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第百九話

キトゥラ・シャゼイは、五対五の部族間決闘だ。先に三回勝利した方が、そのまま勝者となる。

一回戦目はケルナの驚異的な力の前に粉々になった巨岩とともに、無事勝利したアドリアンたち。あと二回勝利して勝ち越せば、部族間の争いに終止符が打てることとなる……。


「う~ん、草原って地平線まで見えて気持ちいい~!」


エルフの少女、レフィーラが背伸びをして草原の風を感じていた。彼女の金色のポニーテールが風に踊り、瞳には晴れやかな光が宿っている。

彼女の表情からは先ほどの妹への叱責の色は消え、代わりに子供のような無邪気さだけが残っていた。

二回戦の選手はエルフの守護者、レフィーラ。彼女は草原の香りを胸いっぱいに吸い込むと、期待に満ちた表情で対戦相手に視線を向ける。


「……ふん!そんな余裕面をしてられるのも今のうちだぞ!今度は私が相手だ!」


小柄な黒ヒョウの獣人……。クローネと呼ばれていた少女だ。

彼女はレフィーラに捕縛されたからか、鋭い目つきで睨んでいた。

しかし、レフィーラはどこ吹く風で気持ちよさそうに背伸びをするばかり。


「森林国じゃ森が邪魔で果てが見えなかったし、ドワーフの国は地下だったから息が詰まりそうだったし……。この広さって、本当に自由を感じるわね!」


レフィーラは目を輝かせながら両手を広げ、まるで草原そのものを抱きしめようとするかのように言った。


「大草原って、本当に素敵な場所ね!もっと草原の魅力を教えてよ、クローネ!あなたここで生まれたの?」

「う、うるさいな!これは雑談の場じゃないんだぞ!神聖な決闘の儀式なんだから、真剣にやれ!」


第二回戦に選ばれたのは、レフィーラとクローネ。どちらも一見華奢で可憐な少女で、決闘に似つかわしくない姿だった。

そんな和やかに(少なくともレフィーラは)雑談する二人の少女を見て、アドリアンが軽やかな声で言った。


「なぁゼゼアラ。いいのかい?あんな可愛い子出しちゃって。もしかして俺たちに手心加えてる?大部族様からの温かい心遣いってやつ?」


アドリアンは気さくにゼゼアラの肩に手を置くが、彼は不愛想にその手を払いのけた。彼の尻尾が不機嫌そうに揺れる。


「手心など加えるものか。我ら誇り高きパンテラ族は、キトゥラ・シャゼイで手を抜くことなど決してしない。クローネは小柄だが、我が部族が誇る若き戦士だ」


ゼゼアラは、第二回の競技に、足の速さを競うものを提示してきた。

遥か遠くに刺さった木の枝まで、どちらが早く到達するかの単純明快な競技だ。

草原の風を切り裂き、地平線の彼方まで駆け抜ける——獣人たちが古来より親しんできた伝統的な競争である。


「単純な戦闘では、クローネはまだまだ若く未熟だが……俊敏さにおいて、彼女に敵う者は我が部族でも数えるほどしかいない。あの小さな体は、風そのものだ」


ゼゼアラが戦士クローネを選出したのは、手心を加えてからでもなんでもない。

この競技において彼女が勝つと、そう確信しているからだ。


「……そっか。そうだね、誇り高い部族は手心なんて加えないよな。安心したよ」


ゼゼアラの言葉に、アドリアンは微笑んだ。

その瞳には、どこか意味ありげな光が宿り、これから何が起こるか分かっているかのような表情だった。

そして、アドリアンはゼゼアラの肩にもう一度、馴れ馴れしく手を置こうとするが、黒い尻尾がバシンと彼の手を弾き返した。

パンテラの族長の冷たい視線に、アドリアンは肩をすくめるだけだった。


「流石に足の速さじゃあ、パンテラには勝てないよ……」

「あぁ、さっきのエルフ少女の怪力には驚かされたが、今回は腕力じゃない。パンテラの俊足には草原でも敵う者はいない……」


ケルナの驚異的な勝利に沸いていた観衆たちは、今回の勝負の結果を分かりきっているかのように意気消沈していた。

集落の獣人たちの耳は沈みがちに垂れ、首を傾げる姿が目立つ。


──そんな空気の中、勝負が始まろうとしていた。

クローネは草原に伏せるような姿勢で構えを取る。彼女の黒い尻尾がピンと真っ直ぐに伸び、合図と共に駆け出す準備を完璧に整えた姿は、まさに黒ヒョウそのもの──。

一方のレフィーラは、ふんふんと鼻歌を歌うばかりで、両手を空に伸ばし風を感じているだけ。


そして──


「開始っ!」


パンテラ族の戦士が、合図を出した瞬間、クローネが凄まじい脚力で走り出した。彼女の姿は風よりも早く、草原に黒い閃光が迸る。

黒ヒョウの少女の疾走する姿に、周囲から感嘆の声が漏れた。常人には視認が難しいほどの速度で、クローネの姿はあっという間に遠ざかっていく。


(ふん、これなら……!)


疾走するクローネは、内心で満足していた。最高のスタートを切れた。これなら勝てる。

当然だが、前方にはレフィーラの姿はない。ちらりと背後を見ると、そこにはいまだ開始地点で何やら呟いているレフィーラの姿があった。


(舐めやがって!神聖な決闘を、汚すつもりか……!)


最初から勝負を捨てているかの如く振舞っているエルフに、クローネは憤りを感じた。

けれど、取り合えずこれで勝利は確実だ──


そう、思っていた時だった。


「風の精霊さま……どうか、あなたの自然に宿りし力を、この敬虔な子に授けて……」


レフィーラが目を瞑り、両手を胸の前で合わせる。彼女の姿は祈りを捧げる巫女のように厳かで、その言葉は風に運ばれていく。

そして——風がその言葉に応えるかのように、レフィーラの周りで渦を巻き始めた。


「な、なんだ……!?」


パンテラの戦士たちが狼狽える中、レフィーラの翠の瞳が一斉に開かれた。

どよめく観衆たちを他所に、アドリアンがメーラの肩を抱き、呟いた。


「メーラ。俺に捕まってなよ」

「え?」


なんで?とメーラが聞こうとした、その瞬間だ。

レフィーラが優雅にスタートを切った。

一歩、また一歩——彼女の動きは最初こそ緩やかだったが、瞬く間に加速していく。

二歩目、三歩目と進むにつれ、その姿はぼやけ始め、やがて人の形を保てないほどの速度に達した。


「お、おい……なんだあれ……!?」


轟音が草原を震わせ、レフィーラの背後から衝撃波が放たれた。


「行くわよ──!」


音速を超えた彼女の姿は、もはや緑の閃光となり、その通過点には渦巻く風の痕跡だけが残される。


「お、おい吹き飛ばされるぞ!どこかに捕まれ──!」

「うぎゃあーーー!!」


観衆たちは驚愕の声も上げ、衝撃波に吹き飛ばされていた。集落の獣人たちは地面に這いつくばるも、抵抗は無意味。

パンテラの戦士も、集落の獣人たちも等しく吹き飛ばされる……。

その場で態勢を維持できたのは、ゼゼアラと……アドリアン、彼に抱かれたメーラに……ケルナ。


「こ……この力は……!?」


ゼゼアラが豪風に耐えながら呟くも、その言葉は轟音に消され、誰にも聞こえなかった。


そして……。


「えっ……!?きゃわぁぁぁ!!!!」


レフィーラの進行方向にいたクローネも、悲鳴を上げた。彼女は振り返る間もなく、緑の閃光に追い抜かれ、その後に続く豪風に巻き込まれて吹き飛ばされる。

黒い尻尾が大きく波打ち、彼女の体は回転しながら草原の上を転がっていった。

レフィーラは凄まじい速度で草原を進み、その通り道には深い溝が刻まれ、草は根こそぎ吹き飛ばされていく。奔流となった風の音だけが遠くまで響き渡った。


「ストーップ!!」


そして、ゴール地点で彼女が足を止めると、その余波で再び凄まじい轟音が起こり、地面がえぐれるほどの衝撃が周囲を襲った。


「ふぅ……久しぶりに『加護』使っちゃった!でも、草原でこの加護を使うと、こんな風になるのねー」


レフィーラは髪をかき上げながら、暢気に背伸びをした。彼女の周りには風の渦が残り、緑の衣がひらひらと風に踊っている。

何事もなかったかのような軽やかな笑顔が、彼女の顔に浮かんでいた。


「……ん?」


しかし、周囲がやけに静かなことにレフィーラが不思議そうな顔を浮かべる。

彼女は首を傾げ、辺りを見回す。草原に広がるのは奇妙な静寂と、彼女が駆け抜けた後に残された深い溝だけだった。

そんな中、遠くから妹ケルナの声が風に乗って届いてくる……。


「お姉ちゃーん!!観客の獣人さんたちも、ゴールの枝も、全部吹き飛んじゃったよー!」

「え?」


ケルナの叫びを聞き、レフィーラは今更周囲の惨状に気づいた。彼女の瞳が見開かれ、小さな「お」の形に口が開く。

ゴールにあったはずの目印の木の枝は跡形もなく消え去り、対戦相手のクローネは遠く離れた場所で茫然と転がるだけ。

観客たちも広範囲に吹き飛ばされ、タカの獣人たちは木の上に引っかかり、シカの老人は角を土に突き刺したまま動けなくなっている。


「あー……あはは、ごめーん!でもこれって私の勝ち?だよね?ね?」


レフィーラは人差し指を頬に当て、可愛らしく舌をペロリとだした。

それを見てアドリアンは苦笑いを浮かべた。彼の腕の中に避難していたメーラは頬を引き攣らせ、震わせている。


「さぁゼゼアラ族長。審判をどうぞ」


アドリアンの軽やかな声に、ゼゼアラは目を白黒させながらも、やがて小さく呟いた。


「お前たちの……勝ちだ……」


かつての威厳ある大族長の姿はどこにもなく、彼の瞳には困惑と狼狽だけが浮かんでいた。

風が草原を優しく撫で、静寂だけが広がっていった。


──キトゥラ・シャゼイ。現在2対0。


 あと一勝すれば、アドリアン側の完全勝利だ──。


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