「なんだい……?人間がこんなところにいるだなんて」
燃え盛る集落の中、イルデラの声が低く響いた。彼女の目が怪訝な色を宿し、アドリアンを捉える。
アドリアンもまた、彼女を見返す。
リノケロス部族の族長イルデラ——
サイの獣人としての特徴を持ちながらも、その体躯は優美さを失わない。アドリアンを遥かに超える長身と、幾度もの戦いで鍛え上げられた肉体。
灰色の長い髪は炎の光を受けて銀のように輝き、流れるように背中を覆っている。引き締まった筋肉は無駄がなく、その姿は力と美しさを兼ね備えた戦士の理想型とも言えた。
アドリアンはその姿を見て、目を細めた。まるで遠い記憶の中の誰かを見るような、懐かしさと親しみを含んだ眼差し……。
「貴女の美しい肉体に惹かれてやってきた、飛んで火にいる人間……てとこかな」
アドリアンの言葉に、イルデラの表情が一層怪訝さを増した。炎の明かりに照らされた彼女の顔には、困惑と警戒が入り混じっている。
その時、ベルネルがアドリアンとイルデラの間に割って入った。
「何者だ、人間。我らの戦いを邪魔するな」
低く唸るようなベルネルの声に、アドリアンは人差し指をぴっと立て、風に髪を揺らしながらにこやかに微笑んだ。
「これは失礼。実はゼゼアラ族長からのご丁寧なメッセージを預かってるんだ。『骨が折れてちゃあ、まともに戦えるわけもない。さっさと下がって、猫の鳴き声みたいな声だけ出して見学しとけ』——だって。あ、これはあくまで族長の言葉だからね。俺の意見じゃないから勘違いしないように」
その言葉にベルネルの顔が険しく歪み、反論しようと口を開いた。だが、彼の言葉が口から出る前に、イルデラの豪快な笑い声が空に響き渡った。
「あはは!!なんだ、ゼゼアラのやつ、アタイに勝てないからって得体の知れない人間なんぞを寄越したってか!」
彼女の笑い声は焼け落ちる木材のパチパチという音をも掻き消すほどに大きく響き渡る。
そして、イルデラは担いでいた巨大な斧を地面に思い切り叩きつけた。轟音が夜空に響き渡り、地面が大きく窪む。
「いいさ、誰が相手だって叩き潰してやらぁ!」
イルデラの声と共に、彼女の全身から凄まじい殺気が迸った。それは目に見える形となって大気を震わせ、周囲の空間そのものが歪むかのような圧迫感を放っている。
だが、アドリアンの顔からは微塵も動揺の色が見えない。むしろ、彼は少し楽しげに風になびく髪をかき上げると、その瞳に挑戦的な光を宿した。
「舞踏のお誘い、腕が震えるほど感激だよ。サイのお姉さんとのダンスもいい経験だからね。……あぁ、ケガしないように気をつけて?俺の舞踏は、戦士相手だと少し荒っぽくなるんだ」
アドリアンの皮肉めいた言葉に、イルデラは口で応えなかった。代わりに彼女は全身から闘気を爆発させ、地を蹴った。
サイの重く鈍重な種族とは思えない俊敏さで、彼女の姿が一瞬で宙に舞う。
「消え失せろ、人間野郎!」
誰もが目で追えないほどの速度だった。しかし、炎に照らされたイルデラの姿を、アドリアンは確かに捉えていた。
「いかん──!」
ベルネルの声が熱気と炎の音に負けないほど響いた。
あの斧の一撃は絶対だ。硬く鍛えられた戦士の肉体すらも両断する破壊力。このままでは、青年は殺される──
この人間が何者かは知らないが、ゼゼアラ族長の知り合いには違いない。パンテラの誇りにかけても、眼前の蛮行を止めなければならない。
そして、ベルネルは人間の青年を助けようと体を無意識に動かそうとして──
「!?」
その動きを一瞬で止めた。彼の鋭い感覚が、危険を察知したのだ。
アドリアンの身体から、凄まじい気が溢れ出していた。イルデラを凌駕する、いや、遥かに超える闘気だ。
そして、アドリアンの青い瞳が炎の反射を受けて煌めくと同時に、彼は勢いよく地を蹴った。まるで、その真下に振り下ろされる斧に向かって突進するかのように──彼の拳が風を切り裂き、イルデラの斧に真っ向から挑むように突き出される。
「はぁーっ!!!」
斧と拳がぶつかり合った。
轟音が夜空に響き渡り、衝撃波が四方に広がった。二つの力がぶつかり合う場所から、眩い光が放たれる。
「なっ……!?」
イルデラの顔に、初めての驚愕の色が浮かんだ。目の前で信じられない光景が展開されていたからだ。
アドリアンの拳が、巨大な斧を粉々に砕いていく。
刃が割れ、柄が砕け、見る見るうちに斧は崩れさっていく──。
──馬鹿な……拳で斧を真っ向から粉砕するなど!そんなことはリガルオンでもない限りありえない!
イルデラの頭に、混乱と恐怖が交錯した。それはかつて、この草原で見た光景——獅子の特徴を持つ戦士だけが見せた技だった。
だが、考える暇もなかった。斧が完全に砕け散り、その衝撃波がイルデラの体を捉えたのだ。彼女の体が宙を舞い、大きな弧を描いて飛ばされる。
そして、燃え盛る家屋に真っ直ぐ突き刺さるように衝突した。火の粉が舞い上がり、炎と煙の中に、イルデラの姿が消えていった。
「な……に……?」
ベルネルは口を開けたまま、その光景を呆然と見つめていた。
(なんだ、今のは……?この人間は何者なのだ……?)
この目の前の人間の青年は、明らかに普通の存在ではなかった。
大戦士を遥かに超える——もしかすると、かつての彼が仰ぎ見た偉大なる獅子と同等……いや、それ以上の力の持ち主。
その考えに至り、ベルネルの背筋に戦慄が走った。
そんなベルネルの驚愕を他所に、アドリアンは拳と拳を合わせ、燃え盛る炎の向こうに向かって叫ぶ。
「さぁ、イルデラ!何を休んでいるんだい!?斧なんて子供のおもちゃみたいなものは捨てちゃって、獣人らしくツメやツノで踊ろう!……っと、でも斧を振りかぶる姿はかなり板についてたか。失礼」
アドリアンがそう叫んだ瞬間、燃え盛る家屋が爆発するように粉々に吹き飛んだ。木片や炎が四方に散り、その中心から凄まじい気が放たれる。
その中心に立つイルデラは、先ほどまでの姿とは別人のようだった。彼女の優美な顔は怒りと歓喜に歪み、その瞳には獣性だけが残されている。灰色の長い髪が風のように靡き、その全身から轟々と闘気が燃え上がっていた。
「くっくく……なんて人間だ……斧を素手で壊しちまうなんてさぁ……!」
彼女の声は低く、しかし歓喜に震えていた。長い間、この草原で相応しい相手を探し続けた獣の喜びが、その声音に滲んでいる。
「いいだろう、人間!アタイの本気、見せてやるよ!斧なんてくだらねぇものに頼らない、リノケロスの恐ろしさを見せてやらぁ……!」
イルデラが雄叫びを上げた。次の瞬間、彼女の姿が風のように消え、轟音と共に地を蹴って真っ直ぐにアドリアンへと突進してきた。
そこからは力と力のぶつかり合いであった。
イルデラの突進を、アドリアンはあえて避けようとしなかった。彼女に比べれば華奢に見える人間の身体で、正面からその猛攻を受け止める。
彼女の拳が風を切り裂き、アドリアンの胸を捉えた。轟音が響き、衝撃波が周囲の空気を震わせる。
──だが、アドリアンは一歩も後退しなかった。
彼女の拳をその腕で受け止め、次の攻撃もまた正面から迎え撃つ。イルデラの動きは徐々に加速していき、彼女の拳は光の残像を描くほどの速さで繰り出される。
一定以下の攻撃を無効化する『拒絶者』の加護を持つアドリアンだが、イルデラの攻撃はその防御をも易々と突破してくる。その事実こそが、イルデラの戦士としての力量を証明している。
「ほぉ……!?」
イルデラの声には驚きと共に、戦いの高揚感が混じっていた。アドリアンも応えるように真正面から拳を合わせていく。
アドリアンのあまりにも武骨で、真っすぐな戦いを目にするイルデラの口角が、徐々に上がっていった。
「おいおい、少しは避けてもいいんだぜ!?」
彼女の声には、獲物を見つけた獣の喜びが溢れていた。サイの獣人らしい真っ直ぐな攻撃が、空を切り裂く音を立てる。
「淑女からの熱烈なラブレターは、一通残らず丁寧に受け取らせてもらうさ!こんな豪快な愛情表現、断る理由なんてどこにもないじゃないか!」
アドリアンの余裕たっぷりの返答に、イルデラの目に戦いの昂ぶりが宿った。
彼女の攻撃はさらに激しさを増し、二人の拳のぶつかり合いは、周囲の空気を震わせ続けた。
「なんという戦いだ……」
そして、少し離れた位置からその戦いを見ていたベルネルが感嘆の息を漏らした。
互いの攻撃を真正面から受け止め、ひたすらに真っすぐに打ち合う——それは優雅さとは程遠い戦いだった。
技巧も戦略も存在せず、ただ純粋に力と力がぶつかり合う原始的な闘争。
だが、美しかった。
それでも、ベルネルの目にはその光景が尊く、そして今まで見てきた中で最も優美に映っていた。獣の本能と人間の意志がぶつかり合う、厳かな儀式のような戦い。
その光景はベルネルの視線を捉えて離さなかった。
──そして。
激しい打ち合いののち、二人は距離を取った。
イルデラは荒い息を吐き、全身が傷だらけになっていた。灰色の髪は乱れ、美しかった顔には血が滲み、腕には青あざが浮かんでいる。
一方のアドリアンは体には傷一つなく、呼吸も乱れていない。
そんなアドリアンの様子を見て、イルデラはもはや敵意を超えた敬意と歓喜の混じった瞳で彼を見つめた。
「なんて人間だ……このアタイと戦って、余裕ぶっこいてるだなんてさ!」
彼女の声には悔しさよりも、強者との出会いの高揚感が溢れていた。
「実はものすごーく痛いんだよ。もう背中から冷や汗が吹き出してて、脚はガクガク。あ、これ冗談ね。笑ってもいいよ」
アドリアンの言葉には軽妙さがあったが、その瞳の奥にある真の強者の自信は隠しようもなかった。
「はは、面白い人間だ。……名は?」
「アドリアン。しがない人間の英雄だよ」
「そうか。アタイはイルデラ。誇り高きリノケロスの族長さ」
イルデラはその煌めくツノを掲げるようにして首を持ち上げ、再び構えを取った。
「──アドリアン、お前なら、このアタイの全力を受け止めてくれるだろ?」
それは質問ではなく、確信だった。
彼女が放とうとしているのは、リノケロスの奥義である突撃攻撃だった。だが、ただの突進ではない。サイのツノに全ての力を集中させ、全てを破壊し尽くすリノケロスの突撃。
普通ならば、そんな攻撃を真正面から受け止める者などいるはずがない。数十の木々を吹き飛ばし、小さな山さえも粉砕するその突撃を。
だが、アドリアンは即座に応えた。満面の笑みを浮かべて、戸を広げた彼の姿が鮮やかに浮かび上がる。
「──もちろんだ!リノケロスの威信に懸けたその突撃、しっかりと受け止めよう!遠慮なく、キミの全てを見せてくれ!」
その答えを聞いた瞬間、イルデラの心に今までにない高揚感が灯った。どんな強者でも、リノケロスの突撃を避ける……だが、この人間は違う。
イルデラは目を閉じ、全身の筋肉に力を込めた。
大地を蹴る音が轟音となり、彼女の体が弾丸のように飛び出す。彼女の周りの空気が歪み、光さえも曲げるような速度と威力を伴って、彼女はアドリアンに向かって真っ直ぐに突き進んだ。その角には、リノケロス族の全ての誇りと力が込められていた。
迫りくる破壊の一撃——すべてを粉砕するその攻撃に向かって、アドリアンは両手を大きく広げた。
古くからの友を抱擁するかのような姿勢で、彼はイルデラを見据えたまま微動だにしない。
そして、イルデラの突撃がアドリアンの全身を貫いた。
凄まじい衝撃波が広がり、周囲の地面が深くえぐれた。土煙が立ち上り、木々が根こそぎ吹き飛び、燃えていた家屋の残骸さえも四方に散らばっていく。
そして、静寂が戻ってきた時——
「……は……はは」
アドリアンは微動だにせずに立っていた。イルデラの角は確かに彼の体を捉えていたが、貫通することはなかった。
彼の顔には痛みの色すらなく、むしろ楽しげな笑みさえ浮かんでいた。それを見たイルデラは、乾いた笑いを漏らした。
最強の一撃を繰り出しながらも、その勢いが完全に止まったイルデラを、アドリアンは優しく抱きとめるように腕を回した。炎が彼らの姿を照らし、二人の影が一つに重なる。
「さて、ツノが素敵な淑女を腕に抱いたところで——勝負の結果を発表してもいいかな?」
暫くの静寂。
そして──。
「お前の勝ちだぁ!」
次の瞬間、イルデラはアドリアンを勢いよく抱きしめた。
これまで彼女の最強の一撃にも動じなかった最強の英雄が、その抱擁の前に思わず「うぐっ!?」と呻き声を上げ、その拍子に近くで燃えていた家屋が崩れ落ちた……。