天宝十五載(西暦七五六年)八月、霊武の城内は緊張に包まれていた。朝靄が城壁を薄く覆い、兵士たちは息を潜めて自分の持ち場に立っていた。冷たい朝の空気の中、彼らの息は白い煙となって立ち上っていた。遠くの山々には雲が低く垂れ込め、まるで天そのものが重苦しい運命を予感しているかのようだった。城壁の石は夜露に濡れ、暗い光沢を放っている。
「皇帝陛下、準備が整いました」
朱色の衣装をまとった宦官が深く腰を折り、恭しく宣言すると、長子・李亨は重々しく頷いた。彼の顔には疲労の色が浮かんでいたが、目には揺るぎない決意の光が宿っていた。
城壁の外からは、太鼓の音が轟いている。その重厚な響きが霊武の町全体に伝わり、今日が歴史的な日であることを告げていた。周囲には絢爛豪華な旗が風にそよぎ、唐王朝の威厳を示していた。
「父上は無事に蜀に向かわれたか?」
李亨の声には、わずかな不安が滲んでいた。彼の指は無意識に衣の縁を摘まんでいる。側近たちは顔を伏せ、静かに主君の問いを待った。
「はい。『前皇帝』陛下は、険しい山道を無事に越えられ、今この時も蜀へと向かわれております。護衛の兵も万全の態勢と伝えられました」
宦官の言葉に、李亨は静かに安堵の息をついた。その肩から緊張が少しだけ解けていくのが見えた。
安禄山の反乱により、千年の都・長安が陥落し、父である玄宗は西へと逃れた。宮殿の美しい楼閣も、優雅な庭園も、すべて反乱軍の手に落ちたのだ。
今、李亨が即位することは、唐王朝の命脈を繋ぐための最後の手段だった。それは父と子の分離による王朝存続の策であり、李亨はその重責を感じていた。
「我々が正統である。安禄山の謀叛は必ず討つ」
李亨の声は、低く、しかし力強く響いた。彼の周りに集まった臣下たちは、その決意に応えるように頭を垂れた。李亨は金糸の刺繍が施された竜袍を正すと、儀式の行われる中央広場へと歩み出した。朝日がちょうど城壁の上から差し込み、彼の姿を金色に照らし出していた。それはまるで天が新たな皇帝の誕生を祝福しているかのようだった。
城内の限られた空間で行われた儀式は、本来の長安での即位に比べれば簡素なものだった。しかし臣下たちの真摯な表情と、厳かに読み上げられる儀式の言葉は、その場に厳粛な空気を作り出していた。
ここに唐の第十代皇帝・粛宗が誕生した。ここまで来てようやく、唐が本気で戦う体制となった。都を放棄してからの反撃となってしまったことは手痛い損失だが、底力はまだまだ存分にある。
◇
その頃、洛陽の宮殿では、安禄山が陰鬱な表情で座していた。豪華絢爛な装飾が施された玉座の間だったが、その美しさも彼の心の闇を晴らすことはできなかった。壁に描かれた龍の絵は、まるで彼を睨みつけているかのように見える。
「慶緒、お前はどこまで朕に忠誠を誓えるか?」
安慶緒は父の前に跪き、答えた。
「父上、私めはいかなる時も忠誠を」
安禄山は満足げに頷いたが、ほんの一瞬だけ、眉間に皺を寄せた。
安禄山の宮殿の一室、柱の陰に隠れた安慶緒の姿があった。彼は父・安禄山と継母・段氏の会話に耳を傾けている。
「やはり安慶恩こそ、大燕の帝位を継ぐにふさわしい気風をしておるのう」
安禄山の声は低く、しかし確かな響きを持っていた。巨漢の身体を横たえ、彼は段氏の手を取った。
「お言葉は嬉しゅうございますが、あの子はまだ四歳、幼すぎるのが心配です」段氏は、心配と口では言いながら、勝利したようにほほ笑む。「それに慶緒殿下がおわしますし……」
「慶緒はもはや信用できぬ」安禄山は唸るように言った。「昨日、あいつが私の軍師と密談していたことを知った。あやつは朕の命を狙っておる」
安慶緒は息を呑んだ。
父の言葉は的外れではなかった。確かに彼は将軍たちと会い、父の政策について議論していた。しかしそれは反逆ではなく、父の暴走を止めるための相談だった。柱の陰で、安慶緒の顔は青ざめる。彼はいずれ父の位を継ぐはずだった。しかし今、その全てが異母弟に奪われようとしている。
廊下に戻った安慶緒は、厳荘に出会った。
「どうされました、太子殿下。顔色が優れませぬが」厳荘が尋ねた。
「父上が……私を廃そうとしている」安慶緒は震える声で告げた。
厳荘が前に出て、腕の傷痕を見せた。「昨日も、私は陛下に鞭打たれました。陛下は日に日に凶暴さを増しておられる」
「お前までか……」
「皇帝の怒りは誰にも向けられます」厳荘は苦々しく言った。「李猪児など、もはや背中が血の海と化しております。それに宮中では既に、段氏の子・慶恩が跡継ぎになるという話が広まっています」
安慶緒は壁に寄りかかった。「くそっ……既に決まったことなのか」
「それだけではありません」厳荘が続けた。「陛下が太子殿下の殺害を計画している、と」
安慶緒は絶句した。「私を殺害だと?」
「安全策として、殿下を排除するつもりでしょう。既に暗殺の手はずが整えられていると思われます」
その夜、安慶緒は眠れなかった。
彼の部屋の前には、自分の護衛ではなく、安禄山直属の部下が立っている。名目上は「護衛強化」だが、実質的には監視だった。
翌日、安慶緒は厳荘の館に密かに足を運んだ。
「殿下、危険です。ここまで来られては……」
「構わん。話したいことがある」安慶緒は決意を秘めて言った。「父上を止める方法はあるか?」
厳荘はしばらく黙った後、こう答えた。
「もうこうなったら、父君を……亡き者にするしかありますまい」
安慶緒は息を呑んだ。「や、やはりか……」
「殿下、考えてみてください」厳荘が続けた。「皇帝陛下は日々、民を苦しめ、側近を打ち据え、暴政を敷いておられる。唐の民は、唐を裏切った安禄山という男を恨み、燕の民も、なかなか戦乱が終息せずに苦しんでいる。残念ながら陛下は、もはや救世の英傑ではないのです」
「父上は英傑だ。民を大切にし、我々を愛してくれた……」
「かつては、そうでございました。が!」厳荘は斬り捨てるように言った。「今は違います。あなたも、もうお気づきのはずです。
陛下は権力に溺れた暴君となられた。李猪児と私は毎日のように鞭打たれ、民は重税に苦しみ、段皇后と安慶恩殿下だけが寵愛を受ける。このままでは、燕は内側から崩壊します」
安慶緒は沈黙した。確かに最近の父は常軌を逸していた。かつての英傑の面影は薄い。
「もし我々が……皇帝陛下を討てば、民は我々を救世主と仰ぐでしょう」厳荘の声は静かだが、熱を帯びていた。「唐の民も、燕の民も、共に我々を受け入れるはず」
安慶緒は決断を下した。「李猪児を呼べ」
李猪児が厳荘の館に到着したとき、彼の頬には新しい鞭の傷があった。
「また打たれたのか」安慶緒が尋ねると、李猪児は苦笑した。
「朝廷での発言が気に入らなかったようで。陛下は今や、誰の意見も聞き入れません」
「我々の時が来た」厳荘が前に出た。「殿下は父君の排除に同意された」
「! 待っていましたよ……この時を……!」
「だが問題がある」安慶緒は言った。「どうやって父上に近づく? 常に多数の護衛がいるぞ」
「それは私が引き受けましょう」厳荘が言った。「近衛の配置は私が決めております。李猪児が行動を取れるよう、うまく動かしておきます。怪しまれることはありません」
「おそらく陛下は酔っ払っておられるでしょう」李猪児は頬の傷に触れながら言った。「近頃は毎晩、泥酔されている」
三人は計画を練り、至徳元年(七五七年)正月七日の夜を選んだ。宮殿では宴が開かれ、安禄山は間違いなくいつも以上に酔いつぶれるだろう。
計画の夜、宮殿は静まり返っていた。安禄山は酒に酔い、いびきをかいて深い眠りに就いていた。月は雲に隠れ、廊下には暗い影がゆらめいている。香炉から立ち上る煙が、幽霊のように宙を漂っていた。壁に掛けられた絵画は、暗闇の中で不気味にゆらいで見える。
厳荘は護衛を別の場所に配置し、寝所への道を空けた。そこに李猪児と安慶緒が忍び込む。
「父上……」安慶緒は眠る父を見つめた。かつては英傑として慕った父も、今は肥満と病に冒された哀れな男にしか見えない。
李猪児の目に憎しみの炎が燃えた。彼は自分の頬の傷を触り、刃の分厚い剛刀を握りしめた。
「殿下、あとは私に」
安慶緒は躊躇した。「や、やはり幽閉で良いのでは……」
「殿下、あなたが命じなくともよいのですよ」李猪児は険しい表情で言った。「私は毎日、この男に鞭打たれ、辱めを受けた。この恨みを晴らすためだけに、私は来たのです」
安慶緒は一歩引き、黙って頷いた。
李猪児は安禄山に近づき、剛刀でその巨大な腹を叩き割った。
「ぐおおお!」
安禄山の絶叫は宮殿に響き渡った。彼は痛みで目を覚まし、血まみれの手で李猪児の襟をつかむ。
「おのれ……貴様は誰だ……ど、どうせ、家中の賊であろう……!」
目の見えなくなっていた安禄山は、そう言って李猪児を締め上げた。安禄山の膂力は凄まじく、刀を刺されてもなお、自分を狙った者を返り討ちにしようとしていた。
その時、厳荘が駆け寄り、自らの剣で安禄山の腹を刺した。
「化け物め、いい加減に死ね!」
安禄山の目が見開かれた。「その声は、厳荘! お、お前まで……!」
安慶緒が前に出て、震える声で言った。
「父上、あなたが私を捨てようとしたからです。それだけでなく、私を殺そうとした。李猪児と厳荘も、毎日死ぬほどあなたに鞭打たれた。これは、我々の自衛のための行動です。権力を求めた謀反ではないのです」
安禄山は息子の声に気がつき、その表情に驚きと悲しみを浮かべた。
「慶緒……お前……知っていたのか……」
次の瞬間、安禄山の腹から大量の腸が流れ出て、さすがのその巨体は倒れた。血の量もすさまじく、寝所は生臭さで充満する。
そしてそのまま、安禄山は動かなくなった。
「や、やった……!」
李猪児と厳荘は安堵の声を漏らした。
「これで暴君は倒れた」厳荘は言った。「明日から、安慶緒殿下が新たな燕の皇帝だ」
「民に告げよ」安慶緒は冷静に命じた。「安禄山は民を苦しめる暴君となったが、我々が民のために立ち上がり、彼を討った、と」
厳荘は微笑んだ。「そのようにいたします。唐の民も燕の民も、きっと殿下を救世主として迎えるでしょう」
「誰にも知られぬよう、遺体を処理せよ」
側近たちは頷き、侍従たちを呼んだ。
翌朝、安禄山は「夜中に急死した」と発表され、安慶緒は「父の遺志を継ぎ、民を苦しみから解放する」として燕の皇帝に即位した。
しかし彼の心の奥底には、父殺しという罪の意識が消えないままだった。それは後に、史思明との対峙の際にも、彼の弱さとなって現れるのである。
◇
それから一年半、乾元元年(七五八年)の夏。史思明の軍営には激しい議論が満ちていた。
「明公、唐側から使者が来ております」
側近の報告に、史思明は眉を寄せた。「唐の使者だと?」
引き入れられた使者は、唐の印を帯びた文書を差し出した。
「大唐皇帝のお言葉です。明公が唐朝に帰順されれば、范陽節度使の地位をお約束するとのこと」
史思明は文書に目を通し、深く考え込んだ。側近たちは息を潜めて見守る。
「安慶緒の勢力は弱まりつつある。唐に帰順すれば、安禄山公に仕えた罪も許されるか……」
史思明は三日三晩、決断を迷った。そして四日目の朝、彼は唐への帰順を決意した。
「己の父を殺した不孝な安慶緒には従えぬ。今こそ正統なる唐朝に戻るときだ」
かくして史思明は唐に降伏し、李光弼率いる唐軍と共に、安慶緒討伐へと向かった。
しかし、唐朝廷内では微妙な変化が起きていた。安史の乱の平定に大きな功績を挙げた名将・郭子儀が、その軍功があまりに高まったため朝廷から警戒され、総指揮の座を降ろされることとなったのである。
郭子儀の後任として、宦官の魚朝恩が唐軍の総指揮に就任した。この人事に、現場の将軍たちは困惑した。
七五八年九月、安陽の攻略戦で唐軍は二十万の大軍を動員した。史思明は唐軍の一翼を担い、表向きは忠実に戦っていた。
しかし戦いの最中、史思明のもとに密使が駆け込んできた。
「史王、大変な知らせです!」密使は息を切らしながら告げた。「唐帝が史王の暗殺を計画しております!」
史思明は愕然とした。「何だと?」
「李光弼将軍が、史王の忠誠を疑い、暗殺を進言したのです。『史思明は所詮、燕の賊です。いつ再び裏切るかわからぬ。今のうちに排除すべきです』と」
史思明の顔が青ざめた。「これが唐の約束か! わしは誠心誠意、唐に尽くしているというのに!」
その時、安陽の城壁で激しい戦闘が続いていた。空には不吉な黒雲が立ち込め、風が砂埃を巻き上げている。戦場の血なまぐさい匂いが辺り一面に漂い、兵士たちの叫び声が響き渡っていた。史思明は瞬時に決断を下した。
「よし! ならば見せてやろう、燕の真の力を!」
史思明は突如、戦場で寝返った。唐軍として戦っていた彼の軍勢が、一転して燕軍として唐軍を攻撃し始めたのである。この予期せぬ裏切りに、唐軍は大混乱に陥った。
形成の変化を察知した唐軍だったが、しかし総指揮を執る宦官・魚朝恩は権限を持つだけで戦機を考慮することができず、素早い対応ができなかった。結局防戦に転じるしかない。郭子儀は河陽の橋を断って穀水を守り、これ以上の壊滅を防ぐのがやっとだった。
こうして燕軍は史思明の裏切りにより起死回生の勝利をしたが、戦局を巻き返すほどではなく、膠着状態は続いた。そしてその間に、燕では新たな権力闘争が発生したのである。
翌乾元二年(七五九年)正月、史思明は鄴で安慶緒を詰問し、安禄山の弑殺を責めた。広間には冷たい空気が流れ、石の床に響く足音だけが聞こえていた。
「お、俺は悪くない! わかった、皇帝は譲る。い、命だけは……」安慶緒は震える声で哀願した。
「この腰抜けが! 安禄山公を殺した罪は、死をもってしても償えぬと知れ」
安陽での戦いのときは救うべき王であった安慶緒だったが、その危機を脱したことで完全に立場が逆転していた。
そのまま安慶緒は処刑され、そして史思明は「大燕皇帝」を名乗り、即位の儀式を執り行った。
彼は即位の宣言で、唐への怒りを露わにした。
「我は本来、唐への忠誠を持って帰順した。しかし唐帝は約束を破り、我らを殺そうとした。これは天が我に与えた啓示。唐はもはや天命を失ったのだ」
側近たちは史思明に詰め寄った。
「陛下、ことここに至っては、必ず唐との戦いは激化します。何か妙策がございますか?」
「そんなものはない」史思明は微笑んだ。「燕と唐、どちらが天命を持つか、全力でぶつかり合うまでよ」
かくして、中華の大地には二人の皇帝が並び立ち続けることとなった。唐の粛宗と燕の史思明。二つの王朝の争いは、さらに民を巻き込み、さらに国土を焦土と化していった。