべきことだ」


 ――――――分からない………。



 かすかに風が吹いていた。

 冷たい氷粒が頬に当たって溶ける。

 雪でないのは確かだけれど、まるで崩れる月のかけらのように思えるのは間違いだと、彼は黙々とそんなことを考えながら歩いていた。


 月が崩れる。


 月が崩れるとはなんという表現だろう。

 それは自分がそう望んでいるからなのか。

 そうあればいいと、思っての言葉か。

 それとも、自分の視点が変わったからか。


 ……それは月が崩れたとき、分かることだ。


「そうね。でも、あなたが変わったというのも事実なのよ」


 不意にそんな声がした。それはまるで、から沸き起こった言葉のような気がして、一瞬ギクリと彼は身を強張らせる。


「出たな!」


 間髪入れず振り返った影主の手が宙を薙ぐ。月光も照らし出せない速さで、その先から残像という尾を引く光が繰り出されたが、それは少女のリボンをかすめただけだった。


 雲間に隠れた月と、まるで入れかわりでもするように徐々にその気配を表す。

 それは、それのみでいえば、おおよそ少女の持ち物ではなかった。


「あああ、おろしたばかりなのにもうだいなし。

 あなたのせいよ、影主」


 そう、拗ねたようにあまやかな声で責めながら、ちょこんとつま先で地面に降り立つ。少女からは、まるで引力という枷が感じられない。だがそれよりも彼を驚かせたものは、少女の足元から伸びた漆黒の影だった。


 頭のリボンを気にして触れる、その指先すらも鮮明に焼きついた、影。


 夜の闇の中にありながら、なお闇よりも暗い影よ。


「あれこそがあいつの姿だ」


 影主はここぞとばかりに彼に囁き、その肩を抱き寄せた。


「闇にすら拒まれる者。闇に属しながら、闇に拒絶される者だ。

 坊主、けっして見逃すなよ。あれこそがあいつの本性、俺たちと決定的に違う、相入れないあかし」


 彼は頷こうとし、そしてためらった。

 少女の瞳の中にある、かすかなかげりが気になったからだ。

 ほんの僅かな、瞳中を走り抜けたきらめきほどの間だったが、少女ははっきりとその言葉を拒絶する意思を示していた。


 だが影主はなおも続ける。


「狩るしかねえんだ。やつは何も生み出せない。負の力しか持たないくせに、壊しきることもできない!

 ずいぶん前にどっかのばかが、やつは仲間を増やそうとしてるんだとほざきやがったが、真っ赤な大嘘さ。俺たちはどうしたってやつみたいにゃなれねえんだ。分かるか? 坊主。

 あいつには何ひとつ創れやしないんだ。その止まった刻と同じで何ひとつ生めないし、破壊しきることすらできないのさ!」


「それが何だというのよ、影主」


 とうとう思い切ってか、少女の細い指が、弄んでいたリボンをさっと引きほどいた。

 破れて引き攣った布の面を見て、深くため息をつく。


 その姿に、案外ため息は影主の語った事実に対してなのかもしれないと、ふと彼は考えた。


 少女の指が、リボンをびりびりと縦に引き裂く。


「くだらないわね。そんなことばかり考えていて、影主、あなた疲れなくて?」


 影主は答えない。否定することすら拒んでじっと少女を見つめる。


「そう? 私は疲れたわ、いいかげんね」

「なら、死ねよ」


 重く静かに影主が返す。

 このとき少女の目は、初めて裂き続けていたリボンから影主の方へと向き、そして細まった。


 闇に、まごうことなき剣呑とした光が、浮かんでいる。


「あら。私が疲れたのはあなたとの言葉遊びよ。それと、この代わり映えしない追いかけっこにもね。

 実際あなたって直情型すぎるんだもの。もう少し余裕と向上心、それから場を楽しむってことを知った方がいいわよ。そうしたらもっと私も楽しめて、もっともっとあなたにかまってあげたくもなるのに。

 ほんと、もううんざりだわ。これでいくつめだと思うの? あなたがだいなしにした私のお気に入り。ちょっとばかり腹に据えかねるわね、最近のあなたの所業って」


 ちろり、血の色を連想させる舌が口端に現れる。

 その危うさに、彼は目まいいすら感じる。


「そうね。確かにあなたのしつこく口にする、このあたりで終わりにするっていうのも手だと思うから、今度ばかりは本気でつきあってあげてもいいけれど。

 でもね……」


 そこで少女の伸ばした両手は、そのまま大きく闇を抱いたように見えた。その背から巻き起こった風に乗って、いくつもの青い糸が2人へ向かって解き放たれる。


 突如として生きた蛇のように身をくねらせたそれを運ぶ風は、闇を渡るその美しさに見とれて動けずにいた彼を避け、ことわりをねじまげて、その全てを影主へぶつけた。


「せめてこれくらいはやらせてね。すぐに終わりじゃ、いくら私が移り気だって、ついていけないもの」


 そう言って、少女はくすくすと鈴のような声を上げて嗤う。とっさに前に出した左手にそのほとんどが巻きつき、首までは届かなかったが、かすった頬からは血が糸を垂れ、触れただけで服は裂け、巻きついた左手は血の気を失いじわじわと青く変色してゆく。


 苦痛に歪む男の表情に気を取り戻した彼も手伝って、2人がかりでようやく外したものの、影主の受けた見えない衝撃は、相当深くまで食い込んでいるようだった。

 さながら遅効性の毒のように。


 青冷めた肌の下が酸素を求めて激しく動く。地に這わせた指先まで震えさせ、握りしめていたアルミはすべて周りに散ってしまっていた。


「あらあらどうしたの? まるでらしくないじゃない。いつもの強気はどこへいったの? たったこれくらいのことで根をあげないでちょうだいよ、情けないわ、影主。

 それでよく今まで私を追って、しかもどうにかできるなんて思ってたわね。そんなことじゃ、到底私に触れることすらできないわよ」

「……つくやみぃっ!!」


 乱れた呼吸の中、自分を見下ろしてかん高く笑う少女に息もろくにできず、ぴゅうひゅうと喉を鳴らしながら影主が叫ぶ。そのほとんどは散ってかすれ、側にいた彼の耳にすら言葉に含まれた意味は届かなかったが、渾身の思いで少女を睨みつける目が、その意味を幾倍にもして少女に知らしめていた。


「……そう、なの……」


 信じられないと目を見開いて、つぶやく。

 それは問いではなかった。


「そうなの、影主」


 確認でもなく。

 少女の手が、影主の頬へと伸びる。鼻筋を伝わせ、目尻をなぞり、髪を流いた。

 愛しげに。

 哀れむように。


 影主はほんの僅か、一刹那、目を閉じて委ねる。


「本当のあなたは、もう、望んではいないのね……」


 涙すらも伝わらせる、はっきりと、それが何であるのかを傍らにいた彼が悟ったとき。

 影主は背後に隠し持っていた最後のアルミを少女の胸へと突き刺し、少女は、影主の唇へ己のそれを重ね合わせた。


「あなたは、本当に、疲れてしまったのね……」


 少女の唇が、影主ののどへとゆうるりと埋もれる。


『おやすみなさい』


 母親のように、少女は影主を抱きしめていた。

 そののどもとに半ば以上埋もれ、至福の笑みを浮かべた影主の手が、少女の服にすがる。

 瞬間。

 時間ときの干渉が生まれた。


 ひたすら少女を追い、陰を捜し、闇に求め続けた男に、ようやく、やすらぎが訪れたのだ。


 時の流れが男を元の姿――本来あるべきへと戻す。

 夜風に巻き上げられた服、散ったそれらを見やることもなく。

 少女は立ち上がった。


 雲間から姿を現した月に照る面には、もはや何の感慨も浮かんではいない。


 胸に刺さっていたそれを、今さらのように引き抜く。

 赤い筋をまとわらせたそれを。

 まるで、男の残したそれだけを、惜しむかのように。


 その姿に、彼はさらなる感銘を受けた。


「どうする?」


 肩におりた髪先を弄びながら、少女は彼に問いかけた。


 ためらいの風が。

 『彼』を崩落しつくす。


 総てをさらうように、少女の足元から生まれる。


「まだというの?

 それなら、あなたはもう必要ないわ」


 少女は冷めた声で言う。

 『彼』と『少女』の間に、もはや、あの時間は戻らなかった。


 なぜか。

 なにゆえか。


 彼は知っていた。

 気付いていた。

 もう変わってしまったことを。


 廃れた思いが、今の時を占めている。

 そして、たった1度――2度はあり得ないからこそ、こんなにも心惹かれるものなのだ。


『あなたはもう必要ない』


 リフレインする言葉を残して消えた少女を求め、周囲の空へと目を向ける。

 渡る風、揺らぐ光、歪む影。

 彼は、足元に散らばるアルミを1つ、拾いあげた。


 あの少女を忘れることは不可能に思えた。


『できないとなると、あとはあいつを狩るしかないな。俺みたいに』


 影主の言葉が胸によみがえる。


『闇にすら拒まれる者。闇に属しながら、闇に拒絶される者だ』


 影主は少女を憎んではいなかった。

 少女は影主を疎んじてはいなかった。

 そう。分かる。

 影主は少女に必要とされていた。

 少女は影主に切望されていた。

 分かる。今なら。

 影主はただ、悟っていただけ。

 少女は多分、ゆるしただけ。


 新しい、影主の誕生を。


 少女に魅せられ、少女だけを追い求める、狩り人を。


「影主……か」


 ぽつり、つぶやいてみる。

 びゅるると風が言葉を運ぶ。


『そうなの』


 どことも知れぬ虚空から、少女の声が響く。


『そうなの、影主』


 ほのかな笑いを含んで、声は響く。

 求めずにはいられなかった。

 あの、失われた刻を。

 あの男のように。

 その瞬間を得るには、少女は不可欠なのだから。


「影主、だ」


 明確に、今度は力をこめる。

 そうすることで何かが変わるとは思わない。けれど、変わった何かを感じることはできた。


 このとき。

 彼の中で、月は、崩れた。






『月下交路 了』

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