──それは、大草原に秩序というものが存在していた時代のことだった。
『大草原に生きる兄弟姉妹たちよ!決して力に溺れるな。弱者を見捨てず、『理性』で争いを解決するのだ!』
部族の頂点に立っていたのは、リガルオン大部族。
獅子の特徴を持つ獣人である彼らは、圧倒的な力を持ちながらも、滅多に戦うことはなかった。
草原の秩序を守るため、時に調停者として現れるものの、争いには身を投じず、常に穏やかな態度で他の部族に接していた。
しかし、若き日のゼゼアラには、それが臆病に映っていた。
(本当の強者が、力を見せぬはずがない。戦いを避け、優しい言葉だけで草原を治めようとするリガルオンの族長など、本物の大戦士ではない!)
彼の内心には、リガルオンへの疑念と蔑みが渦巻いていた。爪と牙で勝ち取る力こそが、大草原の掟。
だというのに、リガルオンはただ古い因習と過去の名声だけで、覇者の座に君臨している——そんな憤りが、若きゼゼアラの心を満たしていた。
(きっと、本当は弱いから戦おうとしないのだ。その証拠に、戦うことを避け、常に穏やかな話し合いを持ちかけてくる。本物の獣人ならば、力をもって己の正しさを示すはず)
そうして、若きゼゼアラは地位を得るやいなや、成長した自らの力に自信を持ち、ついにリガルオンの族長に決闘を挑んだ。
主要な大部族の族長たちが見守る中、彼は過去の掟に則り、正式な挑戦状を叩きつけたのだった。
リガルオンの族長は、ゼゼアラの挑戦状を受け取ると、苦笑いを浮かべながらも優しく頷いた。彼の瞳には諦めと共に、どこか期待の色も混じっていた。
『誇り高きパンテラの族長よ。貴殿の挑戦は、受け取った!草原の風の下で、共に武を競おうぞ』
その言葉に集まった獣人たちから歓声が湧き上がった。
草原の真ん中、日が頂点に達した昼時。そこに、二人の戦士が相対していた。ゼゼアラとリガルオンの族長である。
ゼゼアラは自らの肉体と武に絶対の自信があった。幼い頃から鍛え上げた筋肉、日々の狩りで洗練された動き、そして何より、侵略者との戦いで培われた実戦経験——。
草原の外から来る他種族の軍隊に立ち向かう時、常に真っ先に立つパンテラの長としての誇り。その力は大草原の中でも群を抜き、上位に位置する実力者だと誰もが認めていたのだ。
(パンテラの爪は岩をも裂く。先代族長から受け継いだ技は、どの部族の戦士も真似できない独自のものだ……!)
彼の内心は自信に満ちていた。風を切り裂くように構えを取ると、一気呵成に攻め込む──
──筈だった。
戦いは、あっという間に終わった。
ゼゼアラの記憶の中で、何が起きたのかすら明確ではなかった。彼の爪が空を切り、リガルオンの族長の影を追いかけるも、決して捉えることができない。
そして——突如として、大地が目の前に広がる感覚。ゼゼアラの身体が宙を舞い、草原の土に叩きつけられる衝撃。
彼は息も絶え絶えに、傷だらけの姿で大地に伏していた。
『よく戦った、若きパンテラの族長よ』
負けた。圧倒的な力の差を示され、ゼゼアラは完膚なきまでに打ちのめされたのだ。
『俺を哀れむか、リガルオンよ!』
何故これほどの力を持ちながら、敗者に優しくするのか——ゼゼアラには理解できなかった。
勝者が敗者を哀れみ、手を差し伸べる理由などありえない。
『パンテラの若き族長よ。真の戦士とは、武力を行使するだけでは駄目なのだ。弱き者の盾となり、傷ついた者の杖となり、迷える者の道標となるために力は存在する』
ゼゼアラは眉をひそめた。言っている意味が、分からない。いや、理解はできても、腹の底から納得することはできなかった。
困惑するゼゼアラを見て、リガルオンの族長は不意に微笑んだ。そして、彼は雄々しく構えを取り、胸を張った。その姿は、まさしく草原の大戦士の頂点──。
『だが、忘れるな。皆を守るためにも、時に牙を剥き、爪を振るう覚悟もまた必要なのだ。弱き者を守るために、時に己が獣となることも辞さない——それもまた、真の戦士の道である』
彼の声が低く響き、全身から闘気が溢れ出すのが感じられた。風が彼の周りで渦を巻き、草が波打ち、獣人たちが息を呑む。
リガルオンの族長は地に足をつけたまま、しかし全身から圧倒的な力を放つ。
『だからこそ!こうして爪と拳を合わせ、命の限りを尽くす瞬間にこそ、真の生命の輝きがある!そうは思わないかね?パンテラの若き族長よ!』
次の瞬間、リガルオンの族長が凄まじい咆哮を上げ、拳を虚空に向かって放った。轟音と共に、衝撃波が草原を駆け抜ける。
大地がえぐれ、草が根こそぎ吹き飛び、遥か地平線まで一筋の道ができたかのような跡が刻まれていく。それは木々をなぎ倒し、小さな丘すら砕くほどの威力を持っていた。
ゼゼアラは息を呑んだ。リガルオンの族長の姿は、もはや獣などではなく、草原そのものの化身のように思えたからだ。
あまりにも圧倒的な力が、若きゼゼアラを唖然とさせた。
『まぁ、何が言いたいかというとだな』
今まさに破壊の力を周囲に見せつけたリガルオンの長は、突如として無邪気な笑みをゼゼアラに向けた。
彼の目には子供のような純粋な輝きが宿り、豊かな髪が風に踊っている。
『たまには、こうして心の底から暴れるのも悪くないものだなぁ!草原の風に身を任せ、獣としての本能を解き放つ喜び!ほらほら、さぁもう一度立ち上がって、共に舞おうではないか、パンテラの若き族長よ!』
彼の朗らかな笑い声が草原に響き渡り、風と共に遠くまで届いていく。その笑顔には強者の慈悲だけでなく、純粋に戦いを楽しむ戦士の喜びが溢れていた。
♢ ♢ ♢
ゼゼアラの瞳に浮かんでいた過去の光景が、風のように消えていく。
彼の前には今、かつてのリガルオンの族長と同じ表情で微笑む人間の姿があった。アドリアンの瞳の中には、戦いを楽しむ純粋な喜びと、相手への敬意がそのまま映し出されている。
(こいつは……ただの人間の戦士ではない!)
それは懐かしく、そして眩しい光景だった。
「さぁ、その魂の輝きを見せてくれ!爪も拳も、種族の違いなんて関係ない!真の戦士同士なら、こうすれば互いを理解できるはずだ!草原の風に誓ってね!」
アドリアンの声が草原に響き渡り、その言葉に応えるように、ゼゼアラの瞳に新たな炎が灯った。
アドリアンが放つ蹴りの一撃が、草原の大気を震わせる。その一撃をゼゼアラが受け止めると、衝撃波が周囲に広がり、草が大きく波打つ。
次の瞬間、ゼゼアラの爪が閃光となってアドリアンの喉元を狙うが、彼は微笑みながら、風のように身をひるがえす。
「な、なんだありゃ……何してんだか見えねぇよ!?」
そのあまりの迫力に、周囲の獣人たちは唖然と口を開けたまま見つめていた。パンテラの戦士たちは息を呑み、瞳を見開き、集落の弱い獣人たちは恐れと驚きで身体を震わせている。
「す、すごい……」
モル少年が小さく呟いた。彼の瞳には憧れの光が宿っていた。
「族長様が……笑っている……?」
クローネが信じられないという表情で呟いた。確かに、ゼゼアラの顔には久しぶりの、心からの笑みが浮かんでいたからだ。
いつも無表情の青年だが、ここ最近は特に表情を変えることが無くなったゼゼアラ族長。そんな彼が、笑みを浮かべているのだ。
それは単なる力の誇示ではなく、互いを尊重する者同士の、神聖な交流。彼らの動きは風の如く流れ、互いの技を称え合うように、戦いは続いていく……。
そして──
演武の最中、空中で技を出し合っていた二人の姿が一瞬静止した。
アドリアンとゼゼアラの視線が交わり、その瞬間、アドリアンが不意に言った。
「そろそろ締めくくろうか!草原の風と獣人の皆さんに、真の戦士の力を見せてあげよう!」
アドリアンの全身から凄まじい闘気が溢れ出した。それは目に見える形となって彼の周囲に青白い光の渦を作り、草を大きく揺らしていく。
「──!」
その様を見て、ゼゼアラの瞳が開かれた。彼の脳裏にはリガルオンの姿とアドリアンの姿が重なり合う。
爽やかな風が吹き抜けながらも、猛々しい闘気が大地を震わせる——それは、かつて見た情景そのもので──。
時が止まったような静寂の後、アドリアンの胸が大きく膨らみ、彼は全身から力を解き放つ。
「はぁぁぁーっ!!!!」
アドリアンの獅子のような咆哮が草原に響き渡った。その声は遥か彼方まで届き、草原の獣たちさえも震え上がらせる轟音となった。
彼の拳が虚空に向かって放たれると同時に、眩い光が大地を覆い、轟音が草原全体を揺るがした。
「う、うそだろ……」
かつて見た、リガルオンの族長が放った技と見間違うような……いや、それよりも凄まじい威力の拳技だった。
ゼゼアラは呆然と、眩い光に包まれたアドリアンの姿を見つめていた。彼の放った拳の衝撃が草原を駆け抜け、地平線の果てまで一筋の道ができるほどに草を薙ぎ倒していく。
(あぁ、そうか。この男は……似ているんだ。あの御方に)
ゼゼアラの心に、静かな理解が浮かぶ。
この人間は……そっくりなのだ。かつて自身が忠誠を誓った、大草原の偉大なる覇者に。
柔和な笑顔の下に秘められた圧倒的な力、そして弱き者への慈しみ——それはまさに、リガルオンの族長そのものだった。
「これはね……昔、草原の気高き友人に教わった技なんだ。懐かしくて、つい力が入りすぎたけど……キミの知るライオンさんのと比べて、どうだった?」
獣人の頂点に立つ、リガルオンの秘技を易々と放って見せるアドリアンに、周囲の獣人たちは本日何度目かになる驚愕の表情を浮かべていた。
「アドー!あんまり被害出しちゃだめだよー!」
メーラの優しい叱責が響く。
エルフの姉妹も、アドリアンの凄まじい技を見て、姉は飛び跳ね、妹は目をぱちくりとさせていた。
「やぁ、応援ありがとう!最近、お姫様にはいつも叱られてばかりだなぁ」
アドリアンは楽しげに笑いながら手を振った。
「それで、ゼゼアラ?まだ続ける気概はあるかい?このまま闘いの舞を続けるか、それとも……」
軽やかな声に、呆然としていたゼゼアラは我に返った。彼は瞬きを繰り返し、アドリアンの技が草原に刻んだ傷跡を見つめた。
地平線まで続く一直線の溝と、根こそぎ吹き飛んだ草原の光景が彼の瞳に映る。
「……」
ゼゼアラは長く息を吐くと、肩の力を抜き、フッと穏やかな微笑を浮かべた。
彼の黒い尻尾がゆっくりと揺れ、その表情には敗北の屈辱よりも、何か深い理解の色が浮かんでいた。
「──いや、もう十分だ。この勝負、お前の勝ちを認めよう。キトゥラ・シャゼイは、お前たちのものだ」
彼の言葉が風に乗り、草原に広がる。
一瞬の静寂が訪れた。時間が止まったように、全ての音が消えたかのような瞬間。
そして──
「うぉぉぉぉぉ!!」
「やったぞ!」
「親分が勝ったぁーーーー!!!」
集落の獣人たちから、歓声が湧き上がった。タカの獣人たちは空高く飛び上がり、草食獣人たちは小躍りして喜び、子供たちは両手を振りながら跳ね回っている。
モル少年は感動に目を輝かせ、ペララは尻尾をくるくると回していた。彼らの顔には、かつてないほどの喜びが溢れていた。
パンテラの戦士たちはゼゼアラの背後で一斉に膝をつき、彼らの敵であったはずのアドリアンに対して武人の敬意を示す所作を見せていた。
草原の風が喜びの声を乗せて遠くまで運び、青空の下、キトゥラ・シャゼイは幕を閉じたのであった。