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第7回

 おぎゃあ、おぎゃあと、赤ん坊の泣き声がしていた。


 母親の胸に抱かれて泣く赤ん坊はかわいいが、夜、竹林の中の遊歩道の向こうから聞こえてくるその泣き声には不気味さを感じずにはいられない。

 徐々に近づいてくる泣き声に、否が応でも緊張が高まる。

 霞がかった月の光を浴びた緩やかな坂道に黒い影が伸びて、左右に身を振りながらとことこと歩く小さな姿が浮かび上がった瞬間。


「はあっ!」


 気合一閃。人差し指と中指に挟まれて夜風にはためいていた雷符が綾乃の流し込む霊力に反応して発光し、消滅すると同時に天空より激しい落雷が生じて、赤ん坊の声で泣く人形を打った。

 打たれた瞬間、人形に憑いていた怨霊は霧散して消滅したが、雷公・建御雷神タケミカヅチの神力が乗った落雷はそれだけにとどまらない。力の風が空間を乱し、吹き荒れて散っていく、その強烈な余波を防ぎきった方陣の中で、未来はうずくまったままの3人の少女たちを振り返り「もう大丈夫ですよ、終わりました」と笑顔で声をかけた。


 少女たちは互いに手を回して縮こまり、半泣き状態で、涙をためた目にはまだ恐怖の名残りがある。

 綾乃がやってきて少女たちを見下ろし

「これに懲りたら安易に呪いのグッズなんて買って、面白半分に友達を呪ったりしないことだよ!」

 と釘をさした。

 少女たちはようやく助かったことを実感できて、安堵で涙腺が崩壊したのか、わっと泣き出し、声をそろえて「はい」と答える。

 綾乃の後ろでは、地面に転がった人形をアレスタが回収、呪詛封じの符を貼っていた。



◆◆◆



「あー、疲れたー!」


 綾乃はどさりと車の後部座席に乗り込んだ。少女たちの前では一切見せなかった姿で、ぐったりと身を伸ばす彼女を未来が、気持ちは分かるというように隣で見つめる。そんな未来も疲労が隠しきれない様子で、目の下にうっすらと隈ができていた。

 2人とも疲れていた。本来ならこの程度のこと、大したことではないのだが、もう2週間以上休日返上で怨霊退治をしている。休日どころか学校にも行けていない。移動は長時間に及び、東日本の各地を車と飛行機で飛び回る日々が続いていた。一応睡眠時間は確保できているが、慣れない宿の連泊でくつろぐこともできず、また場所によっては移動中の車内で仮眠をとるということも少なくなく、体のあちこちに疲れが蓄積しているありさまだ。

 常に体が緊張状態だから、霊力もなかなか回復しないのは当然といえよう。


 自分たちだけでなく、異能部特殊任務課に所属する霊能力者全員がそんな状態なのだ。割り当てられた仕事の内容について文句を言ったりえり好みしたりする権利はないのだが、それでも、今度の件が飛び降りでなくてよかったと綾乃は思った。飛び降りの案件は、精神的にキツい。


 自死した者として地に堕ちることもできず、そこに地縛された霊たちはこぞって「なぜ?」「どうしてこんなことに」と訴える。「こんなはずじゃなかった」「楽になれると思ったのに」と泣きながら悔悟を口にするのはまだいい。だがすぐに「自分が悪いんじゃない」「全てあいつのせいだ」「あいつらがあんなことをしたから」と恨みつらみを口にし始め、「自分だけなんて、そんなのない」「あいつらこそこうなるべきだ」と憎しみを生きている者へぶつけ始める。その思いが強ければ強いほど、変質するまでの時間は短く、怨霊と化して憎い相手に報復しようとしたり、目につく者全てに手当たり次第憎悪をまき散らして、無関係な者であろうとおかまいなしに殺して同じ怨霊に変えようとする。


 そうなれば、もう滅するしかないわけだが、彼らがそうなったのは例の飛び降りサイトによるそそのかしのせいと思うと自業自得とばかりも言えず、問答無用に滅したあとに残るのは、なんとも言えない後味の悪さだった。


『あわれむのをやめなさいとは言わないわ。でも、割り切りなさい。私たちは生きている者の絶対的味方であって、彼らは私たちに同情など求めていないのだから』


 アレスタは言った。

 確かに、死んだ彼らが求めているのは自分と同じ境遇に人々が堕ちることであって、あわれんでもらうことではないのだろう。そして自分たちは、生きる人の側に立って、護る立場の人間だ。


……)

 そんなことを考えつつバックミラーをぼーっと見ていると、子どもたちを親に引き渡し、「カウンセリングが必要なら」とアレスタがいつものように名刺を渡す姿が見えた。そして車に戻ってきて、「お疲れさま」と笑顔で2人に声をかけてくる。

 彼女も2人同様に疲れているはずなのだが、全くそうは見えない。2人の手前、見せないようにしているのだろう、と未来は思う。

 対向車の少ない夜の山道を下りながら、アレスタが言った。

「少し時間はかかるけど、今日は自宅に戻りましょうか」

「え? いいの?」

 綾乃が前のめりに身を起こす。

「明日の朝、早出になってしまうけど、そのほうがあなたたちにはいいんじゃないかしら? もちろん宿に泊まるほうがいいならそうするけど?」

「家がいい! ね? 未来もでしょ?」

 もう3日も家に帰っていなかった。多少無理をしても、家族のみんなに会いたいし家で休みたい。

「家に帰りたいです」

 ほっとした様子で未来も同意する。

「決まりね。

 3時間はかかるから、それまで休んでいなさい。着いたら起こしてあげる」

「はーい」

 ぼすん、と背もたれに背を預ける。目を閉じて頭を窓に預けた。疲れから、すぐに眠気がやってくる。

 うとうとしながら綾乃は、もう3週間近く学校へ行ってないなあ、と思った。

 中間テストの時期だ。あの学校へは仕事も兼ねて転校しただけで、進学は、機関が後援している私立大学ならば融通が効いて、よほどまずい成績でない限り確実に入学させてもらえる。だからほかの者たちのようにテストの結果を気にする必要はないのだが、とはいえ、成績が下がるのはやっぱり気になった。


(……そういえば、あいつは、どうしてるのかな……)

 ふと、そんな考えが浮かんだが、『あいつ』の姿が脳裏に浮かぶ前に眠りへと落ちる。



 そしてその夜、綾乃は消えた。



◆◆◆



「綾乃が行方不明!?」


 隼人がそのことを知ったのは、翌日の夕方だった。

 放課後、帰宅しようとしていたところを校門で待っていた未来とアレスタに呼び止められ、嫌な予感を抱きつつも手招きされるまま車に乗ったときのことだ。

「そう」

 アレスタはいつになく深刻な表情で、低めの声で応じる。

「昨夜、11時過ぎに彼女を自宅前まで送り届けたの。とは言っても、神社の手前の石段までだけど。彼女が石段を上っていくのを見送って、私は未来を送っていったわ。

 そして今朝、6時に迎えに行ったとき、彼女は昨夜戻っていないと母親の阿木あきさんから聞かされたのよ」


 眉を寄せ、考え込む。

「……機関の過重労働がきつくて姿をくらましたとか?」

 そう口にしながらも、それだけはないと隼人自身分かっていた。

 あの何事にも真剣に取り組む綾乃に限って、そんな不誠実なことは絶対にしない、と。

 未来も同じ意見のようだ。

「綾乃ちゃんは、どんな仕事でも一度受けたら絶対投げ出さないし、逃げたりしない。

 それに……」

 自信なさげに少し言いよどみ、迷いつつも言葉を続ける。

「石段を上りきった所で、横の茂みの枝が不自然に折れていたの。だれかが倒れ込んだみたいな……」

「綾乃か?」

「分からない。もしそうなら、倒れている綾乃ちゃんが見つかるはずだし。だれかと争ったんだったら、ご家族の人も気付くと思うの」

 綾乃の家は未来の家と同じで、神社の境内にある。石段からは少々遠いが、それでも騒動があれば気付くだろう。綾乃は体術を習っているし、雷符もある。一方的にやられて終わるわけがなく、絶対に抵抗したはずだ。


 黙り込んだ2人を見て、アレスタが口を開いた。

「今日一日、2人で思いつく限りの場所や人を回ったけれど、どこからも何も得られなかったわ。目撃者も、ヒントになりそうな情報もなし。

 もちろん綾乃についてはこれからも探し続ける。機関の調査を専門とする部署に連絡して、捜索してもらってもいる。でも正直、今はそれにばかり人手を割いてもいられない状況なの。

 隼人くん、未来と組んで、しばらく綾乃の代理を務めてもらえないかしら?」



◆◆◆



『綾乃の代理を務めてもらえないかしら?』


 名前も知らないビルの屋上の端にしゃがんで、町の様子を眼下に眺めながら、隼人はアレスタとの会話を思いだしていた。

 攻撃手である執行人ブレイカーなしの献舞者デディケーターだけでは怨霊退治はできない、というのは分かる。

 未来は風を操るのを得意とし、攻撃もできなくはないが、それでも防御の方陣を張りながらでは難しいだろう。場合によっては被害者を護りつつそれをしなくてはならなくなるから、ますます難易度が上がる。

 未来の目の下の隈や疲労の蓄積には、隼人も気付いていた。万全の体勢でないのであれば、ますます返り討ちにあう公算のほうが大きい。1人で怨霊退治は無謀だ。

 綾乃不在でアレスタのチームは機能不全状態にある。それで隼人に穴埋めを求めてくるのも理解できるが……。


『だめだ。ほかを捜してくれ』


 隼人は断った。

 綾乃の代わりを務めるということは、すなわち機関に特定されてしまうことを意味する。

 協力者になる約束はしたが、それはあくまでアレスタのチーム内でだ。一番知られたくなかった兄の絢杜あやとにはばれてしまったものの、それも霧嶺村から戻って直接話し合うことで解決した。自分が怨霊退治をしていることを知られたくなかった気持ちは今も変わらないが、それでも理解を得られたことによって胸が軽くなったのは確かだ。


 しかし機関は違う。

 名前、顔がばれれば、芋づる式に今まで隠し通してきた全てが知られてしまうだろう。機関の調査能力をあなどる気はみじんもない。


 余計な干渉は受けたくなかった。

 1つしがらみが増えるたび、1つ自由を失い、心が濁って、鎖を巻かれたように手足が鈍る気がする。

(俺は、怨霊を滅するだけだ。それだけでいい)

 今までも、これからも。ただ怨霊を狩るだけ。実に単純明快。


 なのに――そうだ、ここにはアレスタも未来もいない。自分だけ。だから、目をそむけたりごまかしたりせず、認めよう。

 綾乃の失踪を聞いて、自分でも驚くほど動揺したのだ。

 そして今も、怨霊の気配を探るよりも、綾乃の気配がどこかで感じられないかと考えて、目を凝らしている。


 これが、知り合いをつくったがために背負い込むことになった心理的負荷だ。

 13歳のときと全く同じことが起きている。こうならないように、ずっと他人とは必要以上に関わることを避けてきたというのに……。


「どうしたんどす? 行かへんのどすか?」

 それまでふわふわと辺りを飛び回っていた白狐が、いつまでも座ったまま動きだそうとしない隼人に違和感を感じたか、顔の前に回り込んできた。

「どこか具合でも悪いんちゃいます? その気になれないんなら今日はもうしまいにして、休んだほうが良くないどすか?」

 途端、隼人の両手のフィンガーレスグローブから居丈高な声がした。


――黙れ。使役魔の下僕ごときがわが主に指図するなど、何様のつもりだ。控えろ。


「なっ、なんやて!? そっちこそ押しかけ使役魔のくせに、何様気取りや! うちと坊ちゃんはな、ずーっとこうしてきたんや。新参者が口出しせんといてや!」

 ツン、とそっぽを向く。

 しかしすぐにそれをあざ嗤う声で返答が返った。


――お仕えした長さが問題ではない。いかにそのお心を察し、意をくみ取ることができるかが重要なのだ。それこそが優秀な従者。

  主には主のお考えというものがおありになってこうしておられるのだ。それすらも察することができぬ身で、何を言わんやだな。


 その言葉にカチンときて。白狐はますます憤った。

 スピードを上げてぐるぐる飛び回りながら唾を飛ばして反論する。

「うちが優秀やないと言いたいんか! うちが拙劣せつれつやと!?

 うちはなあ、れっきとした由緒ある信太明神しのだみょうじんに連なる――」


「うるさい。どっちも黙れ」


 不機嫌な隼人の唸るような声で、ぴたっと白狐は言葉を止めた。グローブも、再び嘲弄しようと開けた口を黙って閉じた気配がする。

 そうして隼人の様子をうかがっている2人の気配に、隼人ははあっと息を吐いて立ち上がった。

 白狐の言うとおり、ここでこうしていても何の意味もない。それなら部屋に戻ったほうがマシというものだ。

 何の手がかりもない今、綾乃のことは気に留めておくとして、今は今できることに集中するべきだろう。


 隼人は体を前傾させ、コンクリートを蹴った。宙に躍り出るやすぐさま壁を蹴り、正面のビルも蹴る。そうしてビルの壁を蹴って進む。

 夜が迫った町。夕闇の色濃くなった地表に影はほぼ落ちず、帰宅を急ぐ人々も、まさか人が頭上を跳び回っているとは思わず、振り仰ぐこともない。

 そうしていつものように、昏い影に潜み、道行く人をその毒牙にかけようと虎視眈々狙っている怨霊の気配をたどってそこへ向かっていたときだ。


「坊ちゃん!」


 ヒュッと小さな風切り音を聞いた気がしてそちらに視線を向けると、何かが彼の背中に向かって飛来していた。

 反射的、横のビル壁を強く蹴って軌道を変える。

 矢のようにすぐ横を通り過ぎて壁に突き刺さったそれが先の尖った細いパイプであると視認した隼人は、外灯に降り立つやすぐさま飛んできた方角へ視線を飛ばす。


 ビルの屋上に立ったその人物は、奇襲が失敗したというのに逃げもせず、慌てる様子も見せずにそこにいた。


 ただでさえ日が落ちる寸前の暗い中、逆光ということもあり、その姿は黒い影にしか見えない。ただ、ズボンのポケットに両手を突っ込んだその立ち姿と輪郭線から、隼人とそう歳は変わらない男で、どこかの高校の制服のようなブレザーを着ているのは分かった。


 少年は隼人を見下ろし、うす笑いを浮かべ、

「あーあ、失敗か。残念」

 と嗤った。

「きさまは」

 との問いに、少年は肩をすくめた。

「おまえなんかに名乗る名はないよ」

 首を傾ける動きで遮光が当たり、面が見える。

 その顔に見覚えはないが……どことなく、だれかを想起させるような顔立ちでもあった。

 だれかに似ている気がする。だれだったか……。


「人違い、というわけでもないようだな」

「違うよ。安倍 隼人。ただおまえが気にくわないだけさ。

 おまえ邪魔なんだよ。だから死ねよ」

 軽い口調で告げた瞬間、少年の体から大量の黒い靄が噴き上がった。


 並の人間ならあり得ない――これほどの穢れをまとっていながら変質もせずにそうして平然と立っていられるはずがない――光景に隼人は目をみはる。

 そのとまどいに硬直した一瞬を突いて、触手のように伸びた黒靄が四方から隼人を襲った。


 白狐が口から白雷を発してそのうちの幾つかを砕いたが、黒靄の触手のほうが圧倒的に多い。

 外灯を蹴り、鞭のようにしなるそれらを跳んでかわし、地へ降り立った直後、間髪入れず頭上から滝のようになだれ落ちてくる黒靄を避けて後ろへ跳ぶ。地面を強く蹴り上げ、壁を蹴って逃げる隼人になお追い迫るそれらのしつこさに舌打ちをすると、グローブが言った。


――主よ。手を。そしてわれの姿を思い描くのです。


「おまえの……?」

 隼人は言われるまま右手を伸ばし、太刀だったときの姿を脳裏に描く。すると手のひらが熱くなり、その中心で収束した気が黄金の太刀の形となった。

「これは……」

 思わず言葉が漏れたが、そのことにいつまでも驚いている暇はない。


――主よ、右手上空です!


 そちらを振り仰ぎ、迫る触手を斬り払う。刃に触れた瞬間、黒い靄は隼人の拳を受けたときのように霧散した。

 しかし黒靄がひるむことはなく、むしろ立ち止まった隼人に対し、集中攻撃とばかりに一斉に襲いかかる。飲み込まれたかに見えた次の瞬間、光が閃光のように走って触手のことごとくを斬り払い、霧散させた。


 無傷で現れた隼人に、今度は少年が舌打つ。

「ほんと、目障りなやつ。

 こうなったら僕が直接やるしかないか」

 ビルの金網を蹴り、地表にいる隼人へ向かって跳ぶ。

 そんな少年を真正面から迎え撃とうと拳を構える隼人。

 そのときだった。


『やめて! 兄さん!』


 綾乃の悲痛な叫びを、確かに聞いた気がした。

 驚きに瞠った隼人の金色の目に、少年にかぶさって、二重露光した写真のようにうっすらと綾乃の姿が映る。


「……綾乃……?」


 次の瞬間、それまで彼らのいるビルの谷間へ差し込んでいた、一筋の赤光が消えた。

 太陽が完全に地へと沈み、たそがれ時は失われ、夜へと切り替わる。

 それと同時に、目に見えて少年の動きが鈍った。硬直したように宙で止まり、身を縮める。

「ああ……くそッ。

 もう少しなんだ。もう少しなのに――」

 何かに堪えているように歯を食いしばり、全身を震わせ。

 見えない手で引き戻されるように、唐突に少年の姿はその場から消えた。


 一体何が起きたのか……。

 外灯のぼんやりした光の下でしばしの間たたずんで、そうか、と隼人は思った。


「あいつ、綾乃に似ているんだ」


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