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第百三十三話

大草原の東部、その奥深くに広がる広大な湿地帯。

そこは、一歩足を踏み入れれば膝まで沈み込むような底なし沼が広がり、気味の悪い鳴き声の鳥や得体の知れない水棲生物が潜む、まさに獣人跡未踏の秘境。

普通ならば熟練の獣人ですら足を取られ、まともに進むことすら困難なそんな場所だ。


しかし——。


「如何ですか、メーラ姫。久しぶりの、英雄との二人きりの散歩は。絶景とは言えないかもしれないけど……スリリングで退屈しないと思わない?」


そんな絶望的な沼地を、アドリアンは貴婦人をエスコートするかのように軽やかな口調で、腕の中の少女に語りかけていた。

その腕の中には、紫の髪を揺らし、美しいドレスを纏った魔族の少女——メーラが、所謂お姫様抱っこという体勢で抱えられている。


「う、うん……アドと二人っきりなのは、その……嬉しいんだけど……」


メーラは頬を染め、もごもごと口ごもる。しかし、その不安げな瞳は、アドリアンの顔ではなく、はるか下——深緑色の粘着質な水をたたえた沼地へと向けられていた。

アドリアンは、そんなメーラの不安などどこ吹く風といった様子で、水面を滑るかのように優雅に進んでいる。

彼の足は沼に触れることなく、常に水面から数寸浮いた状態を保ち、魔法の力で風を操りながら、水の上を跳ねるように、しかし揺らぐことなく滑らかに、セルペントスの隠れ里へと向かっていたのだ。


「こ、こわい……」


アドリアンに軽々と抱えられているとはいえ、眼下に広がる不気味な沼地は、メーラにとって決して心地よいものではなかった。

もし、万が一にもこの沼に落ちてしまったらどうなるのだろう──それを想像するだけで、メーラの華奢な身体はぶるると震えた。


「ほら、メーラ、よく見てごらん。あそこに大きなカエルさんがいるだろ?今まさに、あの沼サソリに美味しくいただかれようとしているところだよ。ここに落ちたら、か弱い人間や魔族のお姫様なんて、あっという間に骨の髄までしゃぶられちゃうかもしれないね」


アドリアンは、楽しそうに、しかし確実にメーラの恐怖を煽るような言葉を囁く。

恐ろしい言葉に、メーラはひっと息を飲み、顔を青ざめさせ、反射的により一層強く抱き着いた。

しかし、見る見るうちにその表情は恐怖から怒りへと変わり、潤んだ瞳でアドリアンを睨み上げる。


「もう、アド!そんな怖いこと言わないでよ!驚かさないでったら!」

「はは、ごめんごめん。つい、メーラの反応が可愛くて」


アドリアンは悪びれもなく笑いながら、メーラの頭を優しく撫でる。そんな二人のやり取りを乗せて、沼地の上を進んでいく。

その時、不意にアドリアンが、どこか遠くを見るような目で呟いた。


「こうしてると……昔、孤児院でメーラに読んであげた、あの『絵本』の場面を思い出すな」

「え……?」


アドリアンの予期せぬ言葉に、メーラは驚いて顔を上げた。

そして、すぐに思い至る。アドリアンの言葉が、どの絵本の、どの場面を指しているのかを。


──それは、まだ二人が孤児院で暮らし、世界を救う使命も、魔族の姫としての宿命も、何一つ知らなかった幼い頃の記憶。

夜、なかなか寝付けないメーラのために、アドリアンが何度も読んでくれた、一冊の古い絵本。

その絵本の中の英雄は、囚われのお姫様を救い出し、その細い身体をしっかりと抱きかかえ、悪しきドラゴンの支配する燃え盛る城から脱出するのだ。

足元に広がる煮えたぎる溶岩を、魔法の力で軽々と飛び越えていく、あの場面──。


「そう、だね。うん……なんだか、すごく懐かしいな……」


メーラの口元に、ふわりと優しい笑みが浮かんだ。アドリアンの腕の中で、彼女は遠い昔の、温かく、そして少しだけ切ない思い出に浸っていた。

絵本の中の英雄は、お姫様を抱いて、燃え盛る溶岩の上を魔法の力で飛んで歩いていた。

今は煮えたぎる溶岩ではなく、不気味な静けさをたたえた沼地の上だが……まぁ、落ちれば為す術なく命を落とすであろうことは、どちらも同じだろう。

メーラはぎゅっとアドリアンの服を掴む力を強めた。


「あの時の私は、お姫様になるだなんて、夢にも思っていなかったな……」


メーラは、アドリアンの腕の中からそっと自身の姿を見下ろした。

美輝公から贈られた、ドワーフの帝国が誇る最高の技術と素材の粋を集めて作られた、豪華絢爛なドレス。

これを身に纏っているだけで、誰もがメーラをどこかの国のお姫様だと信じて疑わない。


——本当は、ただの寂れた町の、孤児院育ちの娘だというのに。


「私は、お姫様なんかじゃないのにね……」


メーラが、どこか寂しさを滲ませた声でそう言いかけた、その時だった。

アドリアンが表情を和らげ、その人差し指を優しくメーラの唇に当てて、遮った。


「いいや、メーラは立派なお姫様さ。少なくとも、俺にとっては孤児院にいたあの頃から、ずっとお姫様だよ。昔から、キミは誰よりも輝いていたんだから」


その言葉は、いつもの軽口とは違う、真摯で、そしてどこまでも優しい響きを持っていた。

メーラは一瞬きょとんとして、アドリアンの顔を見つめた。そして、その言葉の意味がじんわりと心に染み渡るにつれて、顔がみるみるうちにカッと赤らんでいく。


(な、なんで急にそんなこと言うの……!?)


最近、アドリアンの言葉はますますキザになっている気がする。

そして、そんな甘い言葉を囁かれるたびに、今までに感じたことのない、胸の奥がキュッと締め付けられるような、それでいて温かい何かが、どんどんと自分の中で強くなっていくのを感じていた。


「……」


メーラは、もう何も言えず、ただ恥ずかしそうに俯いて小さく頷いた。

すると、アドリアンはそんなメーラの様子を見て、またいつもの悪戯っぽい笑みを浮かべて言った。


「だってさ、そうでも思ってなきゃ、幼い頃のお姫様のおむつなんて替えられないだろ?幼気なプリンセスのおむつを甲斐甲斐しく替えるのは、そのお姫様に忠誠を誓った筆頭騎士だけの大事な仕事なんだからね」

「……へ?」


一瞬、何を言われたのか分からなかったメーラ。

アドリアンがにこやかに語りだした、赤ん坊の頃の恥ずかしいおむつ替えの思い出話の数々に、すぐに先ほどまでの甘い雰囲気はどこへやら。


「さ、さいってい!!アドなんて知らないっ!!いっつもそうやって、すぐに人をからかうんだから!」


メーラは真っ赤な顔でアドリアンの胸をぽかぽかと叩き、ぷいとそっぽを向いて完全に拗ねてしまった。

そんなメーラの様子を、アドリアンは心底楽しそうに、そしてどこまでも温かな眼差しを浮かべながら見つめている。

彼の足取りは変わらず優雅に、二人を乗せて、セルペントスの隠れ里へと続く危険な沼地の上を滑るように進んでいくのだった。


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