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第百十四話

高い木々に囲まれたパンテラ部族の集落。夕陽の茜色に染まるはずの空を、黒煙が覆い隠していた。

あちこちから炎が上がり、その赤い光が優美に作られた住居を不気味に照らし出している。

そんな中、黒いヒョウの耳と尻尾を生やした戦士たちが、慌ただしく集落中を駆け巡っていた。


「女子供の避難は終わったか!」


大柄なパンテラの戦士が、血に染まった腕で仲間に声をかけた。彼の顔には疲労と怒りが入り混じり、尾は苛立ちから激しく揺れている。


「はっ。西に避難を終えております!」


若い戦士が力強く答え、深々と頭を下げた。かつては穏やかで美しかったパンテラの集落。だが今やその光景は一変し、火の手により凄惨な姿へと変わってしまった。

家々の焼け跡から立ち上る煙、そして生活の場が灰になっていく様を見て、パンテラの戦士たちは牙を噛み締めた。


「おのれ……!族長不在を狙い討ちにし、火を放つとは、何たる卑怯な手段!いかに大草原が乱れようと、このような蛮行、許されぬ……!」


年長のパンテラ戦士が、怒りに震える声で呟いた。彼の周りにいた戦士たちも同じように顔を歪め、低い唸り声を漏らしている。


その時であった。


「がははは!!こんなところにパンテラの戦士が残っていたとはな!全員、尻尾を巻いて逃げたかと思ったわい!」


木の陰から現れたのは、巨大な斧を肩に担いだ戦士だった。

頭部に生える大きなツノ、小さな耳、そして短く太い尻尾。リノケロス族——サイの特徴を持つ獣人だ。

リノケロスの戦士はパンテラの戦士たちを見渡すと、粗い顎髭を撫で、満足気に笑った。


「おのれリノケロス!よくも我らの集落を燃やしてくれたな……!この火の海の代償、貴様らの血で払わせてやる!」


パンテラの戦士たちが一斉に唸り声をあげた。彼らの全身から獣性が溢れ、長く黒い尻尾が激しく揺れる。

次の瞬間、彼らは黒い閃光となって、リノケロスの戦士に襲い掛かった。

しかし……。


「むぅんッ!」


リノケロスの戦士が咆哮と共に斧を一振りすると、地面から衝撃波が発生した。空気が震え、数人のパンテラ戦士を容易く吹き飛ばした。

複数の黒い影が空中に舞い、やがて無様に地面へと叩きつけられる。


「ぐっ……!?」


しかし、一人のパンテラの戦士が猛烈な速さでリノケロスの懐に潜り込んだ。彼は鋭い爪を振り上げ、無防備なわき腹を抉ろうとする。

閃光のような速さで放たれた一撃は、確かにリノケロスの肌を捉えた。

だが──爪は分厚い皮膚をわずかに傷つけただけで止まってしまった。岩を引っ掻くような感触に、パンテラの戦士の動きが止まる。

リノケロスの堅牢な筋肉と皮膚は、パンテラの鋭い爪をも受け止めてしまったのだ。


「ふん!」


隙を晒したパンテラ族の戦士は、リノケロスの太い脚で蹴り上げられた。その一撃は彼の身体を宙に舞わせ、近くの木に激突させる。

木の幹が砕け、パンテラの戦士は血を吐きながら地面に崩れ落ちた。


「がっはは!!パンテラの爪など我らの鋼の肉体には通じぬわ!貴様らがどれほど俊敏に動こうと、所詮は力が全て!速さだけでは我らを倒せぬぞ、黒い子猫たちよ!」


そうして、サイの戦士が勝ち誇ったように斧を掲げる。


「さぁて……お前たちには捕虜になってもらうとしよう。心配するな、殺しはせん。ただ我らリノケロス大部族の配下として、これからこき使ってやるだけだ。大人しく従えば、痛い目には遭わせんぞ」


だが、彼が高らかに笑い声を上げた瞬間。

一筋の黒い影が空間を裂くように迸った。


「!?」


目にも追えない速度で、その影は空間を縦横無尽に駆け回る。

黒い閃光のように、リノケロスの戦士の周囲を旋回し、その動きは風さえも置き去りにしているほどだ。


「な……く、くそっ!?どこだ!?」


リノケロスの戦士が混乱して周囲を見回すが、黒い影を捉えることができない。彼が大斧を振り回すも、それは空を切るだけだった。

そしてついに黒い閃光がリノケロスの正面に現れた。それはパンテラの戦士だった。

しかし、他の戦士とは明らかに違う。彼は地を蹴ると、空中で美しく体を回転させ、華麗な回し蹴りをリノケロスの戦士の後頭部に叩き込んだ。


「うぐぁぁっ!?」


サイの戦士の目から焦点が消え、その巨体が大地に崩れ落ちた。地面が震え、土煙が上がる。


「ベルネル様!」


倒れた戦士たちの一人が声を上げた。

ベルネルと呼ばれたパンテラの獣人は、鋭い目つきで動きを止めた。


彼の首には大戦士の証である首飾りが掛けられていた。

ゼゼアラと同様の装飾品だが、一回り小さいそれは、パンテラ部族が誇る大戦士階級の中でも、まだ若い戦士であることを示している。

しかし、その力は本物だった。分厚い角と筋肉を持つリノケロスをたった一撃で倒したその実力は、まさに大戦士の名に恥じぬものである。


「族長はまだ戻らぬか」


ベルネルの低い声に、パンテラの戦士たちが集まってきた。彼らの体には傷が多く、疲労の色が浮かんでいる。それでも、大戦士の姿に安堵の表情を浮かべていた。


「それがまだお戻りになられず!」

「もしや、族長が集落を離れたのも奴らの罠なのか?まるで仕組まれたかのような……」


集まった戦士たちの間に不安げなざわめきが広がる。

リノケロス部族はパンテラと同規模の大部族。彼らもまた大戦士を擁し、強大な力を誇っている。

そして、リノケロスの強靭な肉体は、パンテラの俊敏さと相性が悪かった。速さと技で勝るパンテラも、硬い角と強靭な肉体を持つリノケロスの前では、致命傷を与えるのが難しい。

しかし、このまま手をこまねいている訳にはいかない。ベルネルはパンテラ族の誇りを胸に、背筋を伸ばした。


「族長の帰還まで、この集落を守り切る!黒き影の名に懸けて、リノケロスどもを草原の彼方まで駆逐せよ!」


大戦士ベルネルを先頭に、パンテラ族の戦士たちは風のように疾走する。

彼らの黒い姿は一瞬で木々の間を駆け抜け、時に高く跳躍しては空中で回転し、次の獲物を狙う。


「リノケロスの戦士どもは南側に集結しております!」


戦士の言葉と共に、ベルネルの鋭い視線が敵を捉えた。

リノケロスの戦士の一団が角を構え、分厚い盾を前に押し出している。


「大戦士だ!皆の者、注意せよ!円陣を組んで背中を守るん——がぁっ!?」


リノケロスの声が途切れた。ベルネルが一瞬で間合いを詰め、優美な回転と共に鋭い爪を振るったのだ。

彼の爪は風を切り裂き、リノケロスの首元の隙間を狙い撃つ。硬い皮膚でも、あの一点ならば——。


「ぐわっ!」


リノケロスの戦士が血を噴き出し、巨体を揺らしながら倒れていく。

続くパンテラの戦士たちも木々から木々へと軽やかに飛び移りながら、リノケロスの防衛線に隙を見つけては攻撃を加えていく。

彼らは集団で一人のリノケロスを狙い、次々と弱点を突いていった。


「くそっ、捉えられん!動きが速すぎる!」


角と筋肉に頼るリノケロスの戦士たちは、パンテラの戦士の俊敏な動きについていけず、翻弄されていた。

彼らの重い武器が空気を切るが、それは常に空を切るだけで、決して黒い影を捉えることができない。

そうして、木々から木々に乗り移り、風のように疾走する戦士の一団に翻弄されるリノケロスたちだったが——


「……!」


先頭を行く大戦士ベルネルの視界に、一人の戦士の姿が映った。


美しい女であった。


しかし、彼女の身長は通常の戦士よりも一回り大きく、灰色の長い髪が風に靡いている。

その顔立ちは荒々しくも整い、小さな目には鋭い光が宿っていた。そして、彼女の首からは、リノケロスの大戦士の証たる首飾りが揺れている──。


「はぁっ!!!」


女戦士が雄叫びを上げ、足で地面を思い切り踏みつけた。その瞬間、衝撃波が大地を伝って広範囲に奔る。地面が割れ、木々が震え、草が揺れる。

パンテラの戦士たちの足場が突如として崩れ、彼らの華麗な動きに狂いが生じた。空中にいた者は着地点を失い、木の上にいた者は揺れる枝から転落し始める。

そんな中、ベルネルだけは素早く受け身を取り、地に足をつけたまま女戦士と対峙した。


「リノケロスの族長、イルデラ……!」


ベルネルの低い声には警戒と緊張が滲んでいた。その名を聞くと、女戦士はゆっくりと巨大な斧を持ち上げ、地面に叩きつけた。

轟音と共に大地に亀裂が走り、砂埃が舞い上がる。


「やれやれ、こりゃ驚いた。てっきりみんな尻尾巻いて逃げちまったかと思ったよ」


彼女の声は意外にも澄んでいたが、その中に秘められた荒々しさは隠しようもなかった。イルデラは首を左右に鳴らすと、自らの角に手を当て、艶めかしい仕草でなぞった。

そして、彼女の表情には純粋な戦いの悦びが浮かんでいた。


「だが、いるじゃないか。活きのいい大戦士がさぁ!」


彼女が獰猛な笑みを見せて咆哮し、巨大な斧を持ち上げ、再び両手に握り直した。

その目は狩りの獲物を見つけた捕食者のように輝き、尻尾が興奮で小刻みに震えている。


そして、睨み合う二人の大戦士。

空気が張り詰め、時間が止まったかのような静寂が流れる。呼吸だけが聞こえる中、一片の燃えさしがパチンと弾ける音が響いた。


「はっ!」


その瞬間、二人は同時に動いた。

ベルネルが目にも止まらぬ速度でイルデラに飛び掛かる。その動きはまさしく神速。目にも追えぬ速度で、鋭い爪が女族長の首筋の急所を狙って伸びる——

それは通常の獣人なら即死に至る致命的な一撃。

しかし、イルデラはこともなげにその速度について来た。まるでベルネルの動きが遅く見えているかのように、わずかに体を傾けて致命傷を避け、パンテラの伸ばした腕をがっしりと掴む。


「がっ……!」


骨が砕ける音が生々しく響いた。イルデラの握力だけでベルネルの腕が折れてしまったのだ。しかし、パンテラの大戦士は痛みを苦ともせず、柔軟に体をひねって回転し、残る脚でイルデラの顔面に蹴りを放った。

その一撃は見事に女族長の顔面に直撃する。通常の獣人なら顔の骨が砕け、意識を失うほどの威力だった。


「おっ!?」


イルデラは初めて驚きの声を漏らし、わずかに体が後ろに傾いた。その隙にベルネルは彼女の掴みから逃れ、瞬時に数メートル後方へと跳躍して距離を取る。

二人は再び対峙した。しかし今や、ベルネルの片腕はぶらりと垂れ下がっている。彼の表情からは痛みの色は見えないものの、戦闘能力の大半を失ったことは明らかだった。


「おやおや、女の顔を蹴飛ばすなんて、パンテラのオス共の躾けの悪さがよく分かるねぇ」


イルデラの顔には赤い痣が浮かび上がっていたが、彼女はまるで痛みなど感じていないかのように、笑い声を響かせた。

対して、ベルネルは鋭い目つきでイルデラを睨みつけた。一片の恐れもなく、折れた腕の痛みすら忘れたかのように、凛として立っている。


「戦に男も女もない。草原を踏みしめる獣人としての誇りに、性別の隔たりなど存在せぬ」

「そりゃそうか。あっはは!」


イルデラはカラカラと豪快に笑った。

しかし、次の瞬間、彼女の顔から笑みが消え去った。代わりに浮かんだのは冷酷な殺意——。彼女の周囲から恐ろしい殺気が迸り、周囲が震えた。


「じゃあ、そろそろ片をつけるとしようか。お前の首をゼゼアラへの土産にしてやる。そうすれば、あの不愛想な猫も少しは謙虚になるだろうさ」


そして、イルデラが力を入れる。彼女の筋肉が膨張し、斧を、厳かに構えた。

対するベルネルは、折れた腕を気にする素振りも見せず、最後の力を振り絞るように低く構える


──その時であった。


「なんだ、喧嘩してるのかい?良くないなぁ……もしかして、大草原の掟を忘れちゃったりして?」

「……!?」


この緊迫した場に似つかわしくない、軽やかな声が周囲に響いた。二人の大戦士は驚愕に目を見開き、急いで周囲を見渡す。

そして——空から一人の人間の青年が、まるで風に乗るかのように二人の間に舞い降りてきた。

燃え盛る集落、死闘の真っ只中にあって、彼の表情には不釣り合いなほど穏やかな笑みが浮かんでいた。


「大草原の掟、その1!みんな楽しく仲良く暮らしましょう!……違ったっけ?まぁ、多分あってるだろ!」


青年——アドリアンの声が明るく響き渡った。

パンテラの大戦士とリノケロスの女族長。二人の間に風が吹き抜け、炎が舞い上がる──。


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