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第4回

 深夜の高層ビル街を歩く男がいた。


 酒にしたたかに酔っているかのような、まるで足下が布の山でできているかのような心もとない歩き方で歩道を歩いている。

 ここはけたたましい騒音と光輝く七色のネオンで夜を昼へと変える不夜城などではなく、企業ビルが林立するビジネス街だ。定時などあってないような会社ばかりだが、それでも深夜ともなれば明かりのついているフロアはほとんどなく、道に人気ひとけはない。たまに客待ちのハイヤーが深夜勤務の客を狙って道端に停車しているくらいである。


 男は、妻子がいる身で会社の部下とも恋仲になっていた。不景気の中、会社の状況が思わしくなく、そのしわ寄せが中間管理職である男に来ていた。残業費は出ないまま連日残業、休日出勤が続き、その努力もむなしく顧客からは契約を切られるか予算の縮小を告げられ、精神的に汲々とした日々が続く中、献身的に尽くしてくれた部下の女性と、ついふらりと関係を持ってしまったのが始まりだった。


 それから半年。部下も結婚しているため、関係は注意深くしていたつもりだったが、どこかでミスをしてしまったのだろう、1週間前、妻に詰め寄られた。妻は夫に裏切られたというよりも女としての自尊心が大いに傷ついたことが重大のようだった。そこからは悪夢としか言いようのない日々が続いた。妻は相手宅へ乗り込み、向こうの旦那に暴露した。会社の上司にも相談という名目で話されて、訓告処分を受けた。

 その時点で知らされたのだが、部のほとんどの者が2人の関係に薄々と気付いていた。会社は一応規則として社内恋愛禁止ではあったが、社風で表立ってでなければ何をしても自由という雰囲気があり、上司も見て見ぬふりで放置していたのだろう。しかし妻が会社に来て泣きつくというのは穏やかでない、ということだった。


 部下の女性が部署異動になった。距離を取って頭を冷やせ、という結論になりかけた矢先の2日前、部下の夫が飛び降り自殺をした。手にはなぜか古ぼけた人形が握られていたという。

 女性は会社を辞めた。妻が乗り込んで以来口をきいていなかったが、うわさによると故郷に帰ったらしい。そう聞いても男には何の感慨も沸かなかった。もともと現実逃避から始まった関係だ、現実が追いついたなら一時の気の迷いと醒めるだけだ。第一に、男はそれどころではなかった。


 自殺者が出たことで会社は騒然となった。自殺であるため警察沙汰にはならないが、うわさは広まる。ただでさえ会社の業績が悪化している中、こんなことで社名とひも付けられるのは迷惑だと、会社は突然就業規則で社内不倫が懲戒事由になることを思いだしたように、男に懲戒処分を下した。


 40半ばで職を失い、先が見えない失意の中、帰宅すると妻が娘を連れて家を出ていた。卓上、人形を重しにして置かれた実家へ戻るという妻の書き置きよりも、「お父さん嫌い! 不潔!」という娘の走り書きのほうが胸にこたえた。娘を味方につけるため、話したのだろう。立っていられずその場にへたり込む。どのくらいそうしていたのか……気が付くと部屋は真っ暗で、明かりをつけなくてはと思ったが、そうする気力も沸かなかった。

 ふと卓上の人形が目に入り、こんな人形、うちにあったか? と思ったが、どうでもいいことだとすぐに思考から消える。


 どうでもいい。何もかも、どうでもいい。ただ疲れた。何か食べて、休もう――そう考えた直後、「そうする意味はあるのか?」という心の声が浮かぶ。

 食べて、寝て、起きて。何をする? 妻と話し合いか? ここまで徹底的にしたのだ、妻にはもはや元に戻る気はないだろう。娘のために高校卒業までは離婚しないだろうが、それまでは別居ということになるのが濃厚だ。当然かかる費用は男が出すことになる。失業して、自分の人生すら先の見通しも立たない状態なのに。


 たった1週間だ。1週間で、こんなにも人生は変わってしまうのか。


 何もかも失った。起きれば地獄が待っていると思うと寝る気にもなれない。もういっそ、死にたい――。

「……そうだ。彼のように、死のう。そのほうがずっといい」

 男はふらふらと立ち上がり、大きく玄関ドアを押し開いて、家を出て行った。その後ろを、小さな影がついて歩いた。




 男は、「なんでこんなことに」や「俺は悪くない」「全部失った」などといった言葉をぶつぶつとつぶやいていた。そしてそうすることでますます自分は正しく、自分はこういう人間なのに、それを認め、受け入れる許容度のない周囲の者が悪いとの思いを強めていた。

 だから自分は死ぬのだ。彼の重圧を理解しなかった妻、黙認していたくせに手前の都合が悪くなったら即座に切り捨てる上司、自分たちもしているくせに省みることなく陰口をたたく同僚たち。

 ざまあ見ろ。明日からは、世間の非難を浴びるのはおまえたちの番だ。


 どうせ死ぬなら会社の屋上から飛び降りてやろう。意趣返しだ、とここまでやってきた。

 懲戒解雇とはいえ、1カ月は猶予期間がある。社員証を使ってドアをくぐり、顔見知りの警備員には「忘れ物をした」と言った。夜間警備員にまでは、彼が今日クビになったことは伝わっていないのだろう。


 男はエレベーターを使って最上階へ向かった。屋上へ続くドアが施錠されているのを見て、そりゃそうか、と思った次の瞬間、なぜかカチャリと解錠されるような音がしてドアノブが回り、ドアが開いた。

「……はは。こりゃすごい」

 あり得ないことだった。男も平常な精神だったら奇怪に思い、恐怖心を抱いてドアから遠ざかっていただろう。しかしこのとき、男には全てがどうでもいいことだった。どうせ、あと1分足らずで自分は死ぬのだ。


 開いたドアから屋上に出ると、気持ちのいい夜風が吹いていた。その強い風も、彼の死への酔いを冷まさせることはなかった。

 ふらふらと吸い寄せられるように正面の落下防止柵へと向かう。

 死ぬ、死んでやる、という心の声は、いつしか、死ね、死ね、という大合唱に変わっていた。まるで目に見えない大勢の人間が周囲でけたたましくわめいているかのように。


「……ああ、死ぬとも。死んでやるさ」


 柵をつかみ、体を寄せ。それを乗り越えようと、ぐっと力を込めて懸垂のように足を浮かせたときだ。



「キエーーーーーーッッッ!!!」



 突然怪鳥のような女の甲高いとがり声が背後でして、直後、硬直した男の背中に何か、砂のような物がぶつけられた。

「な、何だ――うぷっ」


「ノウマク・サンマンダ・バザラダン・カン!」


 振り返った直後、お経のような言葉とともに顔面にもぶつけられる。口に入ったその塩辛さに、塩をぶつけられたのだと分かった。

 頭や顔にくっついた粗塩を払って、あらためて前を見る。開け放たれたドアから一歩手前に、着物を着た恰幅のいい、50前後と思われる、長い髪を結い上げた女性が足を開き、踏ん張るようにして立っていた。

 脇には梵字が書かれた呪符が貼られた備前焼の壺を抱えていて、女は壺に手を突っ込むや無造作につかみ出した粗塩を男の周囲に投げつけた。


「怨霊退散! 怨霊退散!」

 1回塩を投げつけるごとに怨霊退散と唱え、力強い裂帛れっぱくの声でキエーッと叫ぶ。

 何が起きているか分からないまま、男は女の気迫にすっかり気圧されて、その場にへなへなと尻をつけた。


 そんな男など目に入らないといった様子で、女は鋭い眼光で宙をにらみ、男の目には見えない何かを視ているかのように粗塩を振りまき続ける。

 そして、ぱっと自分からは死角にあった脱気筒の影に鋭い視線を向けるや、


「センダ・マカロシャダ・ソワタヤ!」


 と叫び、そこにあった人形に粗塩をぶつけた。

 瞬間、悲鳴のような熱波のような風が吹き荒れ、一瞬彼らを翻弄したのち消える。

 男は女の狂気じみた行動――視えない男にはそう見えていた――にすっかり圧倒されて目を奪われ気付けなかったのだが、この場にはもう1人男がいた。白い上着に黒の袴と、その格好はまるでどこぞの宗教家か神社の神主のようだった。

 黒袴の男はへたりこんだままの男をちらと見ただけで無視をして、和装の女に「御院おいんさま」と呼びかける。

「ここに集まっていた怨霊たちは、全て払えたようですね」

「そのようだわね。まったく、ここの怨霊はどいつもこいつも、なんで夜に飛び降りさせようなんて思うんだろね。おかげでこっちも超過勤務だよ」

 さっきまで暗がりで立っていた人形は、塩をぶつけられて怨霊が抜けた瞬間、その場にぱたりと仰向けに倒れていた。抜け殻となった古ぼけた人形をひょいと持ち上げ、御院と呼ばれた女はため息をつく。そして次の瞬間、何かを感じ取ったようにそちらへ目を向けたが、わずかに遅かった。


 どこから現れたのか……その男は白く巨大な月とビルを背景に、まるで平らな地面の上に立っているとでもいうように細い柵の上に平然と立っていた。

 二分丈袖の黒Tシャツに黒ズボン、黒の運動靴に黒のフィンガーレスグローブ、鼻から顎まで覆った黒いマスクと、全身黒ずくめの男は、どちらかといえば小柄で、まだ完成しているとは言えない華奢な体のラインから見て、男と言うよりも『少年』と呼ぶのが正しいように見えた。



 下から吹き上がる風になびく前髪の隙間からのぞき見える、金色に光る両眼。



「あんた……そうか。あんたがうわさに聞く大儺たいなだね! ここ一帯で怨霊退治をして回ってるっていう!」

 女はぴしりと指をつきつけて言った。

 『大儺』と呼ばれたことに、少年は眉を寄せる。

 大儺とは、古来よりクイ(怨霊)を追って祓う術師を指す。その術師は黄金色をした四つの目を持ち、鬼を決して見逃さない。

「……俺は四つ目じゃない」

「あだ名を付けられるのは、あんたが名を明かさないからだろ。それじゃあ何を言われても、あんたに文句を言う権利はないね。

 それともいっそ、ここで名乗りをあげるかい?」

 女の挑発に、少年は無言だった。

 思いどおりにいかなかったことに、女はフン、と鼻を鳴らす。

「まあいいさ。

 それより、ここの怨霊はあたしが残らず退治しちまったからね。今ごろのこのこやって来たって遅いよ! あんたの出番はなしだ!」

 腰に手をあて、胸を張り。勝ち誇っていう女に、しかし少年はどこまでも淡泊だった。

「……だれがやろうと、滅したならいい」

 そしてもうここにいる意味はないと言うように、少年は軽く柵を蹴って後ろへ跳ぶ。


「!!」


 女は目をみはり、それまでとは打って変わった必死の形相であわてて駆け寄った。

 柵に身を押しつけ、宙の少年に手を伸ばしてつかもうとするが、少年の体はすでに落下を始めていて伸ばした手の域をとうに出ていた。

 見下ろす女の前、少年はビルの壁を蹴って正面のビルへと移り、そこもまた蹴って隣のビルへと移る。

 そうしてビルをまたいで跳び、外灯の光の届かない闇へとまぎれていった。


「……猿みたいな子だね、まったく」

 猴王えんおうのほうがよっぽどふさわしい名じゃないか、とつぶやく女の後ろで、黒袴の男が詰めていた息をふーっと吐き出した。

 女が自分を見ていることに気付き、「あ、いえ」と苦笑しつつ言う。

「うわさに聞いてはいましたが、まさか本当にいたとは……。あれほどの霊氣の持ち主を見たのは初めてです。正直、足が震えました」

「ああ。まあ、そうさね」

 女もうなずく。女の足は震えてなどいなかったが。


「さあ、そんなことより次だよ次! まだ今夜の分は半分しか消化してないからね! さっさと済ませないと朝になっちまうよ!」

「あ、はい」

「そっちの男の後処理はおまえに任せる。気を整えて、怨霊の残り香を消したら、ここの警備員なり警察なりに引き渡しな」

「分かりました」

「まったく、機関も連日無茶を言ってくるねえ……おかげで霊力が回復する暇がないよ」


 頭を下げた黒袴の男の前をのしのしと通り過ぎて女は屋上から立ち去り、あとにはわけが分からないとぽかんとしている男と黒袴の男が残された。



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