それは、アドリアンが大戦士の戦いに割って入る、少し前の話である──
黄昏時の大草原を、一団の黒い影が疾走していた。
パンテラ族の戦士たちは地を蹴る度に草を靡かせ、黒い疾風のように草原を駆け抜けていく。
そして、その先頭を行くのは族長ゼゼアラ。
「煙が上がっている……!」
彼の声に、後続の戦士たちも目を凝らした。遠方の地平線上に、彼らの住処であるパンテラ族の集落が見えてくる。
そして、その上空には黒煙が立ち昇り、赤い炎の明滅が夕暮れの空を染めていた。
「おのれリノケロス共、なんと卑劣な奇襲を!」
一人の若い戦士が悲痛な声で叫ぶ。周囲の戦士たちも同様に低い唸り声を上げ、その瞳には怒りの炎が灯り始めていた。
そして、彼らと並走する人影があった。風のように軽やかな足取りで、黒髪を翻しながら駆けるのは——人間の青年、アドリアン。
彼はパンテラの戦士たちに遅れを取ることなく、むしろ余裕さえ感じさせる足取りで並走していた。
「集落に火の手を放つだなんて、随分と物騒な趣味だな。みんなの住処燃やして何が残るんだか」
アドリアンの皮肉気な言葉が風に乗って流れた。彼の腕には、お姫様抱っこされたメーラの姿があった。
メーラの紫紺の髪が風に逆らって舞い、小さな角が夕陽を受けて淡く輝いている。
「ひどい……大切な家に火を放つなんて……」
メーラはアドリアンの胸に顔を寄せながら、小さく呟く。
そして、その後ろには二人のエルフの姿があった。
金色の髪を風に靡かせ、レフィーラは力強く腕を前に掲げていた。彼女の周りには微かな光の粒子が舞い、その瞳には精霊の力が宿っている。
「風よ!草原を駆ける我らの翼となれ!すべての者に追い風を!」
レフィーラの精霊の加護は、味方の背中を押し、その速度を倍増させる。パンテラの戦士たちも最初は驚いたように耳を動かしていたが、すぐにこの恩恵を受け入れ、一層速く前進していく。
その隣では、ケルナがその華奢な見た目からは想像できないほどの俊敏さで地面を蹴っていた。跳躍し、見た目に似合わず豪快な動きでアドリアンたちに遅れることなく付いていく。
そうして、集落に到着すると、一行。
目の前に広がる光景に全員が息を呑んだ。燃え盛る炎が家々を飲み込み、黒煙が空へと立ち上っている。
「女子供の避難は終わっているようだ……それだけが救いか」
ゼゼアラは辺りを見回し、視線をある方向に向けた。目を細めると、集落の端に数人のリノケロス族の戦士たちが見えた。
巨大な斧を担いだサイの獣人たちは、燃え盛る集落を眺めながら話している。
「おいおい、こんなに燃やしちまうと何も残らねぇぞ」
「誰が火を付けたんだ?そんな指示はなかったはずだが」
「知らねぇよ。混乱に乗じて誰かが……むっ!?」
彼らの会話は途切れた。アドリアンたちの姿に気づき、一斉に斧を構え、戦闘態勢を取る。
「人間……?それにエルフだと……?何でこんなところに」
「そんなことどうでもいい!ゼ、ゼゼアラだ!族長が戻ってきやがった!みんな、奴を倒せ!今がチャンスだ!」
リノケロスの戦士たちはアドリアンたちの姿に一瞬怪訝な表情を浮かべたが、その横にいるゼゼアラの姿を認めると、慌てふためいて叫んだ。
「人気者じゃないか、ゼゼアラ。ところで今の会話、ちょっと気になるんだけど──」
アドリアンが横を向いてゼゼアラに言葉をかけたが、そこには既に彼の姿はなかった。
「ありゃ?」とアドリアンが呟いた時には、すべてが終わっていた。
「ぎゃあ!?」
「は、速すぎる……!?」
黒い閃光がリノケロスの戦士たちの間を駆け抜けた。ゼゼアラの姿は風のように移り変わり、その爪は狙った急所を確実に捉えていく。
一人目の戦士の首筋を軽くたたき、二人目の腹部に手刀を入れ、三人目の膝の裏を蹴り上げる——その動きはあまりに速く、リノケロスたちが斧を振り上げるより早く、全員が気絶して地面に倒れていた。
「こいつらはただの雑魚だ。急ぐぞ。イルデラの奴が来ているに違いない」
ゼゼアラはこともなげにそう呟いた。
それを見た、アドリアンは溜息を吐き、腕に抱えていたメーラをそっと地面に降ろした。
地面に足をつけたメーラは、恐る恐るリノケロスの戦士たちに近づき、小さな指で一人の頬をつついてみる。
彼が小さく唸り声を上げるのを確認すると、安堵の表情を浮かべた。
「良かった、生きてる……」
「メーラちゃん、優しいね。そんな奴らどうなっても構わないのに」
「敵でも……死んじゃうのは、可哀そうだから」
メーラとエルフの姉妹の会話を他所に、アドリアンはゼゼアラを見て言う。
「彼らに聞きたいことがあったんだけど……ゼゼアラ、キミせっかちってよく言われない?」
アドリアンの皮肉にゼゼアラは反応しなかった。彼は無言で集落の奥へと歩き出そうとしている。
アドリアンは仕方なさそうに肩をすくめた。
しかし、次の瞬間——
「いたぞ!族長ゼゼアラだ!」
「奴を倒せば大戦士の証が手に入るぞ!今こそチャンスだ!」
燃え盛る樹や家屋の陰から、次々とリノケロスの戦士たちが現れた。彼らはそれぞれが鋭い角と大きな斧で武装している。
「ちっ……新手か。行くぞ、お前たち!パンテラの誇りを見せてやれ!」
それを見てゼゼアラは鋭く指示を出した。彼の部下たちもまた、低い唸り声を上げて応戦の構えを取る。
「ケルナ!私たちも戦うわよ!」
「うん、お姉ちゃん!」
レフィーラは手を広げると、青白い光が集まり始め、彼女の手に精霊の弓が形作られていく。ケルナも拳を静かに構えた。
メーラは二人の後ろで淡い魔力の光を漏らし、回復魔法を唱える準備を整えている。その小さな角が淡く輝き、彼女の周りに癒しの風が集まってきた。
「げはは!!自分の集落に火を放って、我らを混乱させようとする臆病者のパンテラめ!どんな小細工を使おうと、我が強靭なるリノケロスの前では無駄だ!」
「おい、そこに子供がいるぞ。あまり怪我をさせるなよ、可哀そうだからな!」
リノケロスの戦士たちが気勢を上げながら、重厚な斧を手に突進してきた。地面が彼らの重みで震え、空気が震動する。
しかし、皆が戦闘態勢に移行し、構える中……アドリアンは目を細め、何かを思案していた。
何か引っかかる部分、違和感を感じ取ったような表情が浮かぶ。瞳が戦場全体を見渡し、リノケロスたちの言葉を思い返している。
「アドリアンよ、お前の力、貸してもらおう」
ゼゼアラがそう言った、その時である。
アドリアンはゼゼアラの肩に手を置き、爽やかな笑顔を浮かべて言った。
「ごめんよゼゼアラ!ここはキミに任せた!あ、メーラ姫のことは頼むよ!彼女はちょっと怖がりだから、サイさんたちの見た目にびびってるかも!」
そう言うや否や、アドリアンは派手に跳躍した。風を纏ったかのように軽やかに、あっという間に木々よりも高く舞い上がる。
そして、彼の姿は夕日を背に、そのまま流星のように遠ざかっていった。
「……?」
後には、唖然とした面々だけが残された。
ゼゼアラは口をわずかに開けたまま固まり、パンテラの戦士たちは目を見開いて互いの顔を見合わせている。
レフィーラは「えぇ?」と首を傾げ、ケルナは「あの…」と小さく呟いた。メーラは瞬きを何回も繰り返し……。
更には、リノケロスの戦士たちすらも、突撃を止め、呆然と空を見上げていた。斧を握る手がゆるみ、角を前に突き出していた姿勢も崩れている。
「なんだ?なんか飛んでいったぞ」
「あいつ、人間だよな?飛べるのか?」
リノケロスの戦士、そしてゼゼアラ、戦士たち、エルフの姉妹、メーラが顔を見合わせる中……。
「……おい!?」
ゼゼアラの無表情が、初めて崩れた。
♢ ♢ ♢
アドリアンが夕日に染まる空を飛んでいた。
眼下には燃え盛るパンテラの集落が広がり、その赤い炎が黒煙を夜空へと送り出していた。
「リノケロス……か」
彼は眉間に皺を寄せながら、思考を巡らせていた。
──リノケロス大部族。アドリアンは、その名を知っていた。
前世で、魔族の大軍勢と戦った際にも、様々な部族の戦友がいた彼にとって、リノケロスはよく知る仲間だった。
彼の記憶の中のサイの獣人たちは、頑強で誠実、何より仲間と弱者思いな戦士たち。
「……」
彼女らは、決して放火などという卑怯な手段を用いる戦士たちではない。
誇り高く、仲間の盾となり、弱者を守るはずのサイの獣人──
それがこうしてパンテラ部族の集落を襲撃し、あまつさえ火を放つという愚行に手を染めていることが信じられないのだ。
「ん?この気配は……」
空を舞いながら、アドリアンは集落の中央付近から強大な気配を感じた。
族長ゼゼアラに勝るとも劣らない、いや、それ以上の強者の存在感が、炎の中から波動のように広がっている。
そして、その気配には覚えがあった。
「──あぁ、懐かしいね」
アドリアンは空を飛びながら目を瞑った。
──脳裏に、前世での大草原での戦いが蘇ってくる。燃え盛る平原、荒れ狂う魔族の大群、そして最後まで戦い抜いた獣人たちの姿。
魔族に寝返った獣人もいた。最期まで勇敢に戦った獣人もいた。様々な記憶が走馬灯のように脳裏によみがえり、そして消えていく。
そして。
「さて、大人げない喧嘩の仲裁に行くとするか!猫とサイのじゃれ合いに、ちょっと風の香りを混ぜてあげようかな!」
アドリアンは目をカッと開き、決意の色を瞳に宿した。彼の体が風を切り裂き、その気配の場所まで凄まじい速度で飛翔していく。
そうして、アドリアンが二人の戦士の真上に飛翔する。
見ると、パンテラ族の戦士と、リノケロスの戦士が決闘をしているようだが……。
「さて、この混乱に一枚噛もうかな」
アドリアンの顔に、少年のような悪戯心に満ちた表情が浮かんだ。
「なんて言って割り込もうか?いきなり降りていって、びっくりさせるのも面白いけど……やっぱり、ちょっと格好つけたいよな」
アドリアンは空中に浮かびながら、記憶の引き出しを探るように目を細めた。
「あの大草原の掟、なんて言ったっけな……」
唸りながら思案する。しかし考えても思い出せない。
──まぁいいや!みんな、仲良くしましょう!って言葉は全ての掟に当てはまるはずだ!
アドリアンはそう結論付けると、風を纏うように体を回転させ、二人の戦士の間へと優雅に降下していった——