「……ここは、どこ?」
視界に入る全て、一面の草原だ。空は赤や黄の複雑な色合いを発する太陽の周囲に紺色が混じるという、日没間近のあかね色をしている。
こんな光景を、都会っ子の湊は本の挿絵や写真でしか見たことがなかった。昔、ふらりと立ち寄った画廊でサバンナの風景写真を見たことがあったが、それがちょうどこんな景色だったように思う。
「どうしてこんな所に……」
頭に手をあてる。最後に覚えている景色は、迫る地上だ。ビルの屋上から飛び降りて、そこではたと気付いた、なんで自分はこんなことをしてるんだ? と。
本当なら、塾に行っている時間だった。両親は自分たちが通った高校へ進学することを湊に望んでいた。母と父はそこで出会い、同じ大学の医学部へ通った。同じ
両親が望んだ幼稚園、小学校、中学校とエスカレーター式の学校に通っていて、湊は窒息しそうな思いを抱いていた。
その兆候は小6のときからあった。授業中、先生が何を言っているのかよくわからない。それでも中1への進級テストは、とにかく頭に問題と答えを詰め込んで、記憶していることを書けば済んだ。もともとエスカレーターなので、外部からの途中入学組に比べて試験内容は緩かったこともある。順位は知らされなかったが、おそらくかなり下位だっただろうと自分では思っていた。
それでも、入ることはできたんだからと安堵する。これから頑張ればいいと。しかしそんな甘い考えは、1カ月で吹き飛んだ。
授業内容が理解できない。高校受験を見据えて学校での不足分を補うためにと塾へ通わされたが、そこでも講師の言っている内容は依然として頭に入ってこなかった。
友人たちとの試験前の会話にもついていけない。自分は頭が悪いのだと思ってはいても、認めたくなかった。理解するのに時間がかかるだけで、コツコツとやればできるのだと信じたかった。だけども中2、中3と進んで勉強内容が深まるにつれ、そんな逃避も通用しなくなった。
『湊くんの成績では、この高校は少々厳しいかと。こちらの高校にするか、もしくは併願先としてこちらも受けることを考えてみてはどうでしょうか』
親子面談で担任が示したのは、希望する進学校より2段階下の公立高校で、滑り止めとして提案したのはさらに下の、県下でも最底辺を争う私立だった。
両親はショックを隠さなかった。それまで湊の言葉を信用して安心していた両親は渡された湊の成績を見て驚愕し、怒り、それでも希望の高校を変えず、塾を増やして家庭教師を雇うと宣言した。
平日は学校と塾で帰宅は夜10時、土日休みは午前と午後でそれぞれ別の家庭教師がつけられた。
『つらいでしょうけど今だけ我慢してちょうだい。あんな学校にあなたを通わせるなんて、我慢できないわ』
涙ながらに憤る母の言い分は、理解できるだけに何も言えなかった。こうなってもしかたない、悪いのは自分だと承知していた。
だけど分からない。問題が理解できないのだ。どう解けばいいかも、さっぱり思いつけない。
息苦しさはますます強まっていた。だれか見えない人が後ろに立っていて、両手できつく首を絞められているように息ができない。
湊は両親が大好きで、その期待に応えられないことが苦しかった。
あなたたちの思うような息子でなくてごめんなさい。
こんな出来損ないでごめんなさい。
今日も塾へ向かっていたはずだった。行かなくてはならないと、足を引きずるように歩いて……気付けば知らないビルの展望レストランに来ていた。店内はちょうど夕方で客の出足が増え始めたときで、店員たちには湊に気を配る余裕はなかった。事件が起きたあとの調書によれば、先に来ている客の息子だろう、ぐらいの認識だったという。
湊はだれに止められることなくそのままドアを抜けて広いベランダ――空中庭園と呼ばれている外席――へと出、足を止めずに『ここから先は立入禁止』との看板も無視してそのまま柵まで歩き、飛び降りた。
それまで夢を見ているようだったふわふわとした意識が、はっと鮮明になったのは、空中に飛び出してからだった。
しかし そこで気付いても もう 遅い
「……じゃあ、もしかしてここって、死後の世界……?」
湊はきょろきょろと辺りを見回した。どこを向いても草原しか見えない。
「おーいおーい。ねえー? だれかいませんかー?」
人と出会うことを期待して、とりあえず前に進んでみることにする。ざくざくと草をかき分けて進んでいた湊は、やがて草原の中に人らしき黒い背中を見つけた。
「人だ!」
ようやく人が見つかった、と喜んで駆け寄る。しかし距離が縮まるにつれ、だんだんとその足どりは緩慢になっていった。
大きい。人とは思えないほど大きい。
(いや、大きいけど、大きすぎるってわけでも……外人のプロレスラーとか、あのくらいのサイズの人、いるし)
見知らぬ場所で1人きりで、心細くて。ずっとだれかの姿を求めていた湊は、そう考えて無理やり自分を納得させた。
「すみませーーーん」
小山のような背中に向かって声をかける。
どうやら黒い人影は、俯きかげんで何かをしているようだった。集中していて、だから気付いてもらえないのか。
進みながら「あのー」と、前より大きな声で呼びかけようとしたときだった。
突然草の間から飛び出してきた腕が、湊の腕をつかんで引っ張った。
「!?」
驚き、バランスを崩した湊は引っ張られるままそちらへしゃがみ込む。手の主は少女だった。同じか、少し年下かもしれない。
「きみは……」
少女は口の前に人差し指を立て、「しっ」と無声音で伝える。
「え? でも――」
訊き返した湊の腕を少女がぎゅっと強くつかんで、口元に立てた人差し指を強調するように振った。そしてついてきてと言うように目で湊を見ながら中腰で草の間を抜けて行こうとする。その先は、湊が行こうとした先とは別の方向だ。
湊は小山の人影を振り返り、このまま少女について行くべきか、小山の人影に声をかけるべきか迷ったが、勘が働いたのか、少女に従うことに決めた。
少女は極力音を立てないように歩いて、丘を越えた先でようやく立ち上がった。はーっと大きく息を吐き出して深呼吸をする。そして後ろの湊を振り返り、
「命が縮むかと思ったわ! なんであんな無防備に黒い人に近寄ろうとするのよ!」
と湊に詰め寄った。
「しかも声をかけようとするなんて! あなた、食べられちゃったかもしれないのよ!?」
「食べられる……? あれ、人じゃないの? でもきみ、黒い人って」
「黒い人っていうのはああいうモノたちの通称よ。外見から、わたしたちが勝手に呼んでるだけ。そこらじゅうにいるわ。
ほんとはたぶん、人じゃないと思う。だって見境なく動くモノを食べようとするんだもの」
そして少女はその質問と、見るからにとまどっている様子とで、湊のことを見抜いたようだった。
「あなた、新参者ね」
「新参……?」
「ここへ来たばっかりってこと」
「え? あ、うん……」
少女は腰に手をあて、少し考えるそぶりを見せたあと、「ついてきて、案内してあげる」と言い、先に立って歩きだした。
湊は何がなんだかさっぱり分からなかったが、「食べられる」「そこらじゅうにいる」という言葉が怖くて、びくびくしながら少女について歩く。
ほどなくして、草原の中の小高い丘に崩れた遺跡のような廃墟が見えてきた。
「あそこよ」
少女が指を指して振り返ってくる。あの廃墟が目的地ということだろう。遠目にも廃墟に見えたそこは、近くに寄ってもやっぱり崩壊した遺跡にしか見えなかったが、壁のような厚い岩の間に薄い木の板を縄で結んで作られたドアがあり、ドアをくぐった先には人がいた。大人の男女が3人、高校生ぐらいの女性が8人いた。
「たまちゃん、その人は?」
たき火で串刺しにした何かを焼いていた大人の女性が少女に呼びかける。
「もう! 有田さん、猫呼んでるみたいだからその呼び方はやめてって言ったじゃない」
「ああ、そうだった。ごめんごめん」
「この人は、偵察に行った先で見つけたの。
そういえば名前まだ聞いてなかったわ。あなた、名前は?」
「……柳原 湊。中3……です」
全員に見られている。注目を浴びていることに恐縮しつつ、湊は小さな声で名乗る。
「わたしは杉山 たま子。中1」
杉山 たま子。その名前に、湊は聞き覚えがあった。どこでだろう……。
「あ! この前、ニュースでやってた、いじめを苦にして手首を切って自殺した、女の、子……」
思わず口にしてしまったが、たま子の表情が固まったのを見て、尻すぼみに黙る。
しまった、と内心あせる湊の前、たま子はふーっと息を吐いてこわばった体の力を抜くと、「そっか」とつぶやいた。
「わたし、ニュースになってたんだ……」
「そのニュース、あたしも見た」
奥の石の柱の所でグループになっていた高校生の少女がおずおずと言う。
「もしかしてそうかな? って思ったけど、でも……」
「そうなんだ。言ってくれてよかったのに。
わたしは自殺したんじゃない。ベッドに入って、眠って。そしたらいつの間にかここにいたの」
「じゃあどうして?」
「分かんない。タマミがしたのかも。でもわたしは、わたしなんか死んで当然だと思うから……」
しかたないと言うように、肩を竦めて上下させた。
「タマミ、って?」
「人形塚で拾って持って帰った、お人形」
「人形!!」
また別の女子高生が、今度は怖い話を聞いたように、ヒッと声を上げてとなりの女子高生にしがみついた。ぶるぶる震えている。
「……人形が、どうかしたの?」
湊の質問に「あなた知らないの?」と、おびえる少女を気遣いながらとなりの女子高生が訊き返した。そして湊が首を横に振るのを見て、言った。
「人形塚の人形を使うと、人を呪い殺せるって」
その説明にたま子が表情を曇らせたのを見て、湊は少し不思議に思う。けれど、なぜかと訊けるほどの仲ではなく、それよりも女子高生がさらに続けた言葉が衝撃的で、たま子のことはその瞬間に頭から消えてしまった。
「ここに来るのは、人形で呪われた人たちなの」
「え? でも俺、人形なんて知らないけど……」
「じゃああなた、死ぬ直前に何してたの?」
「塾へ行こうとしてた。でも行きたくなくて、どうしたら行かないですむかなってぼんやり考えてた」
そうしたら、昨夜見た、あのサイトの文章が浮かんできたのだ。
「サイト? もしかして飛び降りサイト?」
「うん……。あ。でも、ほんとに飛び降りたいって思ったんじゃなくて、なんか、クラスで話題になってたからでっ」
懸命に言い訳をしながらも、もしかしてそのせいで、ふと思ってしまったのかもしれないと、湊自身腑に落ちてしまった。
飛び降りをすれば、楽になれると……。
沈黙ののち。湊はおずおずと、だれにともなく言った。
「それで、ここは死後の世界、なのかな……」
「分からない」
答えたのはやはりたま子だった。
「同じように死んだ人が全員来てるわけじゃないって、松永さんが言ってた」
「松永さん?」
「今、食糧調達に出てていないけど、松永さんは、仲間たちと集団飛び降りしたんだって。でも、ここへ来たのは松永さんともう1人だけで、一緒に飛び降りた3人は来てなかったって言ってた」
「そう」
「その1人も、来て早々に黒い人に襲われたんだって」
「そうだ黒い人! あれ、何なの!?」
湊の質問に、その場にいた全員が首を振った。
大人3人のうちの1人だけが、青ざめた顔の思い詰めた様子で何か知っていそうに見えたが、湊と目が合った瞬間、さっと視線をそらした。
そして直後に松永という男性が、何か知れないずんぐりとした動物――ウサギに似ていたが、違う生き物のようにも見えた――を獲物として持ち帰ったことで場の話題がそちらへ流れて話はそこで打ち切られたわけだが、湊はなんとなく、黒い人が気になっていた。
それから、湊は彼らと寝食を共にするようになった。見知らぬ人たちばかりで、たま子以外は年上ばかりの中、まるで未開地の部族のような生活だったが、ここを出て、1人でいられるとは思えなかったからだ。
湊が合流した最初の夜、襲撃があった。
夕暮れが続くこの場所で『夜』と称するのはいささか不正確に思えたが、彼らは袋にためた水がしたたり落ちる長さで時間を計り――適当ではあるが、時を正確に計る正しさなどここでは意味がなかった――1日24時間を決めていたのだ。
寝ていると突然大きくて重い何かがドアに全力で体当たりしているような音がして、ドアが内側へしなる。
ばっと跳ね起きた大人の男性が、ドアに肩を押しつけて押さえ込んだ。
「きみもドアを押さえるんだ! 絶対中へ入れるな!」
2度3度と繰り返される体当たりの大きな音への恐怖に湊は硬直していたが、怒鳴りつけるようなその声に、はっと我に返り、急いで男の下に潜り込むようにしてドアを押さえた。
ずしん、ずしんと重く振動するドアは今にも壊れてしまいそうだった。パラパラと木屑が湊の周りに降って、目に入りそうになる。
そのほかにも、何か四つ足の生き物が周囲をぐるぐると走り回っている音、獣の息づかい、遠吠えなどが聞こえてきて、恐怖に胸がきゅうっと痛くなった。そのとき。
「きゃあ!」
不意に、窓を押さえていた女子高生の1人が声を上げて窓から飛び退く。
全員がそちらへ視線を向けると、女子高生は窓の外を指さして震えていた。
「あれ……あれ……」
少女はうまく言葉がしゃべれない様子で、ごくっと唾を飲み込む。
少女の指さす窓の外には、あの黒い人がいた。真っ赤に燃える目を大きく見開き、窓に両手をつけ、鼻がくっつきそうなほど窓に顔を寄せる。
黒い人は中をのぞき込み、何か、だれかを探しているように視線をうろうろさせたあと、にちゃりと口を開いた。
「……ナガ。……マツ……ナガ……」
その声はか細く、ひどく風邪を引いた人の声のようにざらついて、大半の人は聞き取れなかっただろう。しかし一番近くにいたたま子と湊、ほか数人は「松永」と呼ぶ声を聞いていた。そしてその中には、松永本人も含まれていた。
襲撃は唐突に止んだ。
ドアにぶつかるモノはいなくなり、獣たちの走り回る音も消えて、窓からのぞき見ると、大小の黒い人がぞろぞろと草原の中を歩いて丘を下っていく後ろ姿が見えた。その中にはあの、窓から中をのぞき込んでいた黒い人もいたのだろうが、どれかは判別がつかなった。
黒い人が自分を呼んだ、松永はそのことを気にしているようだった。口数が減り、ふさぎ込み、かと思うと突然うわーっと声を上げ、頭をかきむしっては「すまない」を連呼していた。
そんな状態だから猟もうまくいかず、ある日、大けがを負って戻ってきた。熱にうなされ、痛みに朦朧とした意識で「すまない」「もういやだ」「逃げたい」「ここは地獄だ」といった言葉を一晩中口走っていて、翌朝気付くと寝床は空になっており、それ以降松永の姿を見かけることはなかった。
あのけがで出歩くなど自殺に等しい。きっと黒い人か獣にやられたに違いないと、何人かが口にした。口にしない者も、そう考えていた。湊もその1人だった。
食糧の調達を率先してやってくれていた松永がいなくなり、猟は当番制になった。一番年下のたま子と湊は除外されたが、みんな、だれも心の中ではやりたくないと考えていた。
外は恐ろしい。一面緑の草原の中、どこに何がひそんでいるとも限らず、人食いの獣が草の中に身を隠し、飛びかかる機会を狙っているかもしれない――そんな考えで頭がいっぱいになって、ほんの数メートル先で流れている川への水くみも、たま子と一緒でないと草に足を踏み込めなかった。
「あーーーーっ!! もういや!!」
突然女子高生が叫んで立ち上がった。何日もずっと無言で壁に向かい、歯で親指の爪をはじいていた女性だった。
「こんな……こんな所、いられるもんか! あいつらはここを知ってるんだから! ここにはあたしたちがいるって、みんな知ってる! ここにはエサがたんまりいるって!
ここでただ食い殺されるのを待ってるなんて、いやよ!!」
「美月、声をおとし――あっ」
なだめようと近寄った友達を突き飛ばして、女子高生はドアに走った。そのまま外へ飛び出していく。
「美月!! 戻って!!」
呼び戻そうと叫んでも女子高生は振り返らずに走り、見えなくなった。
そして彼女は二度と戻ってこなかった。
鬱々とした日々が続いた。みんな厭世観に囚われて、何もする気が出ずにいるようだった。猟にも行かなくなり、ただ横になって過ごすだけになっていた。
そうなって分かったのだが、腹は空いても空き過ぎることはなく、空腹は堪えられる程度で落ち着いていた。のどの乾きも、慣れれば忘れることもできた。眠る必要もない。その気になれば、何十時間起きていようと平気だ。
(そうだよな……ここは死後の世界なんだから。死ぬわけないんだ)
湊は力なく、はははと笑う。
何も飲み食いする必要がなく、眠る必要もない。なら、ここで自分は、何をすればいい?
黒い人や獣に襲撃され、蹂躙されるのをただ恐れて、おびえて、生きるだけ?
何もやることがない、やる気が起きない。それはなんとつまらなく、苦しい時間か。それが、この先永遠に続くのか。
やがて、1人消え、2人消えと、人がいなくなっていった。
彼らが何を考え、何を求めてここを離れて行ったのかは分からない。知る気も起きなくて、湊はもう、考えることもやめていた。
ついにたま子と2人だけになったとき。たま子がぽつりと言った。
「もしかすると、みんなは、女神さまを捜しに行ったのかもしれない」
「女神さま?」
「うん。わたしも松永さんから聞いただけだし、松永さんも、前にここにいた人から聞いただけって言ってた。
この世界のどこかにいるんだって、ここから元いた世界に戻してくれる女の人が」
「そんな人がいるの!? だってそれって、死んだ人を生き返らせるってことだよね!?」
湊は驚きのあまり、たま子の肩をわしづかんでいた。
「いたっ」
「あ、ごめん……」
「だから、うわさだって。
でも、そういう人がいたらいいと思わない? ここから、わたしたちを救ってくれるかもしれない人がどこかにいる、って……」
そう、希望を口にした直後。
たま子はぽろぽろと涙をこぼした。
彼女は、考えていたのかもしれない。
どうしたって、自分が救われるには、罪があまりに重すぎる、と……。
そうして、ついにたま子も消えた。
女神さまを捜しに行ったんだろうか……。
自分だけになってしまったと、意気消沈してうなだれた。もう何もない。本当に、何一つ。
「いっそ、あいつらに食べられたほうがましなんだろうか……」
少なくとも、ここ以外の別の場所へ行けるかもしれない。あるいは、無になるのか。
自虐的にそう口に出してみたが、生きながら食われる痛みへの恐怖が強くて、踏ん切りがつかなかった。
寝よう。そして、二度と起きなければいい。
そう思って横になっていると、突然ドアが大きく開いて、黒い影のような何かが飛び込んできた。大型犬のような大きさをしたそれは、丸くかがみ込んだたま子だった。
赤く血走った目が、湊の目のすぐ先で光る。
「わたし……わたし、分かったの。わたしが何をしたいか……どうなるのか……。
きっと、タマミは分かってた。わたしを、こうしたかったの。
わたし……わたしは…………タマミになるの」
身を起こした湊にしがみつき、たま子は熱にうかされたように早口でそう言うと、唐突に湊を突き飛ばしてまた外へ飛び出していった。
ほとんど黒になりかけた体で、あーーーはははははははと高笑いをしながら草原を尋常でない速さで走り回って、そして消えた。
湊は意味が分からなかった。ただ恐怖で身も心も震えていた。風が冷たかった。夕焼けに染まった草原で、自分を抱きしめながら、震える声で「たま子……たま子……お願い、戻ってきて、たま子」と繰り返したが、どこからも返事が返ることはなかった。ただ、草原を渡る風の音が聞こえるばかり。
うなだれ、涙をこぼす。
たった1人。もう自分だけ。
凍えるような孤独感に包まれて、湊はついに、その名前を呼んだ。
「……母さん」
一度口にすると止まらなかった。
「母さん、父さん。……母さん! 父さん! 俺が悪かったよ! ごめんなさい! 何も言わなくてごめんなさい! 飛び降りなんてしてしまってごめんなさい! 謝るから! だから……、だから許して! こんな所で俺を1人にしないで……!」
声の限りに叫んでも、だれも答えてはくれない。自分の声はだれにも届かない。
「……ああ。…………ああ、あ、あああ……っ!」
自分で自分を抱きしめたまま、その場に膝を折る。額を土にこすりつけ、泣き続けた。
1人はいやだよ、さみしいよ。母さん、父さん、どうしてそばにいてくれないの。
嗚咽に身を震わせる、湊の体が内側から染み出てくる黒い靄にじわじわと
「あっ、あ、……ああ、ああっ」
涙に濡れた黒い瞳にひびが入り、ピシッと音を立てて割れた。中から、赤く輝く血走った目が現れる。
「カアサン……トウサン……」
ココハ イヤダ
コンナトコロニ イタクナイ
カアサンヤトウサント ズットイッショニイタイ
「カアサン……トウサン……カアサン……トウサン……」
立ち上がった湊は、そうつぶやきながら草原を歩いていく。黒い人や獣とすれ違ったが、彼らは湊に対して何の反応もしない。
そして目に入った小さな生き物を捕まえ、むさぼった。
「カアサン……トウサン………………クイタイ」