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第8回

「チクショウ! もう少しだったのに!」


 引き戻されたナイトフォールの草原で、少年は幾度となく地面を激しく踏みつけた。まるで隼人がそこに見えているかのように、執拗に繰り返す。そして腹立ちまぎれに腕を振り、草を散らした。

 その激しい癇癪かんしゃくを見て、黒い人たちや化け物たちは少年から距離を取り、遠巻きにうろうろしている。


『兄さん! あんなことするなんて聞いてない!』


 腹立たしげな綾乃の声がした。

 綾乃の姿はどこにもなく、その声は少年自身の、皮膚や内臓といったものよりさらに奥深い、脳の奥の、魂が存在すると言われる深淵から響いてきていて、それゆえに、彼女の声は少年にしか聞こえない。


「うるさい! じゃあおまえは、僕が何をすると思っていたんだ。おまえの体を使って、現世をただ散策したかったとでも?」

 ばかも休み休み言え。

『でも兄さんは、そう言ったじゃない。きょうだいに会いたい、父さんやおじいさんたちにも会いたい、なにより母さんに伝えたい言葉があるんだ、って……』


 綾乃が言っているのは昨夜のことだった。早く自分の部屋のベッドで眠りたいと、その一心で石段を登りきった彼女は隙だらけだった。そんな彼女を横から殴りつけ、襲撃した男の背後から現れた金髪のセルロイド人形は、自分はおまえの兄だと名乗った。

 それだけなら、綾乃は信じなかった。しかし人形は綾乃と兄の2人だけしか知り得ない、母の胎内でつながり、通じ合っていたときの会話について話した。


 夢で見た物語のようにふわふわとした、たよりない記憶だったが、綾乃は覚えていた。

 兄は言った。

『こんな窮屈な場所はもうたくさん。ゆうべ知り合った神隠かみかくしってやつが、面白い場所を教えてくれたんだ。いろんな生き物がいて、殺し合ってるんだって。見に行かないか? って。そこへ行く方法も教えてくれた。

 僕は行くよ』

 兄はたびたび母の胎内を抜け出して、魂だけで外遊びをしていた。綾乃も誘われたことがあったが、あたたかな母の胎内庇護から出るのは怖くて、兄の手を取ることができなかった。兄はそんな綾乃を弱虫とあざけり、1人で出歩き、その神隠に出会ったのだろう。


 神隠が何者かは分からない。霊能力者か、はたまた怨霊か。魂でふらふら飛び回っていた赤子を誘惑するのだから、いずれにしてもろくな者ではない。

 兄は綾乃が止めるのも聞かず、肉体との結合部を切り離し、魂だけとなって飛んでいき、二度と戻ってこなかった。


 医師は双子の片方の鼓動が消えたため、死んだと結論した。いわゆるバニシングツインと呼ばれるものだ。胎内で何かが起きて、片方の胎児が死亡する。大抵の場合、胎盤異常による栄養の不均衡や片方のへその緒が首に巻き付いたなどが原因で、二絨毛膜二羊膜の二卵性双生児に起きる可能性は少ないが、全くないわけではない。

 死んだ胎児は母体に吸収されて消える。しかしごくまれに、50万人に1人の確率で、生き残った胎児が死んだ胎児を吸収する場合がある。これを『寄生性双生児』と呼ぶ。


 胎児の綾乃は、兄を引き止めたかったがかなわなかった。だからせめて肉体だけでもと考えたのかもしれない。

 綾乃の体内には兄の体の欠片があり、それは綾乃から栄養をもらって生きている。


は僕の体だ。僕の体は妹の体とつながっている。は僕の体の一部であり、全部であるとも言える。

 僕の魂に、きっとなじむ」

 スライはそう考えた。

 そして傀儡にした男に綾乃を襲わせ、綾乃を言いくるめてその体の主導権を手にした。


 綾乃は疲れきっていた。不意打ちで受けた激痛もあって思考がまともに働かず、兄の「家族に会いたい。母に会って、悲しませてしまったことを謝りたい。そしてほんの少しだけ、自分が手放してしまった日常を感じたい」という涙ながらの殊勝な訴えに心を動かされ、兄を受け入れてしまったのだった。


 スライはあざけった。

「そんなばからしいことを信じたのは、おまえがそう思いたがっていたからさ!」


 アレスタの言葉が今になって胸に突き刺さる。


「学習しない、ばかな妹。

 兄を失った喪失感、自分だけが生まれてしまった罪悪感を抱えて生きているうちに、兄に幻想を抱き、理想の偶像として祀り上げていたんだろ。

 本当の兄は、愚鈍で弱虫の妹を切り捨て、去っていっただけだったのにさ!」


 綾乃はうなだれ、涙を流した。

 嘲弄が剣のように胸を切り裂く。

 こんなにも痛いのは、一言一句そのとおりだからだ。

 こうなってしまったのはすべて自分が愚かだったせい。

 同情と罪悪感から兄を信じて、自分の体の鍵を明け渡してしまった。


 母に会いたい、後悔していると謝りたいと、弱々しく顔を覆った手の内側でスライはほくそ笑み、綾乃の中に入った瞬間ドアを閉ざして彼女を闇に突き落とした。


『……でも兄さん。なぜハヤトを襲ったの? 彼はあなたに何もしてないのに』

「は? 何もしてないだって?

 いいや、あいつはこれまで何度も僕の邪魔をしてくれてたよ。つい最近は、あの異界駅でね。まあ、そこそこ楽しめたけどね。

 ああいうやつは、絶対僕の邪魔をする。せっかくいい気分に浸っているのに、ある日突然僕の前に立ち塞がって邪魔をして、不完全燃焼で僕の楽しみを半減させようとするんだ。

 そういうやつは、早めにたたいておく必要があるんだよ」

『やめて! 彼に手を出さな――』

「ああうるさい! もう黙れ! 妹のくせに、僕に逆らうな!」

 スライは癇癪を起こして激高するや、綾乃の意識をさらに深い、暗い淵へと突き落として沈めた。

 もう二度と自分への不満を口にできないように。


「おまえはそこにいるんだ。ずっと、永遠に」

 そうしてスライは綾乃のことを忘れた。


 それにしても、とスライはまたもやあのときのことを思いだし、ギリと奥歯をかみしめる。

 そうだ、これからだったんだ。あと少しであいつを仕止められた。なのに、たそがれどきが終わった瞬間、突然有無を言わせない力で引き戻された。

 まるで、あなたが動けるのはここまで。もうこれ以上はだめですよ、と子どもをたしなめる大人のように、毅然と、抗いがたい強大な力で。


 やっと、現世で自由に動ける体を手に入れたというのに!


「……まだ神どもの引いた境界線ルールとやらの内側にいるというわけか……」

 いまいましい。

 たかが現世に生まれなかったというだけで、怨霊どもですらできることが、自分にはできないなんて!


 神の引いた境界線。

 彼岸と此岸。現界と異界ナイトフォール

 それのせいで自由に動けないというのなら、その境界線をぶっ壊してやればいい。


「ああ、いいことを思いついたぞ」


 今までの鬱屈がすべて晴れたように、すっきりした表情でスライは嗤う。

 その背後では、黒い人、獣、そして数十の怨霊たちがうごめき、喜々として彼からの命令を待っていた。



◆◆◆



 フランス首都パリにあるTUKUYOMI機関本部は、騒然となっていた。

 姫巫女からの託宣が降りたのだ。


 姫巫女とは、1999年に起きた『怨霊事変』後、ナイトフォールに残ることを選択し、現世へ帰還しなかった者である。

 その肉体は通称『棺』と呼ばれる特殊強化ガラスの箱に納められ、数百の執行人ブレイカー、数千の特殊訓練を受けた職員たちがいるビルの奥深く、厳重な管理のもと、人工羊水に半身を浸し、生命維持装置につながれながら生き続けている。

 そして25年たった今も彼女の魂はナイトフォールをさまよい、そこで知り得た情報、怨霊たちが画策している事件などを『託宣』という形で肉体を使って現世の仲間に伝えている。


 その姫巫女が、突如けいれんを起こした。彼女につながれたさまざまな機械が一斉に限界を突破し、悲鳴のような緊急ブザーを発する。

 常に彼女を見守り、その健康に気を付けていた医師たちは蒼白した顔で機器にとびついた。機器の故障を疑ったのだ。しかし機器はどれも正常だった。

 困惑する彼らの前、姫巫女は跳ねるように身を起こし、『託宣』を告げた。


「日本の地で、重大な事態が起きる!」


 この部署を管理、取り仕切り、姫巫女との対話を担当する調律者アジャスターアドリエンヌ・デュポンによる

「それはいつ、どのようなこと?」

 との問いに、姫巫女はやはり叫ぶように答えた。


「すぐよ! 一刻の猶予もないわ! このままでは大いなる災いがあの島国を数日で食らい尽くし、膨大な数の怨霊が生まれ、雲霞のごとく周辺国へと散って、ゆく……。世界が……ナイト、フォール……」


 がくりと姫巫女が頭を垂れた。体が揺れて、力なく棺にもたれかかる。

 ナイトフォールにいる魂と現世にいる肉体との交信はかなりの負荷がかかるらしく、ほんの1~2分程度しか話せないのだ。


 医師たちが取り囲み、脱力して動かなくなった体を元の状態へと戻そうとする中、アドリエンヌは端末の緊急回線を開き、命令を発した。

「今動ける執行人ブレイカーおよび献舞者デディケーターは、全員渡航準備をするように! 10分以内よ! 車を用意するから空港へ向かうこと! 専用機を手配します!

 コミュニケーター! 大至急、東日本支部との回線をつなぎなさい! 調律者アジャスター奥津城と連絡をとり、彼に現地での采配を――」


調律者アジャスターアドリエンヌ!」頭部を支えていた医師が彼女を呼ぶ。「姫巫女が何かつぶやいています!」

「どきなさい」

 つかつかと歩み寄って姫巫女の口元へ耳を寄せる。

「……行機、は……だ、め……」

「何?」

 聞き返したが、しかし姫巫女は再び深い眠りに落ちて、完全に魂との接続は切れてしまっていた。


調律者アジャスター、どうしますか……?』

 端末を通じて姫巫女のつぶやきを聞いていたコミュニケーターの、おずおずと問う声がする。

 飛行機はだめだと姫巫女は言った。しかし飛行機を使わなくては日本へ今日中に執行人ブレイカーたちを送り届けることは不可能だ。

 しかし姫巫女の託宣は絶対……。


 アドリエンヌはチッと舌打ち。

「先の命令は撤回します。執行人ブレイカーおよび献舞者デディケーターはいつでも動ける状態で待機してちょうだい。

 コミュニケーター、調律者アジャスター奥津城との回線をつないで。今は東日本支部の者たちだけでこの危機を乗りきってもらうしかないわ」

 数日、と姫巫女は言った。時間はある。最悪の事態に間に合うように、他の渡航手段を考えなくては。



◆◆◆



 数時間とたてず、姫巫女の最後の託宣の意味を、パリ本部の者たちは血の気の引く思いで知ることとなった。


 日本へ向かった世界各国の飛行機が、次々落下するという原因不明の事故が多発したのだ。

 飛行機は管制塔との連絡が取れなくなっていた。気象や空港の様子を伝える飛行情報サービスのアンテナが作動しない。それらは天候が悪く、雷雲のせいだと言う者もいた。いずれにしても情報が得られない飛行機は離着陸ができない。


 空港は空港で、やはり不可解な事故が起きていた。滑走路で離陸しようとした飛行機が衝突したのだ。

 同じ滑走路に入る飛行機を見た機長が

『自機がまだ滑走路上にいる!』

 と警告する声が管制官たちのいる部屋に響く。

『了解。双方離陸を待機せよ』

 と管制官は指示を出した。しかしその声はなぜか乱れた電波によって、双方の機長に伝わっていなかった。

 現場の機関士たちも、雷雨で視認が効かないながらも双方の機体を注視し、このままではぶつかるのではとの懸念を持っていたが、指示が出ない以上どうすることもできなかった。

 警告を発した側の機長は、自分が発した警告が相手機にも伝わっていると考えた。そして管制官からの指示により、相手の機体は停止するに違いないと。しかし警告は伝わらず、指示を受け取らなかった相手機はそのまま離陸滑走を続け、むしろ加速をしていた。同じ滑走路にいる機体を視認したときには、もう衝突は避けられない状態となっていた。

『ちくしょうめ!』

『よけろ! C2出口に入れ!』

 離陸待機せず、前照灯が近づいてくるのを見た機長は蒼白し、衝突を避けようと脇の出口走路に入る回避行動に移ったが、それは不可能だった。

『上がれ! 上がってくれ……!』

 加速し、停止制動が効かない状態にある相手機もまた強引な離陸を試みたものの、わずかに機首が浮いただけだった。

 飛行機は衝突し、燃え上がった。


 空港側は混乱し、とにかく上空にいる機体に周回待機命令を出した。しかし、またもやその命令は伝わっていなかった。


 待機命令を受けていたはずの機体が降下を始めたのだ。

 別の滑走路への誘導を検討したが、全ての滑走路は事故により一時待機した機体、消防車、救急車で埋まっていた。管制官は別空港へ誘導する指示を待てと繰り返したが、その全てが上空にいた機体に通じていないようだった。

 着陸体勢に入った機体に、管制塔は降下をやめるよう何度も指示を飛ばすも機長が応じないことに疑問を抱く。また、進入角度もおかしく、減速もしていないことに恐怖を覚えた管制官の、必死に指示を出す声は、やがて悲鳴に変わった。

 飛行機は着陸しようとしているのではない、落下しているのだ。

 機体は滑走路に激突した。


 空港の者たちは困惑した。困惑して、今起きている事態が全く理解できないでいた。

 次々と飛行機が落ちてくる。細切れで拾った混線した通信は

『落雷……』

『操縦桿が……』

『計器……おかし……』

『反応……ない……!』

『なんだ? 黒い影が――』

 という絶望の声。

 そして混乱した機長、副機長たちの悲鳴が続いた。


 空港は火の海と化していた。地上の炎にあぶられて、空も赤く燃えている。

「一体……何が……どうして……こんなこと……」

 目の前で起きている地獄絵図に、魂を抜かれたように呆然となる管制官。

 彼が最後に見た光景は、管制塔へ向かって飛んでくる、脱落したエンジンの巨大な鉄の塊だった。




 同時刻。別の場所では列車の脱線事故が、やはり複数の場所で起きていた。

 減速せず、最大加速でカーブに進入、脱線した機体はその勢いのまま転がって、沿線で踏み切り待ちをしていた車、道を歩いていた者たちをも巻き込み、家屋に激突してようやく止まるという大惨事ばかりだった。


 また、都心で環状運転を行う近距離電車にも異常が発生していた。電気系統がおかしくなり、手動制動も効かず、減速できないまま暴走した機体が前を走る機体に次々と玉突き衝突するという惨事である。


 そうしてそれらをよそに、各地で大量の同時飛び降り自殺も発生する。1つ1つのグループは少人数だが、それが数百も起きれば数千人規模の死者となる。



 どれも通常なら起こり得ない事象だった。こうならないために、何重にも安全装置が掛けられているはずなのに、その全てが作動しないなんてことが、はたして起こり得るのか?

 しかも、いちどきに全てが重なるとは。

 それは、数百万兆分の1の可能性ではないのか?


 偶然とは考えられなかった。何者かが意図して起こしたと考えるのが普通だろう。

 人々は混乱し、パニックの中、大規模なテロが起きているのだと決めつけた。きっとすぐに世界規模の有名なテロリスト集団から犯行声明が出ると。


 しかし真実は違う。

 ずっと、何週間も前から怨霊事件の対処にあたっていた霊能力者たちだけは、今何が起きているのか、正確に理解していた。


 苦々しい思いで空を見上げる。

 暁の空を、これまで見たことがないほど大量の怨霊が飛び交っている。

 今までの全てはこのための布石だったのだ。



◆◆◆



 雷雲が消えて、地上の大惨事を映したように真っ赤なあかね色に染まったたそがれどきの空を背景に、少年が電波塔に立って見下ろしていた。

 その周囲を何重にも取り巻いた怨霊たちが、怪鳥のようなけたたましい笑声を地上に浴びせかける。


 突然襲いかかった理不尽な死は、怨霊を生む。

 局所で発生した膨大な数の死者、その怨嗟をまき散らす大量の怨霊の発生。

 此岸と彼岸の境が曖昧になったこの場所で、スライは巨大なナイトフォールの門を開いた。


 この瞬間を待っていたというように、大量の黒い人や獣、ナイトフォールの化け物たちが現世へ一斉に、堰を切ったようにどっとなだれ込む。



 現世が僕を受け入れないというのなら、現世もナイトフォールに変えてしまえばいい。



「どうだ神ども。おまえたちの境界線ルールを、この僕が破壊してやったぞ!」


 スライの哄笑は風に乗り、町じゅうへ広がる。

 その声は、隼人の耳にも届いていた。


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