空中にできたその巨大な門を、霊能者たちは信じられない思いで見上げていた。
異界・ナイトフォールとつながる門だと、目にした瞬間に理解し、愕然となる。
人しか通れない門。
だがあれは違う。
昼でもなく夜でもない、夕暮れの空を背景に、まがまがしく、いびつで、周囲の空間を不安定に歪ませながら崩れることなくそこにしっかりと固定されているあの門は、数十メートルはあろうかというほど巨大で、その内部は鏡面のように黒いつやを放っており、向こう側がまるで見通せない。
およそ
そして今、黒い水のような鏡面からこぼれ落ちる1滴の雫のように地面にしたたったのは、びしょ濡れの少女だった。
まるで直前まで溺れていたかのように地面に手足をついて、ごほごほとあえいでいるように見えるその少女は、その町にある中学の制服を着ていた。
「き、きみ……大丈夫、かい……?」
突然の門の出現に度肝を抜かれていた人々――その門は一般人にも見えていた――が遠巻きに見守る中、中年の男性が少女へと声をかけながら近づく。彼にも同じくらいの娘がいて、今日は家族サービスで家族で食事に行こうと町に出ていた。つらそうに咳き込んでいる少女を見ていられなかったのだ。
かけられた声に反応して、ようやく面を上げた少女の顔を見た娘が、はっと凍りつく。
「パパ! その人に近寄っちゃだめ!」
蒼白した顔で叫んだ。娘は彼女を知っていた。1カ月近く前、理科室で塩酸をのどに流し込まれて死んだ女の子だ。
咳き込む少女が手をあてたのどは、ひどくただれて変色しているのが指の隙間から見える。
歩道にいる娘からの緊迫した呼びかけに、え? と振り返った男の背に、少女が飛びついた。
指が背に触れた瞬間、体の左半分が内側から開いて、マントのように男にかぶさる。赤い肉の内側に生えた無数の乱ぐい歯が男の右半身に突き刺さると同時に血塵が舞った。
耐えがたい激痛が男を襲う。
「うわっ! あああああああ……っ!! 痛い! 痛い! やめろ! 離せぇえええっ!!」
男は残った左腕で必死に引き剥がそうとするが、少女は――いや、少女であったモノは、完全に男を捕らえていた。両足、腰へとからみつき、残る左半身も飲まれていく。
ばきん、ぼきんと骨の折れる音がして、ますます男の悲鳴は切迫したものとなる。
「だれか……たす……助けて、くれ!!」
男は必死の形相で遠巻きにいる人々に手を伸ばしたが、目の前で起きている異様な惨事、恐怖に飲まれて立ちすくみ、男を助けに動く者はだれ1人としていなかった。
絶望に涙を流しながら、男の頭部が飲まれていく。
ばきん、ぼきん、ぼぐっ、じゅるる……。
その場に残ったのは、男を捕食した粘体の化け物と、赤い血だまりだった。
「パパ……」
娘はへなへなとその場にへたり込む。
惨劇は、それだけでは終わらなかった。
黒い鏡面からの雫はどんどんと垂れ落ちて、似たような少女が現れる。赤い目を光らせ、にたりと嗤ってふらりふらりと体を揺らしながら歩き、一番近くにいた者へ両手を広げて襲いかかる。
捕食される彼らを見、その悲鳴を聞いて、ようやく人々の金縛りが解けた。
「いやああああああああ!!」
「く、来るなあっ!」
「逃げろーっ!!」
きびすを返して逃げようとした男の上に、不自然な形の黒い影が落ちる。影に気付いた瞬間、男は圧倒的質量を持つ黒いモノに押しつぶされた。
黒い鏡面からぼたりぼたりと、悪夢の中にしか現れないはずの化け物たちが絶え間なく落ちてくる。その姿はさまざまだ。
巨大な顔面に小さな手足がくっついたモノ、人の顔にヘビの体を持ち、触手をうねらせるモノ、3メートルはあろうかという巨体に数え切れないほどの腕を生やしたモノ……。
「化け物!!」
ひいいっと叫んで逃げ惑う人々を、まるで蝶か何かのように目で追い、片端から捕まえては紙粘土細工のようにボキボキと骨を折り、手足を引き抜いてかじりつく。
細路地へ逃げ込む者もいたが、すでに先回りをして影にひそんでいた小型のモノたちが、お相伴にあずかるというように彼らへと群がった。
あちこちで悲鳴が上がり続け、途絶えることのない阿鼻叫喚の叫びと血塵が一帯を満たす中。
突如として
「キエーーーーーーーーーーッ!!」
という勇ましい裂帛の声が響き渡った。
一体何事と、一瞬それまでしていたことを忘れて、化け物や人々の動きが止まる。
道路の中央に、いつしか白装束で額にはちまきをつけた、恰幅のいい中年の女が立っていた。
目にするもの全て石と化すメデューサのごとき眼力で女は地獄と化した空間をはっしとにらみつけるや、一番近くにいた化け物に向けて叫んだ。
「怨霊退散!!」
小脇に抱えた壺の中に手を突っ込み、つかみ出した塩をぶつける。ぶつけられた化け物は、ギャッと声を上げて後ろにのけぞり、消滅した。
女は再びキエーッと叫び、
「怨霊退散!! 怨霊退散!!」
と唱えながら塩をぶつけては化け物たちを祓っていく。
そしてその後ろでは、やはり同じく白装束を着た袴姿の男たちが円陣を組み、
「ノウマク・サラバタタ・ギャテイビャク。サラバボッケイビャク。サラバタタラタ・センダマカロシャダ・ケンギャキギャキ・サラバビギナン。ウンタラタ・カンマン」
と不動明王の火界咒を一斉に唱え、印を結んだ指の先から不動明王の神意、金色をまとった火炎を、人を襲う化け物たちに向けて放っていた。
「周英! 人々に道を示し、避難させなさい!」
戦いの合間を縫い、女は後方の男へ指示を飛ばす。
「分かりま――
男の返答は、途中から切迫したものへと変わった。
攻撃が途絶え、目を離した一瞬を突いて、黒い化け物の1体が女へ向かって跳びかかっていたのだ。
女はすぐさま視線を戻したが、化け物はすぐ目前に迫っていた。塩をつかみ出し、たたきつけるには距離が足りないとさとりつつも、相打ち覚悟で果敢に壺に手を突っ込む。
しかし次の瞬間、化け物は背後から受けた一撃で上下真っ二つに裂けて消滅した。
消滅した化け物の後ろから、木刀を構えた玄水の姿が現れる。
「よーお。久しぶり。10年ぶりかな?
ウィンクを飛ばす玄水。
作務衣に草履と、まるで近所にちょっと散歩に出たというような風体だ。
彼の登場に、九死に一生を得たと三歌音は気を緩めることはなく、それどころか目をつり上げて玄水を叱り飛ばした。
「遅い! 今ごろ来たのかい、玄水! すっかり
玄水は目を丸くし、ごましおのような無精ひげをなでつつニヤリと笑い
「相変わらずだなー、三歌音ちゃんは。たまには「助けてくださってありがとうございました、玄水さま」くらい殊勝なこと言ってくれてもいいんだぜ?」
と木刀で肩をトントンする。
それに逆なでされたように三歌音は肩をそびやかして叫んだ。
「ちゃんで呼ぶんじゃない! ちゃんで!」
「つーてもなあ。50年近くもたって、今さら呼び名を変えて覚えるのは面倒くさ――よっと」
向かってきた化け物を振り向きざま木刀で切り上げる。
その木刀は名のある木刀などではない。その辺の店頭でかごに突っ込まれて売っている、ただの安物の木刀だった。玄水の剣道場で普段から門下生たちが使っている物で、『佐藤剣道場』との名前がマジックペンで書かれている。
しかしひとたび玄水が用いれば、それは怨霊を滅する霊具となる。
開かれた『氣道』を通って流れ込む玄水の力を芯に宿し、黄金色を帯びた木刀は、その切っ先に触れる穢れを全て消し去り、
「じゃあ、おまえさんを今後どう呼ぶかは、お互い一汗流したあとの枕言葉で決めようや」
「戯れ言をお言いでないよ! このエロじじぃが!!」
昔ながらのよしみで言い合いながらも、互いに背を預けて化け物たちを滅していく。
黒い翼で空を舞い、カラスのようにギャアギャアわめきながら降下して攻撃する怨霊を主に三歌音が受け持ち、地上の化け物を玄水が次々と切り伏せた。
そんな彼らの周囲では、火界咒を用いる三歌音の弟子たちだけでなく、玄水と同じように木刀を片手に向かっていく者たちがいた。
木刀に己の氣を流し、その氣をもって2人1組で化け物たちを切り裂いて滅する。
「あの子たちは」
「おう。うちで鍛えてるガキどもだ。今度の招集で実践経験もそこそこあって、使えるようになったやつだけ連れてきた。使えないやつらは後ろで退避を手伝わせてる」
三歌音はうなずいた。自分もそうだったからだ。前線で戦える者だけ連れてきて、残りは全員後方退避の手伝いに向かわせた。そしてこの前線でも、周英の指示で助け出され、保護された者たちが、護衛付きで安全な後方へ逃がされている。
そうしてあらかた片付いたかと思ったときだ。
ずう……ん……、という大きく、質量のあるものがこちらへ近づいてくる振動が起きる。そちらへ視線を向けると、小型で足が速いモノたちより遅れて、巨大な黒いモノが3体、ビルの合間からゆうゆうと首をもたげて現れた。
ちょっとした小山ほどもあるその大きさは、もはや怨霊や化け物といった域にとどまらず、怪獣と呼ぶのがふさわしく思える。
「ここにきて大物の登場かい」
額の汗をぬぐい、チッと三歌音が舌を打つ。背筋を伸ばして堂々正面を向けて迎え撃とうという姿勢をとっているが、乱れた息がなかなか元に戻らないでいる。
疲れているのだ。今日の日までずっと、日本各地を走り回って怨霊退治をしていた。その疲労から回復しきれないままここへ来た。そんな状態だから、もともと少なかった霊力は先の戦闘でほぼ放出しきっている。
「本命は、遅れて現れるってね」
応える玄水も、門下生たちの手前、弱音を吐くのは控えていたが、三歌音と同じですでに霊力の大半が失われていた。
(まったく、歳は取りたくないもんだぜ。昔ならこの程度、一晩寝りゃ全回復まで持っていけてたってーのに)
正直なところ、ケツをまくって逃げだしたい気持ちはある。
だが力が衰えたとはいえ、ここにいる者たちの中で一番霊能力が強力で実戦経験もあるのは、玄水と三歌音なのも事実。
三歌音がフンと大きく鼻を鳴らした。
「両手広げてぶっ倒れる前に、ちょいと大仕事でもこなしていこうかねえ」
ぱん、と帯をたたいて気合いを入れる。
「やだ、三歌音ちゃんったら相変わらずおっとこまえー。んじゃ、俺は泣く泣く後塵を拝して――」
「ばか言ってないで、あんたも来るんだよ!」
玄水の襟首をひっつかみ、引きずっていこうとする。そのまま向かうかと思ったところでぴたりと立ち止まり、振り返った。
「おまえたち、残党狩りは任せたよ!」
「はい! 御院さま! お任せください!」
弟子たちが声をそろえて返し、頭を下げた。
そんなふうに死地へ赴いた2人だったが。
いざ先頭の怪物に向かい立ち、それぞれの武器を構えた瞬間。突如夕日を背にして上空から降下した人影が、先頭の怪物に一撃を入れるのを目撃することとなった。