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第百十七話

「水を!水をもっと持ってこい!」


パンテラの戦士たちの声が燃え盛る集落に響き渡った。

彼らは必死に大きな革袋に入った水を、燃え盛る家屋に撒きかけていた。だが、炎は彼らの努力など嘲笑うかのように、勢いを増して天に向かって伸び続ける。


「ゼゼアラ族長!水がもうないぞ!」


一人の戦士が皮袋を振り、最後の一滴を絞り出しながら叫んだ。


「リマ湖から汲んで来い!湖はもう安全であろう!急げ!」


パンテラの戦士たちが右往左往する中、族長ゼゼアラはそう叫んだ。

リマ湖——それはパンテラ部族とリノケロス部族が長きにわたって領有権を争ってきた、資源が豊富な湖だった。

水源が乏しい大草原において、その清らかな水を湛える湖は命の源であり、周囲には豊かな植物が生い茂り、多くの獣が集まる場所でもあった。

普段は紛争地域と化し、黒ヒョウとサイの戦士たちが血を流して争う危険な場所。しかし、今はもう平穏に訪れることができるはず。


何故なら——。


「くそぉ……俺たちが負けるたぁ……情けねぇ」

「イルデラ族長にどう言えば……」


パンテラの戦士たちより一回り大きな体格の戦士たちが、縄に縛られながらそう呟いていた。

そう、リマ湖は最早安全だった。なぜなら、リノケロスの戦士たちは、全員がこの場で捕らえられ、縄に縛られているからだ。

彼らの眼差しには敗北の色が浮かび、大地を強く蹴る力も、今は失われている。


あの後——アドリアンが突拍子もなく戦線を離脱した後、混乱が広がる中、次から次へとリノケロスの戦士たちが襲いかかってきた。

彼らは重厚な足取りで大地を震わせ、角と斧で襲いかかるが、ゼゼアラの圧倒的な速さと力は、彼らの攻撃を易々と寄せ付けなかった。

重装備のリノケロスたちが斧を振り上げる前に、彼の爪は確実に急所を捉え、一撃で意識を奪っていく。

そしてゼゼアラだけではなかい。レフィーラの放つ青白い光の矢は、繊細な姿とは裏腹に途方もない破壊力で地面を抉り、敵の足止めとなった。

さらには、か弱そうに見えたケルナの拳が、リノケロスの戦士の一人を空高く打ち上げた時には、誰もが目を疑った。彼女の華奢な身体から放たれる信じられない怪力に、リノケロスの戦士たちは鎧ごと吹き飛ばされ、意識を失っていったのだ。


「強すぎる……」


そして、ようやくすべての戦士を倒し終え、こうして捕縛しているという訳だった。

もし、その時にリノケロスの女族長がきていたら勝負は分からなかったのだが、何故か彼女は姿を見せなかった。それも、早期に勝負がついた大きな原因だろう。


だが、敵の戦士を駆逐したものの、火の手は一向に収まらなかった。

橙色の炎は空に向かって舌なめずりをし、ゼゼアラの言葉も戦士たちの必死の奮闘も、その勢いを止めることができない。


「水よ、顕現せよ!」

「だめ、足りないよお姉ちゃん……!」


レフィーラの声が夜空に響き、彼女の掌から青白い光が広がった。その手のひらから水の流れが生まれ、燃え盛る家屋に向かって放たれる。

しかし、炎の持つ熱量は、その小さな水流をあっという間に蒸発させてしまう。


ケルナの悲痛な声がレフィーラの耳に届く。魔法の力をもってしても、この自然の猛威には抗えないのだ。

そんな激しい炎の光景とは対照的に、少し離れた場所でメーラは静かに負傷兵の手当てをしていた。彼女の小さな角が淡く光を放ち、その手から緑色の温かな魔力が溢れ出している。


「大丈夫ですか……?」


メーラの優しい声が、傷ついたリノケロスの戦士に届いた。その魔力は敵味方の区別なく、傷口をゆっくりと塞ぎ、痛みを和らげていく。

傷を癒された大柄な戦士は、目をぱちくりとさせながら傷一つ無くなった自身の身体を見て、驚きに言葉を失った。そして、次にメーラを呆然と見つめる。彼の目には恐怖や警戒ではなく、純粋な驚きと感謝の色が浮かんでいた。


「あ……あぁ……ありがとう、嬢ちゃん」


彼の声は、分厚い胸から絞り出すような低いものだったが、その瞳にはただ純粋な感謝の光が宿っていた。


「おい、魔族の姫様とやら!リノケロスの戦士なんざ放っておけよ!どうせそいつら、無駄に頑丈なんだから死にはしないよ!」


その光景を見ていたパンテラの女戦士クローネが、小さな尻尾を激しく振りながらぷんすかと怒った。

しかし、メーラはそんな彼女の怒りに動じることなく、柔らかな苦笑いを浮かべながら治療を続けた。

彼女の小さな角から淡い光が漏れ、緑色の魔力が次々と傷ついた戦士たちを包み込んでいく。


「痛みを抱えたままだと辛いですから……。敵味方関係なく、苦しんでいる人がいれば、少しでも力になりたいんです」


そう言って微笑むメーラの表情には、純粋な慈しみの色が宿っていた。

その無垢な笑顔と優しさに、クローネも、縄に縛られたリノケロスの戦士たちも毒気を抜かれたような表情を浮かべる。


「魔族ってのは優しいんだな……そこの凶暴なパンテラの女と違って」

「あぁ……俺の娘と同じくらいの年頃なのに、なんて心の広い娘だ。うちの子にも見習わせたいもんだ」

「天使ってのはアンタみたいなのを言うんだろうな」


次々とほだされるリノケロスの戦士たち。彼らの頑固そうな表情が次第に柔らかくなり、メーラの姿を見つめる目には、敵意ではなく尊敬の色が浮かんでいた。

すると、クローネは自身の悪口を言った一人のリノケロスの頭を思い切り殴りつけた。彼女の小さな拳が、サイの固い頭に直撃する。


「だれが凶暴だって!?奇襲をかけて、放火までする卑怯者に言われる筋合いはないわ!…っつーか、くそ、拳がいてぇ!どんだけ石頭なんだお前たちは!」


殴ったクローネの方が拳を痛めて顔を歪めている有様。しかし、リノケロスの戦士たちは彼女の言葉を聞いた瞬間に、互いに顔を見合わせ、首を傾げた。


「放火だぁ?何言ってんだ。俺たちが放火なんてするわけないだろうが」


その言葉に、今度はクローネが怪訝な表情を浮かべる番だった。細められた瞳がリノケロスの戦士たちを見回していく。


「だって……なぁ。放火なんてして何になるんだよ。そのまま制圧したほうがいいじゃねぇか」

「だよなぁ。俺たちだっていきなり集落が燃え出して焦ってたんだからよ」


その言葉を聞いた瞬間、クローネの表情が曇った。


「な、なに言ってるんだ!じゃあ誰が火を付けた!?」


彼女の声には、怒りよりも困惑が滲んでいた。


「俺たちゃお前たちパンテラが自分の集落に火をつけたんだと思ってたよ。『こんな集落、焼け野原になっても渡さねぇ』って意地を張ってるんだろうってな。まったく、何を考えてるんだか」


一体、どういうことだ──?

クローネの頭の中で思考が巡った。確かに、リノケロスが放火するとは思えないのは事実であった。彼らは傲慢で人の話を聞かない筋肉馬鹿だが、放火などという行為はしないはずだ。

それにパンテラだって、自分たちの住居に火をつけるなどあり得ない。


「クローネ。随分と興味深い話をしているな」

「あっ……」


彼女がそう思案していたとき、彼女の肩に重みのある手が置かれた。思わず振り返ると、そこには族長ゼゼアラが立っていた。

彼の瞳には鋭い疑念の光を宿している。彼の長い尻尾が静かに左右に揺れ、思考を巡らせる様子が見て取れた。


「リノケロスの戦士よ。その話、詳しく聞かせて貰おうか」

「ゼ、ゼゼアラ……」


リノケロスの戦士たちが小さく震えた。


「お、俺たちゃ本当に知らねぇよ」

「そうそう。自慢じゃねぇが俺たちゃ魔法のカケラも使えやしねぇ。そりゃあ、飯を焚く時は火を起こすが、戦いの真っ最中に火を放つなんて器用な真似はできねぇよ」


リノケロスの戦士の様子は嘘を言っているようには見えなかった。

彼らの目には純粋な困惑の色が浮かび、その粗野な顔つきからは、この状況を理解できずにいる様子が見て取れた。


「俺たちだって可哀想だと思ってるんだぜ。お前たちの集落がこんなことになっちまうなんてよ」

「あぁ、そうさ。雨でも降らない限り、燃え尽くされちまうだろうし……」


一人の戦士が、そう言った瞬間だった。

快晴だった空が、突如として灰色の雲に覆われた。光り輝いていた夕焼けが見えなくなり、辺りはより一層の闇に包まれる。


──そして、ポツ……ポツ……と雨が降り出した。


最初は小さな雫だったが、瞬く間に大粒の雨となり、やがて土砂降りへと変わっていく。瞬く間に、集落の炎が消されていく……。


「……は?」


周囲の者たちが唖然とした表情を浮かべる。リノケロスもパンテラも、そしてメーラも、皆が天を仰ぎ、信じられないという表情を浮かべていた。

な、なにが起こった?今まで雲一つない快晴だったのに、急に曇って雨が降り出す?


馬鹿な、タイミングが良すぎる——


ゼゼアラの鋭い目が遠くを見つめた。この突然の雨の正体を見極めようとするかのように、彼の瞳が真実を探っていた。


「!」


そして、ゼゼアラの鋭い瞳がある一点を捉えた

雨の帳の向こうから、一人の人影が歩み寄ってくる。黒髪を雨に濡らし、爽やかな笑みを浮かべた人間の青年——アドリアンだ。


「やぁみんな!戦いは終わった?ちなみに英雄の特典のひとつに『雨乞いが不要な降雨サービス』があるんだけど、今夜限りの無料サービスだから、文句は受け付けないよ。火消しに精を出してる姿、感動的だったけど、このままじゃ朝まで続きそうだったからね」


アドリアンは手のひらを天にかざし、その掌から青白い魔力が立ち上っていた。

その魔力が雨雲と呼応するかのように輝き、大雨は一層激しさを増していく。燃え盛っていた炎が、次々と消えていく様子が見て取れた。

皆が驚愕に目を見開く中、メーラは治療を続けながらも満面の笑みを浮かべてアドリアンの方角を見つめた。彼女の瞳には、幼馴染を見つけた喜びと安堵の色が浮かんでいる。


「アド!……って、え?」


しかしその姿を認めた瞬間、メーラの表情から笑みが消え、無表情へと変わった。彼女の角がピクリと反応し、両手の治療の魔力さえも一瞬止まってしまう。

なぜなら、アドリアンの横に——いや、正確には彼に抱きついて一緒に歩いている女性の姿があったからだ。

灰色の長い髪を持ち、山のような体格でありながら、優美な顔立ちを持つ女性は雨に濡れながらも、どこか満足げな表情を浮かべている。


「ア、アド……?そのひと……いや、獣人さんは?」


メーラが震える声でそう問う。彼女の小さな角が雨に濡れ、儚げな紫紺の髪が頬に貼りつく。

アドリアンは困ったような表情を浮かべ、肩をすくめながら言った。


「彼女はリノケロスのぞくちょ──」


しかし、その言葉は途中で遮られた。女性——イルデラが、アドリアンの腕をさらに強く掴み、高らかに叫んだのだ。


「アタイはこの男の獣だ!この英雄は今からリノケロス部族族長の配偶者になる!草原の風に誓って、アタイはこの強き者に生涯を捧げる!皆の衆、よく覚えておけよ!」


その瞬間、時が止まったかのように、全員が無言になった。

パンテラの戦士たちは口を半開きにし、リノケロスの捕虜たちは目を見開き、エルフの姉妹は互いの顔を見合わせた。雨の音だけが草原に響き、滴る水滴が燃え尽きた炎の焼け跡から湯気となって立ち上る。

ゼゼアラも、信じられないものを見るような瞳で、アドリアンとイルデラを交互に見返している。




そして──




「はぁ~っ!?」


メーラの声が、雨音を突き破って草原に響き渡った。

彼女の叫びと同時に、手の中で輝いていた緑の癒しの魔力が一変する。穏やかな光は瞬時に赤紫色の激しい炎へと姿を変え、その魔力が暴走するように膨れ上がった。


「えっ……?ぐええぇっ!?」


治療中だったリノケロスの戦士の瞳が驚愕で見開かれ、次の瞬間、彼の巨体が爆風のような力でゴロゴロと転がりながら吹き飛んでいく。

彼は何度も地面を打ち、遥か遠くの大木に激突すると、「ふぎゃっ!」という声と共に滑り落ちていった。

炎と水蒸気が立ち上る焦げた集落の跡に、メーラの小さな怒りの炎が加わり、アドリアンは「あちゃー」っと、顔を手で覆った。


雨は止むことなく降り続け、誰もが唖然とする中、草原に新たな嵐が巻き起ころうとしていた手。


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