リマ湖——。
大草原に数ある湖の一つであり、命の源。
かつてはこの湖畔に様々な部族が行き交い、市場が立ち、商人たちの声が響いていた。
獣人たちが集い、交易し、互いの文化を分かち合う交流の場所——それがリマ湖だった。
……が、パンテラとリノケロスの抗争が悪化してからは、誰も近寄らぬ閑散とした場所と化していた。
湖の水は変わらず澄んでいたが、その周りには生命の喧騒が消え、静けさだけが支配していた。
しかし、今、リマ湖はかつての賑わいを取り戻していた。
湖畔には大きなかがり火が幾つも灯され、その明かりに照らされた獣人たちの笑顔が踊っている。パンテラの黒い尻尾が風に揺れ、リノケロスの分厚い腕が杯を掲げる。
木々の間に張られた簡素なテントの下では、元・廃棄集落の獣人たちが縮こまりながらも笑顔で食事をしていた。
「がははは!戦った後の酒はうめぇなぁ!」
「魔族の姫さまのお陰で怪我もすぐに治ったからな!」
「俺はぶっとばされたぞ……」
リノケロスの大柄な青年が酒の入った木のコップを片手に祝杯を挙げた。
彼の顔には幾つかの傷跡があるが、その表情は晴れやかで、灰色の髪が夜風に靡いている。
「ふん……」
対して、パンテラの戦士は寡黙な者が多く、その眼差しはリノケロスの戦士たちを鋭くとらえている。
彼らの姿は影のように静かで、しかし警戒を解いていないことが伺える。
「くそっ、リノケロスの奴ら、負けた癖によくあんなにはしゃげるな……」
パンテラの女戦士クローネが、呆れたように言った。彼女の可憐な顔立ちが不機嫌さで歪んでいる。
しかし、彼女の隣に座る年長のパンテラの戦士が、低い声で諭すように言った。
「我慢するんだ、クローネ。そもそも、我らとて胸を張れる立場ではない。真に勝利を収めたのは別の者なのだから……」
そう言って、その戦士はチラリと……この宴の中央を見やった。
そこには、三つの座が用意されていた。一つには黒い尻尾を持つパンテラ族長ゼゼアラが、もう一つには灰色の髪を持つリノケロス族長イルデラが座している。
そして中央の最も高い座には、今やその二つの部族を束ねる長として君臨する英雄アドリアン──。
「……」
──ではなく、長いウサギの耳を持つモル少年がちょこんと座っていた。
彼の長い耳は緊張からか小刻みに震え、小さな手で草原の草で編まれた冠を持っている。
「う~ん。こうして部族の『長』が三人も並ぶと壮観だね。特に中央のモフモフ耳のウサギ族長様は、迫力のある二匹の猛獣の間でちょうどいいクッションになってる。これが草原のバランスってやつかな」
そして、その傍らにいるアドリアンが悪戯な笑みを浮かべて、三人を見やった。彼の青い瞳には楽しげな光が宿り、夜風が黒髪を優しく撫でる。
しかし、彼を見つめる三つの視線は、それぞれに異なる色を持っていた。
「アドリアンよ。集落を救ってくれたことには感謝する。だが……何故イルデラまで、この場にいる?」
ゼゼアラの声は低く、殺気すら籠っていた。その言葉の端々には怒りが潜み、場の空気が一瞬で緊張に包まれる。
しかしアドリアンはそんな空気を意に介さず、飄々とした態度で言い放った。
「そりゃあ……『友達』同士なんだから宴に呼ばないのは可哀そうだろ?今日の戦いの後、モル族長と話し合った結果、このリマ湖を三部族の共有地として使うことに決めたんだ。まぁ、その前に一応認めてもらうために、ここに二人を呼んだってわけさ」
その言葉にゼゼアラは表情を顰めた。彼の目には疑念と怒りが混じり、拳に力が籠る。
しかし、モル少年を挟んで反対側に座るイルデラは朗らかな笑みを浮かべていた。彼女の灰色の髪が風に靡き、その表情には単なる勝者の余裕ではなく、何か特別な喜びが浮かんでいる。
「『アタイとつがう』予定のアドリアンは、リノケロス部族の族長みたいなもんだろ?……つまりよ、アタイらがここにいるのは当然の権利だろうが。なにせ、婿殿の所有物なんだからなぁ、アタイらは」
イルデラはしたり顔でそう言い放った。
ゼゼアラが苛々とした表情になるのを見ても、まるで気にせず満足げな笑顔を浮かべ続けていた。
しかし、即座にアドリアンが突っ込みを入れた。
「イルデラ族長、ちょっと言葉を選んでもらえるかな。『つがう』とか『婿』とか、そういう単語は今後一切使わないでほしいんだ。俺としては『戦いの後の友好関係』という解釈で話を進めたいから、誤解を招くような表現は控えてもらえると助かるね」
アドリアンは肩を竦めながら、チラリと後方を見やった。
そこには、エルフの姉妹と共に食事をしているメーラの姿があった。
「……」
メーラと一瞬目が合うが、すぐに彼女は不機嫌そうに目を逸らし、頬を膨らませてしまった。
彼女の小さな角が怒りからか小刻みに震え、レフィーラが心配そうに彼女の肩をトントンと叩いている。
「やれやれ」
アドリアンは溜息を吐き、頭をかいた。
「あ、あの……お話を……進ません……?」
モル少年がおずおずとした声でそう言うと、両脇にいる族長たちは渋々ながらも口を閉ざした。
ゼゼアラは静かに腕を組み、イルデラは不満げながらも大きく息を吐く。
今回、ここにこうして族長が三人集まったのは他でもない、今後のことを話し合うためだった。
アドリアンはリノケロスを下し、リノケロスの族長はアドリアンを婿に——というのは置いておくとして、アドリアン、引いてはモル少年の部族に降伏し、傘下に入ると表明したのだ。
──キトゥラ・シャゼイでパンテラに勝ち。
──純粋な戦いでリノケロスに勝利した。
これは凄まじい功績であった。
パンテラとリノケロスという二大勢力を併合し、傘下部族として扱っても、誰も文句は言わないだろう。
だが、モル少年は長い耳を静かに震わせながら、弱々しくも凛とした声で言った。
「ゼゼアラ様。イルデラ様。どうか、僕たちの部族と友誼で結び付けていただけませんか……!」
モル少年の純粋な言葉が、二人の族長を射抜いた。
イルデラは理解できないというかのように大袈裟に腕を組み、「ふむぅ」と低く唸った。彼女の表情には困惑と共に、なにか計算するような色が浮かんでいる。
「友誼って……同盟ってことか?勝者は敗者に命令する。それでいいだろ?アタイたちは負けたんだ、お前らの下につくのが当然のようなもんじゃねぇか。何を回りくどいことを言ってんだ」
イルデラとて馬鹿ではない。モル少年自体は取るに足らない存在だが、アドリアンこそがこの部族の力の源泉であるということは理解している。
アドリアンがついている限り、モル少年は無敵の力を手にしているも同然だということも──。
(なのに同盟だと?配下でも傘下でもなく同盟?わざわざ手に入れた権利を手放すとは……何かの罠か?)
イルデラは胡散臭い目でモル少年を見た。理解できないものを前にした猜疑心が、彼女の中に徐々に膨れ上がっていく。
モル少年は、そんな彼女の目を見据えた。
「傘下、配下ではなく、お互いが対等な同盟でなくてはいけないんです!僕の記憶の中の大草原は、どの部族も互いに尊重し合い、手を取り合う秩序ある美しい場所でした。……僕はもう一度……あの誇り高き大草原の姿を取り戻したいんです」
彼の声は弱々しいながらも、その言葉には強い決意が込められていた。
イルデラは無言でモル少年の話を聞いていた。彼女の粗野な顔立ちからは感情が読み取れず、灰色の髪が夜風に揺れるだけだった。
「……」
何という甘い考え——イルデラの瞳がモル少年を冷静に見つめた。子供だから、まだ幼いからこそ、そのような甘い考えに至れるのだろう。
彼女は内心で嘆息した。今、この草原は混乱しているが、その以前にも部族同士のいざこざや、権力争いは当然存在していたのだ。
それを、この目の前の子供は知らないのだろう。彼女の瞳が少年の小さな姿を捉え、分厚い腕が緩く交差する。
「……まぁ、いいさ」
──力あるリガルオンが部族たちを諭しても、結局は成し得なかった平穏。それは、獣人という種族が本能で争いを求める存在だからだとイルデラは思っていた。その本質は変わらない。
しかし、今はどうでもいい。とりあえずは、アドリアンの傍にいたいという気持ちが大きい内は従ってやろうと彼女は考えた。
「いいだろう。アタイたちリノケロスはお前さんたちと手を組もうじゃねぇか。どうせ今の草原は混沌としている。新しい風が吹くのも悪くはねぇさ」
その瞬間、モルの瞳に輝きが灯った。小さな体から安堵の溜息が漏れる。
そして、ゼゼアラを見た。パンテラの族長は腕を組み、静かに目を閉じていた。彼は一瞬逡巡した後、ゆっくりと目を開き、低い声で言った。
「我らはキトゥラ・シャゼイで負けた身。対等に手を差し伸べる姿勢に敬意を表し、パンテラ部族も同盟に加わる」
ゼゼアラがそう言った直後、アドリアンが手を大袈裟に広げ、叫ぶように言った。
「すばらしい!これで平和の第一歩だね!草原の大家族が仲良く暮らす絵に描いたような光景——あ、観光客を呼び込むのもアリかな?『仲良し獣人ランド』ってな感じで」
にこにこと笑みを浮かべるアドリアンの表情には、どこか悪戯っぽい色が混じっていた。
それを胡散臭げに見るゼゼアラは不信感からか尻尾を小刻みに動かしている。
「……それで?同盟を組むと言っても、具体的に何をするつもりだ?それに、お前の指示通り、このリマ湖に女子供を集めて移住の準備はしているが、その真意が分からん」
ゼゼアラの低い声には、疑念が滲んでいた。彼の鋭い視線がアドリアンを射抜き、その真の目的を知ろうとしている。
「あぁ、アタイらも部族の奴らにリマ湖への移住を命じたぜ。でもよ、なんでわざわざ湖のそばに集まる必要があるんだい?別に離れて暮らしたって同盟は結べるだろ?」
アドリアンは、二人の族長に、このリマ湖付近は住むにはいい場所だから、みんな連れてきて一緒に住もうか、と提案していた。
元々、定期的に住居を移す習慣もある大草原の部族……特に拒否する理由もなかった両部族は着々とその準備を整えているのだが……いまいち、彼の真意が分からない。
モル少年でさえも、アドリアンの狙いについては知らされていないようだった。
アドリアンは、一本指を立てて言った。
「まぁ、一つ目の理由は単純な事情——パンテラの集落が灰になっちゃったから、どうせなら新築集落を大自然が見渡せる湖畔リゾートにしちゃおうってこと。ついでに、お互いの顔が見える距離に住んでれば、内緒の悪口も言いづらくなるからね」
そして、もう一本指を立てる。湖面に映る月の光が彼の笑顔を照らし、その瞳には何かを企む色が浮かんでいた。
「二つ目は、これからこの場所を『大草原のるつぼ』にするつもりなんだ。サイだろうが猫だろうが兎だろうが、はたまた亀でも鳥でも蛇でも、みんながごちゃまぜに暮らせる場所をね」
その言葉に、三人の族長は顔を見合わせた。彼らの表情には困惑の色が浮かび、互いの目を通してその意味を理解しようとしている。
共存部族の集落……?そんなもの大草原に作れるのだろうか?いや、そもそも何のために?
困惑する彼らを他所に、アドリアンは三つ目の指を立てた。
「そして、三つ目。これから大草原の全部族に宣戦布告して、全員まとめて攻略するからね。まぁ、一か所に集まってると敵にも狙われやすいけど、集まれば大きな力になるし、何より戦術的な動きがとりやすくなるだろ?」
シーンと水を打ったような静寂が、その場を支配した。三人の族長の表情が凍りついたかのように固まった。
「アドリアン様、今なんて……?」
モルの震える呟きが風に消える中、湖畔の宴では酒に酔った獣人たちの歓声と笑い声が響き渡り、かがり火の明かりが夜空に向かって踊りながら昇っていった……。