蔦の葉の装飾がやけに仰々しい黒樫の玄関扉を閉ざしたところで、ルードルフ・エーデルクロッツは息をつめた。明かり取りから差し込む光が、キラキラと空中の塵を浮かび上げ、部屋にうずまく白煙を浮かび上がらせている。
「なんだ、しけた面をして。
梅毒持ちの売女に口づけでもされたのか」
言葉の明瞭さから言って、飲んでいるというわけではないらしい。もう日も傾くというのに、同居人の赤毛の青年はまともな服もまとわず寝台に寝転び、タイムの小枝を噛みながら頬杖をついて先日古本屋から買い叩いて手に入れた「コンペンデウム・デア・シュピールレゲルン」をつらつらとめくっているところだった。
ルードルフは無言で窓辺に寄ると、当てつけがましく軋む鎧戸を開け放った。宵闇がせまる裏庭に粉塵が舞い、大家であるところのフラウ・アーカイムが叫んだ。「ちょいと!こっちは洗濯ものを出してるんだよ、埃まみれにする気かい!」追従するように、犬の鳴き声が続く。フラウ・アーカイムのちびの飼い犬は、ルードルフが通るたびに未だに唸り声をあげる。商売柄、犬とは折り合いが悪い。
口をつぐんだままのルードルフを嗤うように陽気に、同居人は続ける。「それとも帰り道で死神にでも出会ったか?人間、それと知らないだけで、自分とうり二つの死神がいつも近くにいるそうだぞ。出会ってしまえば不幸にも、近日中に生命を落とすことになるとか…
どうだ、お前のように黒髪で」
晩秋の風が室内に吹き込み、こもっていた硫黄の臭いを和らげていく。床に落ちたシャツを拾い上げると、黴とも苔とも正体のわからないもので汚れていた。日々、相棒の「錬金術」なるものの片付けには慣れきっている。ルードルフは、無造作にそれを窓の外に放り投げた。
「なにすんだい!!ちゃんと自分の手で持ってこないと料金は二割増だよ!」
大家が庭から怒鳴る。「つけといてくれ、あとで払う」ルードルフは声を放ると、箪笥の上から比較的まともな麻のローブを見つけ出し、青年のむき出しの肩に着せかけた。襟元のボタンをひとつひとつ留めていく。
「レッチェン」うなじに指を差し入れ、長く波打つ赤い髪をローブの上に引き出してやる。「留守の間に悪戯をしていたな?何を焦がした、酷い臭いだぞ」
「知っているか?悪魔が現れると硫黄の臭いが立ち込めるそうだぞ」されるがままになりながら、青年は続けた。「あるいは死神もそうかもしれん。自分の顔をしているとも限らないしな」
「黒魔術とかいうやつか」
「いや、今日やったのは錬金術の部類だな」
「それで黄金の作り方は見つかったか」皮肉でもなくルードルフは言ったのだが(彼は相棒とは異なり滅多に皮肉を言わない)、レッチェンは声をあげて笑った。
「黄金よりは賢者の石に近い。黄金は持つものの生命を奪うが、これは」
ニヤリとして「逆の営みを持つ」
「要するに媚薬か」
相棒の回りくどい駄話に慣れきっている黒髪の男はそれ以上取り合わず、秋の湿気を吸って重い外套を椅子の背にかけた。食卓として使用されるはずのテーブルの上には、塩に似た結晶がこぼれ蝋がたれ、悪臭を発する何かの入った鍋や小枝の束、薄緑の塊が付着した硝子瓶、ことあるごとに相棒がなけなしの金で購入してくる紙の束などが散乱している。ルードルフはそれらを片隅に押し寄せて空間を作ると、帰りの屋台で手に入れた鶏の香草焼きの袋を並べた。
「豪勢じゃないか」青年は喜色を上せた。「うまい取引だったんだな」
「ああ。レドリッヒ伯の護衛を七日。数合わせにすぎないお飾りのような仕事だ。ただし、最後の日には厄介なおまけがついてくる」朝のパンが乗ったままの皿を戸棚から引っ張り出すと、ナイフで薄く切り始める。商売道具を別のことに転用することについて、ルードルフは特にこだわりを持たない。十分に見事な切り口に満足して、相棒の皿に取り分け、ついでに切っ先を使ってこんがりと焼けた鶏肉を上に乗せた。「冬至祭の闘技会に参加せよとさ」
「なんだって」
いきなり手を伸ばされて、ルードルフは反射的に動いていた。左手は青年の動きを封じ、右手は逆手に持ち直したナイフを首筋に突きつける。目が合った。
凍りつくような刹那が過ぎた。
意志の力で手を開き、ナイフを手放す。ナイフが乾いた音を立てて床に落ち、くるくると回った。
「レッチェン、危ないだろう」ため息が漏れた。訓練された動きがもう一つ先に進んでいれば、目の前には青年の骸が転がっていたはずだ。ナイフの切っ先は、過たず左の血の脈の真上にあった。血管にナイフが食い込む弾力さえまざまざと感じた。
手放した手は、しかし、逆につかみ直された。青年の緑の目は、怒りにギラギラと光っている。
「それで、おまえは引き受けたのか、あの腰抜け太鼓持ちの依頼を」
彼がレドリッヒ伯のことを言っているのだとわかるまでに一拍間が空いた。「引き受けていなかったら、今日の夕飯はパンだけだったな。知っているだろう、仕事をしなければ、俺たちはほとんどまったく一文無しなんだぞ」軽く額を小突く。「おまえの挿絵もない高級な本のおかげでな」
「文盲め。本の価値は挿絵の有無で決まるんじゃない。それよりも話を聞いてたか」
レッチェンが憤然とテーブルを叩いたので、硝子瓶が転がって派手な音を立てた。
「冬至祭の闘技会の話をしているんだ!あれは貴族の坊っちゃん連中のお遊びだろうが。騎士の仮装で闘技ごっこをして、貴婦人方がきゃあきゃあ騒ぐためのお祭りだぞ。なぜおまえのような【本職】が参加するんだ。あいつらの槍の腕ときたら、囲いの中の豚すら殺せないに違いない。なぜおまえがその顔と腕を見せびらかす必要がある」
「代理騎士が出るのは普通のことだろう、なにを言っているんだ、レッチェン」ルードルフは肩をすくめた。相棒の怒りはいつも唐突だが、毛を逆立てた猫のように振る舞うレッチェンを、彼は別に嫌いではなかった。「名は出さなければいいし、顔は隠せばいい。簡単な仕事で、いい報酬が手に入る。それに、そう骨のない者ばかりでもないんじゃないか?…エーデルハイト候の嫡男だったか、あれは貴族にしては腕が立つというし、建前上禁じられているとはいえ、毎年代理騎士にはそこそこの腕の者が集まる」
「そうだ!禁じられている」レッチェンは肩をつかんでルードルフを揺すぶった。(実のところ、戦士であるルードルフの体躯を、レッチェンの手ではほとんど動かすことができなかったのではあるが。)「それがどういう意味だかわからないのか、ぼんくらめ」
「まさか、法律に反することを今更思い悩めと言うのか?」
「そんなことは言ってない!」
心底不思議に思って問い返したルードルフは胸ぐらをつかまれた。燃えるエメラルド色の瞳が至近距離でのぞき込む。
「正体不明の仮面の騎士だって?貴族の令嬢たちがさぞ騒ぐことだろう…顔を隠したレドリッヒ伯の秘密の貴公子か。会場を後にするころにはポケットにつめこまれた恋文とキャンディで膨れ上がり、袖はもぎ取られ、頭からは薔薇の花でもつきでていることだろうさ。大した眺めだろうな!」
「レッチェン」
高地語では、レエトヒェン、とでも発音すべき呼び名を、アルトシュタット下町の舌足らずな訛でルードルフは呼ぶ。
「おまえ、そんなことを気にしているのか?」
「そんな訳があるか!!」と叫んだ声は途中で途切れた。
「んっ…んぅ…馬鹿、離せっ」
顔を横向けて唇から逃れた時には、青年の顔は、その名前のままに紅潮していた。
「妬いたのか」
「だから違うと言っているだろ!!人の話を聞け!!」
頭をつかんで引き剥がそうとするものの、人の身体の扱いで戦士に敵うわけもない。ルードルフはあっさりと青年の抵抗を封じて骨ばった身体を抱きすくめた。唇を髪に、耳に、首筋にと移動させていく。汗と硫黄、タイムの匂いに混じり、花の香りがした。食べ物にも着るものにも、特にこだわりを見せないレッチェンが、偏執的なこだわりを見せる高価な石けんにつかわれるラベンダー…抵抗する手が動きを緩め、強張った身体から力が抜けていくのを感じて、ルードルフはけして小柄とはいえない青年をひょいと持ち上げた。
「馬鹿、野郎…!よせ!」
「暴れるな」
「やめろと言ってるんだ!飯が、冷めるだろ」
「それくらい、文句を言うな」
「窓が…あ、っ」
「今更」
寝台に痩せた身体を押しつぶし、自分で先程はめたばかりのボタンを外しにかかる。首筋から鎖骨に唇を寄せると、背がびくりと震えた。
「今日は一日服を着なかったのか?風邪を引くぞ」
「脱がしながら言うな!作業で汚れたから脱いだんだよっ…!」
「金が入ったから」
舌を這わせながらささやく。「明日はおまえの冬用のローブを買おう」
「ん…っ…そこで喋るな…」
引き離そうとしていた両手は、いつの間にか黒髪の間に差し入れられ、ルードルフの頭蓋をまさぐっていた。骨の形を確かめるように深く髪を梳きながら、指が肌をなぞっていく。さっき熱く感じた手が、今はぬるく感じられるのは、自分の肌が同じ温度になっているからなのか。
「ルーディ」
浅い息で呼ぶ声が思いのほか甘く、ルードルフは顔を上げて青年の顔を見た。
「さっき、俺を殺そうとしたな、おまえ」
言いながら煽るような笑みを口唇に乗せ、先程ナイフがかすめた場所を指でなぞってみせる。「よかったのか、やめてしまって」
「よせ」
言った声がかすれた。
「あのままスパッとやってしまえば、全部おまえのものになったのに。ほら、簡単なことだろう」男の手を引き寄せ、喉仏から脈動する血管の上へと移動させていく。「おまえなら、片手だって」
「馬鹿なことを」
煽られた自覚があった。喉を
「狼め、喰う気か」
レッチェンの息は荒く、睨む
「くそっ、明日は出かけるんだろ。襟巻きを外せないじゃないか」
「いいだろう、見せびらかしてやれば。ルードルフ・エーデルクロッツのものだと分かれば、誰も手を出してこない」
「誰がおまえの持ち物だって?」
胸ぐらをぐいと引き寄せられ、至近で緑の目がのぞき込んでくる。「おまえが、俺のものなんだよ」
噛みつくように唇を貪られた。先程の口づけよりもレッチェンの舌は熱かった。吐かれる息に混じるタイムの味、舌先に触れる舌の滑らかさ、そして、その上に転がされる小さな硬くて丸い何か…
「……?何を」
身を起こした時には、唾液とともに飲み込んでいた。舌とともに口内に押し込まれた小さな、ほの苦い…
「気にいるといいな、ルーディ」
唇を手の甲で拭いながら青年は寝台の上でニヤリと笑った。
「賢者の薬さ。新作だぜ」
立ちすくむルードルフに向かって続ける。
「ほら、窓を閉めてこいよ」
*
吐く息が熱い。
薬とやらのせいなのだろうか。
それはしかし、いつものことでもある。
どこから来たのかもわからない野良猫のような同居人、それでも誰よりも近いところで体温を分け合える彼に触れるたび、身体が鈍い熱を持つ。
誰にも触らせたくない。
彼に触れた者が、過去にいることが許せない。自分の知らない彼を知る者がいることが、苦しくてたまらない。
敢えて考えないようにしていても、ふと焦燥が胸を焼く。
「レッチェン」
自分は、彼の名前すら知らない。
ただその髪色にちなんで酔客がその場で呼んだ名、それだけでもう一月も暮らしている。しがみついてくれる腕、からめてくれる指だけをよすがにともにいる。
彼には本当の帰る場所があって、いつか突然、一言も残さずに立ち去ってしまうのではないか。
高地民だろう。とは始めから思っていた。いかに悪ぶって見せていても隠しきれない仕草の優雅さや、言葉の端々にのぞくアクセント、ためらいもなく字を読み書く知識…貴族の使用人か、それとも、
「レッチェン」
労働に不慣れな手の白さ、持っていた金や装飾品は全て怪しげな錬金術の本や材料に注ぎ込み、衣食住の全てをルードルフにたよっていながら全く気にしないこの振る舞いは、むしろ、生まれながらの…
「ルーディ」
耳元にささやかれた声に彼は我に返った。
「俺を…見ろ」
荒れる息を整えながら聞き返す。「どうした?」
汗ばんだ肩が不規則に震えている。「俺を、見ろって…」
求められるままに寝台を軋ませて体勢を変え、緑の眼をのぞき込んだ。身体を捻られ、青年は顔を歪めて喘いだ。焦点を失いかけている双眸は、それでも意志の力を持って自分を見返してくる。
何も確かなことなどない。
約束もない。
ただこの瞬間、自分の目を見返してくる目、肩に食い込む指の強さだけが信じられる。
一つ、深くかすれた息を吐き、青年は震えながら彼の腕の中で達した。宵闇が広がる室内、激しく上下する胸が浮き上がるように白かった。
約束などない。
自分自身、明日この部屋に戻ってこれるかを、約束できない身分ではないか。
ルードルフは、身体に残る快楽の余韻を感じながら、息を殺して名も知らぬ青年を抱きしめ続けていた。