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第百八話

『キトゥラ・シャゼイ』。別名を聖選の儀。


大草原に古くから伝わる部族間の神聖な決闘の儀式。それは単なる戦いではなく、不必要な血の流れを防ぐため、部族の力を測る手段として確立された伝統。

選ばれた戦士たちが繰り広げる連続競技で、敗れた部族は、勝利した部族の言うことに従わなければならない。

部族を賭けた決闘でありながら、全面戦争を避ける知恵として、大草原の獣人たちが生み出した叡智の結晶——それがキトゥラ・シャゼイだった。


「俺たち一行は、『キトゥラ・シャゼイ』を、パンテラ大部族に申し込もう!」


ゼゼアラは人間の口から草原の伝統的な儀式の名が出たことに驚きつつも、アドリアンを見つめる。

何を考えているのかは分からないが、こうして挑まれて逃げるのでは、部族の名が廃る。

故にキトゥラ・シャゼイを受け入れようとした。しかし、彼は集落を見渡すと、厳格な表情でこう言ったのだ。


「いいだろう、キトゥラ・シャゼイを受けよう。……しかし、族長はどこにいる?」


大草原において「部族」と呼ばれるためには厳格な条件がある。その最も基本となるのは、「獣人の族長」の存在だ。

これは単なる伝統ではなく、大草原を守る知恵でもあった。獣人以外の種族が族長となることを認めれば、いずれ他種族に草原の支配権が移り、獣人たちの聖なる大地が蹂躙される恐れがある。

だからこそ、どんなに弱小な集団であっても、獣人の長がいてこそ「部族」なのだ。


そして……キトゥラ・シャゼイは部族同士でないと、行えない。


「すまないが、他種族は族長とは認められんぞ。獣人の族長がいない限り……この廃棄集落は、部族として扱えない」


彼の視線が集落を隅々まで探る。そこにあるのは、痩せ細った草食獣人たち、怯えた子供たち、そして年老いた獣人たちの姿ばかり。

どこを見ても、部族を率いるに相応しい獣人の長の姿はない。


「ワ、ワシは族長ではありませぬ……!」

「お、俺たちも違うから見逃してくれぇ!」


シカの老人は族長ではなく、単なる取り纏め役の長老のようなもの……。

タカの獣人たちも集落にいる弱い獣人たちよりは戦えるが、所詮は子悪党止まりの男たち。


「大丈夫だよ、キミたちが族長だなんて、目の見える獣人なら誰も思わないから」


しかしゼゼアラの瞳は依然として鋭く、その視線はアドリアンの顔をじっと捉えている。

そんな中、アドリアンが透き通るような声で言った。


「──族長なら、ここにいるよ。紹介させてくれるかな?この集落の真の長を」

「……なに?」


ゼゼアラの眉が僅かに上がる。アドリアンの言葉に、パンテラの戦士たちも互いに顔を見合わせた。

アドリアンはそう言うと、メーラたちに目配せをした。彼らは無言で頷き、エルフの姉妹が静かに道を開ける。

彼女たちが作り出した隙間から、小さな影が一歩、また一歩と前に進み出てきた。


「……」


そこに立っていたのは、長いウサギの耳と尻尾を生やした少年——モルであった。

ゼゼアラはモルの姿を見て、怪訝な表情をさらに深めた。


それもそうだろう。見るからに頼りないウサギの獣人……それも、まだあどけなさの残る子供なのだ。

武器もなく、耳と尻尾は不安げに震え、鋭い爪で一裂きすれば絶命してしまうであろう弱者。

そんな者が族長とは、信じられなかった。


「正気か?このような、幼子が族長とは」


ゼゼアラの言葉に、アドリアンはふっと微笑みを漏らした。


「幼子……そうだね、確かにそう見える。正直、俺も最初はそう思ってしまった」


そして、アドリアンはモル少年の肩を優しく叩き、声色が柔らかく変わった。彼の瞳には真摯な敬意の色が宿っている。


「彼はね……自分の意志で、この部族の族長になることを選んだんだ。彼は……一人の獣人として、皆を守るために族長になることを決意した。この草原の中で最も勇敢な、一人の立派な戦士なんだよ」



──それは、パンテラ部族がこの集落に来る前の出来事だった。



アドリアンは大草原の秩序を取り戻すために、志を共にする獣人の族長が必要だと考えていた。しかし、この集落には族長と呼べる存在がいない。

ならば、と誰か族長になってくれないかとアドリアンが言っても、彼らは一様に族長になることを拒み、タカの獣人たちも同じだった。

それも無理はない。草原の掟では、族長は部族の命運を背負い、他の部族からの標的にもなりうる危険な立場なのだ。

さて、どうするか、と。アドリアンが途方に暮れていると……。


「ア、アドリアン様……!」


モルが震えながらも、アドリアンに言ったのだ。


「僕が、僕がこの集落の族長になります!皆を守るために、どうか認めてください!」


流石のアドリアンも、モル少年がそう言いだした時には思わず制止しようとした。

キミはまだ子供だ……族長は危険だから止めて──


「──!」


その時、まだ子供のモルの瞳に何かを見た。風に揺れる草原の果てまで届くような強い意志が、その小さな瞳に宿っていたのだ。


 「……」


弱い者たちを守るため、故郷を取り戻すため——ウサギの少年は、危険を承知で自らの命を差し出そうとしているのだ。

アドリアンは己を恥じた。「子供だから」と反射的に彼を庇護の対象としてしまった自分に。命を懸ける覚悟のある者を、その年齢だけで判断しようとした浅はかさに。


「そうか。キミは、立派な戦士なんだね」


アドリアンはモルの前に膝をつき、目線を合わせてそう言った。

そう、彼はもう資格と覚悟が備わっている、一人前の戦士なのだ。



──そして今。



「……」


モル少年は族長ゼゼアラの視線受けても尚、目を背けずに立っている。

彼の長い耳は震え、小さな手もこぶしを握りしめて震えているが、パンテラの大族長から目を逸らさない。


ゼゼアラは、モル少年の瞳を見た。大戦士の鋭い視線がウサギの子を射抜く。

彼の視線はモルの瞳に注がれたまま動かない。小さなウサギの子供は震えているが、大族長の鋭い眼差しから逃げることはしなかった。

辺りを暫しの静寂が包み込む。風のさざめきさえも消え、全ての存在が二人の視線の交錯に集中しているかのようだった。


「……なるほど、貴殿は立派な戦士のようだ」


ゼゼアラはゆっくりと身を屈め、モル少年と目線を合わせた。

そして、右手を左胸に当て、獣人の間で強き戦士に捧げる敬意の仕草を示した。

モルは一瞬、驚きの表情を浮かべた。しかし次の瞬間、彼も右手を左胸に当て、その所作を真似た。小さな手が胸の上で震えているが、視線は逸らさない。

大草原の空の下、強大な者と弱小な者が互いを認め合う、厳かな瞬間だった。


「うん、素晴らしい光景だね」


アドリアンはその光景を見て、静かに微笑んだ。

やはりゼゼアラは戦士としての矜持を持つ一流の戦士だ。その尊厳と誇りは、彼の一挙手一投足に現れている。草原の大戦士の名に恥じない気高さがあった。




♢   ♢   ♢




──キトゥラ・シャゼイは、五対五の連続競技である。

種目は、その都度変更されるのだが、その競技を決めるのは、受け入れる方……今回の場合、パンテラ部族側である。

足の速さを競う競技もあれば、単純な力を競うのも良し。


パンテラ部族が選んだ第一の競技は「力試し」。

巨大な岩に武器や魔法、あるいは素手で攻撃し、どれだけ深いヒビを入れられるかを競う単純明快な競技。


「わぁ……大きな岩……」


草原の一角に立つ石柱のような巨大な岩。その前に立つのは、一人のパンテラの戦士と、エルフの少女ケルナ。

ケルナは首を思い切り後ろに傾け、視界が埋まりそうなほどの大きな岩を見上げていた。横にいるパンテラの戦士は、そんな彼女を訝しげな表情で見つめていたが。


「草原って面白いね。あんなに大きい岩が転がってるんだもん。誰が持ってきたんだろう?知ってる?ゼゼアラ」

「……さぁな」


少し離れた場所では、アドリアンとパンテラ族長ゼゼアラが並んで立っていた。

その周囲には集落の獣人たちが大きな輪を作って集まっていた。彼らの表情には緊張と不安が入り混じっている。


「しかし……本当にいいのか?あのような華奢なエルフの少女では、我が部族の戦士には勝てんぞ」


ゼゼアラの低い声は、懸念を滲ませていた。彼の瞳がケルナの小さな背を捉え、疑問の色を浮かべている。


「そう思うかい?……まぁ、普通はそう思うよね。でも、エルフってのは見かけによらず強いものなんだ」


アドリアンは軽やかに言い、微笑んだ。


「ケルナちゃん、大丈夫かな……」


メーラの心配そうな声が、アドリアンの耳に届いた。

彼女だけではない。集落の獣人たちも不安な表情を浮かべていた。


「あんな少女じゃヒビすら入らないだろう……」

「どうしてあの子を先鋒にしたんだ?」


数々の不安気な声が風に乗って広がる中、アドリアンとレフィーラだけは奇妙なほど涼しい顔を浮かべていた。

アドリアンは腕を組み、レフィーラは金色のポニーテールを指に巻きつけながら、微笑んでいる。

そして、競技が始まろうとしていた。草原に鋭い緊張が走り、辺りは水を打ったように静まり返る。


「少女よ。手加減はしないぞ」


パンテラ族の戦士の言葉には、勝敗が明らかな競技に選ばれたことへの余裕と、相手への侮りが滲んでいた。

そして、戦士は深く腰を落とし、草原の大地に両足を踏み込んだ。彼の全身から獣の気配が漏れ出し、低い唸り声が喉元から漏れる。


「はぁぁ!!」


パンテラの戦士は、見事な鋭い拳の一撃を巨岩に向かって突き出した。一撃の迫力に、見守る獣人たちから息を呑む音が漏れる。


「な、なんて突きだ……!?」


拳が岩を捉えた瞬間、衝撃波が広がり、岩粉が舞い上がる。

霧のような粉塵が晴れていくと、巨岩の表面に大きなヒビが現れていた。中央から放射状に広がる亀裂は、戦士の拳の強さを如実に物語っている。


「まぁ、こんなものか」


パンテラの戦士は、拳を軽く振って岩粉を払いながら言った。


「少女よ、お前のその細い腕では拳が砕けてしまうだろう。悪いことは言わん、棄権しろ」


息を整えながらそう言う戦士に、ケルナはペコリと頭を下げた。


「あ……お気遣い、ありがとうございます。でも……みんなの為に、少しだけやってみますね」


その言葉に、戦士はやれやれと呆れたように溜息を吐いた。

それを他所に、ケルナが静かに構えを取る。彼女は両手を胸の前で合わせ、目を閉じた。彼女の周りで、風が微かに動き始めた。


「……?」


ケルナの構えを見て、ゼゼアラは微かに目を細めた。彼の鋭い戦士の勘が、何かの違和感を拾い上げている。


そして、次の瞬間であった。


「どりやぁぁぁ!!!!」


ケルナの小さな声が、突如として草原に轟いた。

彼女の拳が前に突き出されると同時に、轟音と豪風が辺りに吹き荒れた。それと同時に、巨岩はヒビどころか粉々に粉砕され、大小の破片が四方八方に飛び散った。


「な、なんだ!?」

「伏せろ!」


草原に立っていた全ての者が地面に伏せる中、轟音が地平線の彼方まで響き渡る。パラパラと粉塵が雪のように降り注ぎ、草原の緑を灰色に染めていく。

かつて巨岩があった場所には、今や何もない。跡形もなく消え去り、小さな石ころすら残っていなかった。


「──え?」


誰かの呆気にとられた声が静寂を破った。それは、パンテラの戦士の声だった。彼の顔から血の気が引き、瞳が驚愕に見開かれている。

辺りが静寂に包まれた。風さえも止まったかのように、草原は息を潜めている。

そんな中、ケルナが「あっ!」と何かに気付いたように口に手を当てた。


「どっちがたくさんヒビを入れられるかの勝負でしたっけ……?ごめんなさい!岩が思ったより脆くて、壊しちゃいました!加減したのに……」


彼女は申し訳なさそうに顔を赤らめ、何度もペコペコと頭を下げはじめた。


「ちょっとケルナー!何やってんのよー!」


離れた場所からレフィーラが怒りの声を上げた。

そんな姉妹の言い争いを、メーラや周囲の獣人たちは開いた口がふさがらないまま見つめていた。


「ゼゼアラ。この場合、どっちか勝ちなのかな」


アドリアンが苦笑いを浮かべて言った。流石のアドリアンですら、ケルナの力量があれほどだとは思わなかったようだ。

その言葉に、ゼゼアラは瞬きを何度も繰り返しながら、呟いた。


「……お前たちの、勝ちだ」


草原の風が再び吹き始め、岩の粉塵を遠くへと運んでいく。

キトゥラ・シャゼイの第一戦は、誰もが予想だにしなかった圧倒的な勝利で幕を閉じた。


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