目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報

第百十三話

爽やかな風が大草原を吹き抜け、草の波が遠く地平線まで揺れていた。

かつては恐怖と飢えに震えていた彼らの表情は、今や笑顔に満ちている。彼らは食料の山を囲み、今日の出来事について熱心に語り合っている。


「信じられないわ!大戦士に勝てる人間だなんて……それも武器も使わずに素手で!」


猫の特徴を持つ獣人の女性が目を輝かせながら言った。彼女の尻尾は興奮から小刻みに揺れ、頬は火照りに染まっている。


「うむむ、人間の世界はいったいどうなっておるのじゃ?アドリアン様のような強者が他にも存在するというのか?ほかの国々は今頃どうなっておるのじゃろうな……」


シカの角を持つ老人が長い髭をなでながら呟いた。その目には好奇心と驚きの色が浮かんでいる。


かつて弱者として虐げられ、絶望の淵に立たされていた獣人たちの瞳には新たな光が宿り、耳と尻尾はもはや恐怖で縮こまることなく、自由に動いている。

そして、その集落の獣人たちに紛れて、パンテラの屈強な戦士たちもまた食料を手に集まっていた。今や彼らの顔には敵意はなく、むしろアドリアンに対する尊敬の色が浮かんでいた。


「凄まじい身のこなしであった!あの瞬発力と反応の速さは、人間の域を超えている!」


一人のパンテラの戦士が、目を輝かせながらアドリアンに語りかけた。彼の瞳には純粋な戦士としての尊敬の色が宿っている。


「まるで風に身を委ね、大地を蹴る黒豹のごとき優美さ。真に草原に愛された戦士と言えよう」


もう一人の戦士が、尻尾を興奮気味に揺らしながら言った。その表情には純粋な感嘆の色が浮かんでいる。

アドリアンはそんな彼らに囲まれ、相変わらず爽やかな笑みを浮かべていた。


「いやいや、そんなに褒めてもらえるなんて照れるなぁ。でもまぁ、俺って褒め言葉には慣れっこだから、もっと大胆に褒めちぎってくれないと赤面しないよ?あと、できれば俺の髪を撫でながら『すごいね』って言ってくれるとポイント高いかな」


アドリアンの軽妙な冗談に、最初は戸惑った表情を浮かべていたパンテラの戦士たちも、やがて理解して笑い声を漏らした。

彼らの笑顔は純粋で、かつての威圧的な雰囲気は微塵も感じられない。


「へへへ、戦士さまたちの荒々しくも美しき戦いぶりには、ただただ脱帽でござんすよ!」

「エルフの皆さんも、その可憐な花のような姿に隠された、嵐のような猛々しき力!わたしどもの翼の羽根が震え上がるほどの強さでしたぁ!」


宴のような和やかな雰囲気の中、タカの獣人たちが宴席を飛び回り、パンテラの戦士やレフィーラとケルナにすり寄っていた。

彼らは両手を揉み合わせ、腰を低く曲げて、まるで臣下のように媚びへつらう姿を見せている。

先ほどまで「もうだめだぁ!」「俺たちゃ皆殺しにされるんだぁ!」と言っていた彼らとは思えない豹変ぶりだ。


「あらそう?もっと褒めてくれていいよ!私の素晴らしさを余すところなく語ってみて!」


レフィーラは胸を張り、金色のポニーテールを風に靡かせながら、どこまでも明るい笑顔を見せた。

彼女の傍らには妹のケルナがいたが、その姿は姉の影に隠れるようで、かろうじて覗かせた顔は恥ずかしさで赤く染まっている。


「えーっと、褒めるところはもうあんまり……あ、いえなんでもないです!とても優しいお心遣いに感謝いたします!えっとぉ……」


タカの獣人が慌てて言葉を切り替え、冷や汗を流しながら頭を下げた。レフィーラの微笑みの裏に潜む圧倒的な力を、彼はしっかりと記憶していたのだろう。

一方で、メーラといえば——。


「むぅ……」


メーラは小さく呟いたが、その声は獣人の子供たちの歓声にかき消されていた。彼女は周囲を取り囲む様々な獣人の幼子たちにもみくちゃにされている。

犬の耳を持つ子供がその裾を引っ張り、キツネの尻尾を持つ少女が彼女の角に触れようと背伸びをしていた。


「お姉ちゃん遊んでー!」

「お姫様は優しくて安全そうだから触っても怒らないよね!強い人たちは怖いもん!」


子供たちのふわふわした毛がメーラの高価なドレスにこびりつき、所々毛だらけになってしまっていた。もっとも、後で洗浄魔法をかければ元通りになるため、それは問題ではない。

しかし、メーラの胸には複雑な思いが渦巻いていた。獣人の可愛らしい子供たちに懐かれることは確かに嬉しい。

……だが、その理由が「弱くて害がないから」「強い戦士たちよりも安全だから」と判断されたからであることに、微かな寂しさを感じずにはいられなかった。


「お姫様は子供たちに大人気みたいだね。メーラ姫!そのもふもふ狩りの名人たちも数年すれば立派な獣の戦士になるんだ。今のうちに『優しいお姫様』のイメージを植え付けておけば、将来は喜んで忠実な下僕として働いてくれるかもね!お姫様の国再建の計画としては上々じゃないかい?」

「もう!アド!」


アドリアンの軽やかな皮肉に、メーラはほっぺたを膨らませてぷんすかと抗議した。しかし、子供たちの体重に押し倒されて、ふわふわの尻尾の海に埋もれてしまう。


──そして、そんな光景の片隅。


二人のパンテラ族の戦士が静かに佇んでいた。族長ゼゼアラと、若き戦士クローネである。

クローネは、膝をついて頭を深く下げ、その黒い尻尾は地面に垂れたままだった。


「族長様、申し訳ありません……果樹園を守れなかったばかりか、私が原因でキトゥラ・シャゼイを引き起こし……このような結果に至ってしまいました」


クローネの声には無念さが滲み、彼女の爪が土を掻き毟っている。

ゼゼアラは彼女の言葉を黙って聞き、やがて静かに手を伸ばし、クローネの頭に優しく置いた。


「気に病むな、クローネ。キトゥラ・シャゼイに敗れたのは俺の力不足が原因だ。……それに」


彼の声が小さくなる。


「果樹園の占有など許されぬ蛮行だったのだ。こうなって、良かったのだ」


ゼゼアラはそう言いながら俯いた。彼の尻尾は静かに地面を掃くように動き、風に揺れる草の上に影を落としている。

クローネは何か言おうとしたが、族長の瞳に浮かぶ複雑な感情を見て、言葉を飲み込んだ。


そんな時である。


「やぁ!パンテラの堂々たる族長と、愛らしい子猫戦士じゃないか!なんだい、こんな暗がりで沈んだ顔して。そんな毛並みじゃ太陽の光も反射しないよ。ほら、みんなで一緒に美味しいものを食べよう!」


アドリアンが陽気な声を上げながら現れた。彼は両手に果物を持ち、それを器用に二人へと投げてよこした。

赤く熟した果実が弧を描き、ゼゼアラとクローネの前に落ちてくる。


二人は驚くほどの反射神経で果物を空中でキャッチした。

そして、ゆっくりとアドリアンに視線を向けた。ゼゼアラの金色の瞳には疑問の色が浮かんでいる。


「アドリアンよ。本当によいのか?」


ゼゼアラの低い声には不思議そうな調子が混じっていた。


「いいさ、まだ俺が買い込んできた食料は沢山あるんだから」


アドリアンは気さくに肩をすくめたが、ゼゼアラはゆっくりと首を振った。


「そうではない。その……キトゥラ・シャゼイの敗者に対する、権利があのようなものでよいのか、という話だ」

「あぁ、なるほど」


キトゥラ・シャゼイ——それは単なる競技ではなく、部族の命運を賭けた決闘の儀式。

それに勝利した部族は、相手の部族に一つ、何かしらを要求することができる。それが例え、領土の分割であろうと、傘下になれ、という命令であろうと——。

そして、それを拒否した部族は永遠に草原で汚名を被ることになるのだ。


しかし、アドリアン側の要求は——


『どうする、モル族長?』


アドリアンは競技が終わった直後、そう言ってモル少年を前に押し出した。


『えっと……僕たちの集落と、パンテラ集落の争いはこれで終わりにしたいです。友好の証として握手して……それと果樹園はみんなで分け合うようにしていただけると嬉しいです』


モル少年は長い耳を揺らしながら、小さな体で勇敢にも族長としての言葉を述べた。彼の横でアドリアンが頷き、付け加えた。


『要するに、皆で仲良くしていこうってことさ!果樹園の独占なんてやめて、お互い助け合いましょうねってこと!お互いの部族の子供たちが笑顔で暮らせる大草原にしようってね!』


アドリアンとモル少年の言葉に、パンテラ族の戦士たちは唖然とした表情を浮かべた。

キトゥラ・シャゼイに勝ったのだから、どんな要求でも通るはずなのに、その程度のことしか望まないとは——


「モル族長が決めたことだからね。彼が大草原の未来を思い、こういう選択をしたんだ」


アドリアンは柔らかな笑みを浮かべながら、集落の獣人たちに囲まれているモルに視線を向けた。夕暮れの光の中、モルの姿は小さいながらも堂々としていた。


「この食料だって、俺はモル個人に渡したものだ。なのに彼は何の躊躇もなく、何も考えずに、みんなに分け与えた。自分のものを惜しげもなく差し出せる心……それこそが真の戦士の魂じゃないかな。力だけの強さなら、獣などどこにでもいる。だけど、弱きを思いやる心を持つ戦士こそ、草原が求めていた姿だと俺は……思うんだ」


真の戦士──

その言葉を聞いた瞬間、ゼゼアラの耳がぴくりと動いた。彼の瞳が何かを思い出すように遠くを見つめる。


「……そうか。そうかもしれないな」


彼は自嘲するように微笑み、首元に手を当てた。


「俺は、戦士の心を忘れてしまったようだ。リガルオンから賜ったこの大戦士の証も、さぞや嘆いているだろう。力だけを頼りに、弱き者を顧みず……何と愚かな獣に成り下がったことか」


ゼゼアラの首飾りが夕陽に照らされ、鮮やかに煌めいた。

それは大きな爪の形をした装飾品——大戦士のみがつけることを許される、誇りの証だった。


「ぞ、族長様は真の大戦士に相応しいお方です!いつも我々を導いてくださるし、敵と対峙する時も、族長様が先頭に立たれるから皆死すら恐れず突進できるのです!」


クローネが慌てた様子でゼゼアラに言った。彼女の言葉には、純粋な畏敬の念が宿っている。


「ゼゼアラ族長、ずいぶんと慕われてるじゃないか」


アドリアンが親しげにゼゼアラの脇腹を肘で小突いたが、ゼゼアラは無言のまま、長い黒い尻尾でその手をぴしゃりとはねのけた。

彼の表情は厳しさを保っていたが、その瞳の奥には微かな温かさが宿っていた。


「クローネ。俺は腹が空いてはいない。ここの集落の子供たちに、この果物を分け与えてやってくれぬか」


ゼゼアラは低く落ち着いた声で言った。その言葉に、クローネは驚いたように耳をピクリと動かした。


「え……?でも……族長様、それは……」


何かを言い返そうとするクローネだったが、ゼゼアラの圧倒的な存在感を前に言葉を飲み込んだ。

彼女は尾を引くように、しかしゼゼアラへの尊敬の念を胸に、その場を後にし、集落の獣人たちの方へと歩いて行った。

その光景を見ていたアドリアンは、目を細めながらゼゼアラに問いかけた。


「──さて、族長どの。聞かせてもらえないだろうか?」


アドリアンは一呼吸おき、ゼゼアラに対して真摯な敬意を込めた視線を向けた。


「栄光あるリガルオンから大戦士の証を授かり、弱き者を守る真の戦士の魂を持っているはずの貴方が、どうして果樹園を独占し、小さな部族を虐げるような真似をしていたのか……その理由を」


アドリアンの言葉が草原に静かに響き、風さえも立ち止まったかのような静寂が二人を包み込んだ。

ゼゼアラはアドリアンの瞳をまっすぐに見つめ返した。彼の眸には、複雑な感情が渦巻いていた。


「俺はこの大草原を元の姿に戻したいんだ。かつての部族連合のように、獣人たちが互いを尊重し合い、弱きを守る草原に。それが俺の目的の一つなんだ」

「……」


ゼゼアラの内心には葛藤が渦巻いていた。部外者——しかも他種族に草原の秘密を明かすなど、あってはならないことだ。この混乱と苦悩は、獣人だけで解決すべき問題のはず。

しかし、この男ならば。この、爽やかな風のような自由さと、獅子のような雄々しさを併せ持つ男ならば……なんとかしてくれるのではないか。

ゼゼアラの心の奥底で、そんな期待が芽生え始めていた。彼はかつてない感情の狭間で揺れていた。

永遠にも思える静寂の後、ゼゼアラはゆっくりと口を開き——


「ぞ、族長!ゼゼアラ族長はおられるか!」


その時、一人のパンテラ族の戦士が血相を変えて集落に飛び込んできた。彼の瞳は焦りで大きく見開かれている。


(あれは……ランガル?集落の留守を任せていた戦士だが、何故こんな時に)


ゼゼアラはその姿を認めるや否や、胸に不吉な予感が走った。

突然の来訪者に、戦士たちも、集落の獣人たちも身体を硬直させる。

宴の笑い声が嘘のように消え、静寂だけが場を支配した。


「何があった!」


ゼゼアラが一歩踏み出し、低く唸るような声で問いかけた。

伝令の戦士は一度深く息を吸うと、震える声で叫ぶように言った。


「リノケロス大部族が族長不在を知り、我らパンテラの集落に押し寄せているのです!女子供は安全な場所へ避難させましたが、集落は炎に包まれ我らの戦士たちも苦戦を強いられております!族長様、どうかお戻りを!」


その言葉を聞いた瞬間、場に緊張が走った。パンテラの戦士たちが一斉に立ち上がり、低い唸り声を上げ始める。


そしてアドリアンは——


「なるほど──話の続きは、また後でにした方が良さそうだね」


彼の瞳が鋭く煌めき、草原の一陣の風が吹き荒れた。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?