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第百十一話

大草原を、穏やかな風が吹き抜けていった。

風は青々とした草を撫でるように靡かせ、波打つ緑が地平線の彼方まで続いている。

そんな草原の中央に、二人の男が相対していた。


一人は、黒い髪を風に揺らす人間の青年——英雄アドリアン。

彼の瞳は爽やかな青空のように明るく、そこには余裕と自信が宿っている。


そして、彼と向かい合う黒ヒョウの獣人——パンテラ部族の族長ゼゼアラ。

漆黒の髪と耳、そして長く美しい尻尾を持つ彼は、その整った顔立ちと威厳ある佇まいで、静かに風を受けていた。


「いい風だ……。草原を吹き渡る風は、どうしてこうも身体に染み入るように心地良いんだろうね」


アドリアンは目を細め、微笑みを浮かべながら言った。

髪が風に舞い、その表情には穏やかな満足感が浮かんでいる。


「どう思う?ゼゼアラ」


アドリアンの言葉は軽やかに風に乗っていくが、ゼゼアラはその言葉に答えようとはしなかった。

彼は無言のまま、アドリアンを見据えている。微かに揺れる黒い尻尾だけが、内に秘めた感情を物語っていた。


──第三回戦の種目は、実践演武。


互いに演武を披露し、その美しさと雄々しさを競う競技。

それは単なる型の披露ではなく、互いに技を繰り出し、戦う……つまり、決闘である。


しかし、ただ無骨に相手を打ち倒すだけでは勝利とはならない。

誰もが息を呑むような優美な動き、草原の獣のような俊敏さ、そして戦士としての矜持ある姿勢。全てが審査の対象となる。

獣人の伝統において、戦いとは単なる生存競争ではなく、一つの芸術でもあるのだ。

優雅に舞いながら雄々しく戦う姿こそが、真の勝者として称えられる。

血を流すこともある危険な競技だが、だからこそ、草原の獣人たちはこの競技に最も熱い視線を注ぐのだった。


そして、この重要な種目の選手には……アドリアンが選ばれた。

彼の名が告げられた瞬間、パンテラ部族の面々が顔を見合わせ、静かに頷き合うのが見えた。

彼らが出してきた選手は、他でもない族長ゼゼアラその人だった。


そうしてアドリアンとゼゼアラが相対する中……ゼゼアラは腕を組みながら、ちらりとモル少年を一瞥して口を開いた。


「族長は出なくていいのか?」


通常、この種目では族長同士が対峙するという暗黙の了解があった。族長同士が自ら戦うことで、その部族の矜持を示す——そんな不文律が長く受け継がれてきたのだ。

しかし、アドリアンはにやりと意味ありげな笑みを浮かべて言った。


「モル族長は、俺が負けた場合の保険なんだ。ほら、真の英雄は最後の決戦まで姿を見せないって感じで。……ま、今回は大人同士の遊びにしよう」


アドリアンの皮肉めいた言葉に、ゼゼアラはゆっくりと目を伏せた。

彼もまた、アドリアンが実質的な大将であることは理解していた。いくら勇気があろうとも、子供は子供。こうした競技で成体に勝てる訳がない。

見栄も虚勢もなく、それは厳然たる事実だったのだ。

ゼゼアラが再び目を開けると、そこには戦士としての誇りが浮かんでいた。


「分かった。お前の相手は、この俺がつとめよう。草原の風の下、真の戦士同士の舞を——」


ゼゼアラは姿勢を低くし、両腕を前に出して構えた。彼の指先では鋭い爪が日光を受けて鈍く光り、整った顔つきは獣のような鋭さを帯びている。


「俺は武器を用いない。己の爪と牙こそが、獣人の誇り。だが、お前は人間。生まれながらに爪も牙も持たぬ存在。武器を使うならば、咎めはせん」


その言葉に、アドリアンもまた構えを取った。彼の佇まいは軽やかでありながら、どこか揺るぎない強さを秘めている。


「冗談だろ?キミが武器を使わないなら、俺もまた武器を使わない。それに、実は人間にだって拳という立派な牙があってね。今から見せてあげるよ」


アドリアンの軽やかな応答にゼゼアラは目を細めた。彼の尻尾が警戒からか小刻みに揺れるも、口を開くことはなかった。

草むらを風が撫で、その音さえ遠のいたかのような静寂の中、二人の闘気だけが色濃く満ちていった。

周囲の獣人たちは、二人の闘気を感じ取り、怯えるように身を寄せ合っていた。


「い、いくら親分が強くても、相手は大戦士だぜ……」


タカの獣人が恐怖に震える声で呟いた。彼の仲間たちも同じく、青ざめた顔で首を縮めている。


「英雄様……どうかご武運を……。我らの未来は貴方様の手に委ねられているのですじゃ……」


老人たちが両手を合わせ、まるで祈るかのようにアドリアンを見上げていた。その目には、すがるような光が宿っている。

一方、そんな緊張感とは対照的に、レフィーラは相変わらず明るく微笑んでいた。

彼女は膝の上に座らせた黒い尻尾の少女——クローネの耳や尻尾を優しく撫でながら、穏やかな声で言った。


「あのゼゼアラって獣人も強そうだけど……ま、アドリアンなら大丈夫よ。ねぇ、貴女もそう思うでしょ?」

「知らん!つーかなんなんだよお前らは!あぁもう、突然やってきて滅茶苦茶にしやがって……!」


クローネは口では文句を言いながらも、レフィーラの胸に抱かれたまま大人しくしていた。

先の戦いで敗者となった彼女は、勝者の権利としてレフィーラに「可愛がられる」という屈辱的な刑を受けているのだ……。

ケルナは姉の暴挙に溜息を吐くも、何も言えず仕舞いである。


「アドリアン様……大丈夫でしょうか?」


モルとリスの少女ペララの兄妹。彼らの瞳には子供らしい純粋な心配の色が浮かんでいる。


「アドリアンは私の騎士……。彼が誰かに後れを取ることなど、この世界ではあり得ないことなんですよ、モルさん」


メーラがふわりと微笑み、人を安心させるように言った。彼女の瞳には絶対的な信頼の色が宿っていた。


パンテラ族の戦士たちが厳粛な表情で輪を作り、集落の獣人たちがその外側に震える足取りで集まってくる。

緊張が草原全体を覆い、鳥のさえずりも、虫の音さえも消えたかのような静寂が広がっていた。

アドリアンとゼゼアラは構えたまま、互いを見つめ合っている。


時間が止まったかのような瞬間の後——。


「始めっ!」


パンテラ族の戦士が、喉の奥から響くような声で号令をかけた。


その瞬間、二人の姿が消えた。


ゼゼアラの姿は風をも追い抜き、黒い残像だけを草原に残していく。


「はぁっ!」


鋭い爪が風を切り裂き、アドリアンの頬をかすめた。だがアドリアンは、風と共に踊るように僅かに身体を傾け、その攻撃を難なく避ける。


「素晴らしい動きだ!流石は大戦士!その優雅さは本当に見事!」


アドリアンの声が風に乗って響く。

それと同時にアドリアンの拳が閃き、ゼゼアラの胸元に迫る。大地を砕く威力を秘めた一撃だったが、それは身を捻るようなゼゼアラの一動作でかわされた。


「貴様も、なかなかだな……人間の身でありながら……!」


ゼゼアラの言葉が途切れる間にも、二人の攻防は止まらない。彼らの姿は大地と空を行き来し、時に草原を駆け、時に天空を舞う。


「す、すごい……!目で追うことも出来ない……!?」


モル少年が驚嘆の声を上げた。彼の長い耳が感動で逆立ち、目は輝きに満ちていた。

集落の獣人たちも、タカの獣人たちも、皆が開いた口を閉じることができないでいる。彼らの瞳には畏敬の色が宿り、ただ呆然と見上げるばかりだった。

二人の攻防は、無数の爪の軌跡と拳の閃光を描き出す。互いを倒すためではなく、互いの技を称えるための戦い。それは決闘であり、同時に最も美しい舞踏──。


「あ、あの人間……族長様の攻撃を……全部見切って!?」


ゼゼアラの爪が振るわれるたび、草原の風が切れ、それを鮮やかに避けるアドリアンの姿に、パンテラの戦士も、クローネも誰もが言葉を失っていた。

アドリアンが回転しながら蹴りを放つと、ゼゼアラはその姿勢を崩すことなく、しなやかに体を反らせてかわす。二人の間合いは常に紙一重で、どちらも相手を傷つけることはなく、しかし一歩も引かない。


(なんという人間だ……!この俺の爪を、己の力だけで防ぎ切るとは!獣の本能すら凌駕する反応速度、そして一糸乱れぬ反撃の技……!)


武器すら持たない人間が、己の拳のみでこれほどまでの強さを示すなど信じられない——

アドリアンの動きは草原の爽やかな風のようだった。捉えられず、流れるように、時に穏やかに、時に激しく自分を翻弄していく。その優美さと力強さに、大戦士ゼゼアラは心の底から感動を覚えていた。

戦士としての純粋な喜び、強き者との舞に身を委ねる悦びの色が、彼の瞳に浮かんでいく……。


そうしていると、不意にアドリアンが言った。声は激しい呼吸の中にも明るく弾んでいた。


「いやぁ、草原で闘うのは最高だね!広々とした青空の下、風を切り、大地を蹴る——こうして爪と拳を交え合う瞬間こそ、生きている実感を与えてくれるってものさ!ねぇ、キミも楽しんでるだろう?ゼゼアラ!」

「!」


その言葉にゼゼアラの動きが一瞬止まった。


『こうして爪と拳を合わせ、命の限りを尽くす瞬間にこそ、真の生命の輝きがある。そうは思わないかね?パンテラの若き族長よ』


その言葉を聞いた瞬間、ゼゼアラの体が凍りついた。


アドリアンの言葉は、彼がかつて耳にした別の声と、あまりにも似ていて——


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