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第百三十二話

『枯れずの湖丘』で繰り広げられた三つの大部族による激戦は、誰もが予想しなかった第四勢力——アドリアン率いる同盟の出現によって、その均衡を……いや、戦場の常識そのものを根底から覆される形で幕を閉じた。

ヴォルガルド、セルペントス、アクィラントの勇猛なる戦士たちは、英雄の圧倒的な力と、それに呼応して現れた怒涛の混成部隊の前に、抵抗らしい抵抗もできぬまま蹂躙され、その多くが捕虜となり、今は太い縄で一括りに縛られている。


「ガルルルッ!おのれ、卑劣な手段を使いおって!正々堂々戦えんのか、貴様らは!」


気性の荒い狼の獣人が、縛られたまま鋭い牙を剥き、低く唸る。


「……なんなのだ、お前たちは一体……。どこから現れた……」


知略に長けたはずの蛇の獣人は、未だ状況が飲み込めないといった表情で、虚ろに呟く。


「ふん……我らを捕らえたとて、無駄なことだ。天空の覇者たるゼファー大族長が、必ずやお前たちのような烏合の衆など、その翼で薙ぎ払ってくれるわ!」


空の民である鷲の獣人は、縄目を解こうと足掻きながらも、強気の言葉を吐き捨てた。

狼、蛇、鷲——三者三様の反応を見せる捕虜たち。


それを見下ろす見張り役は、なんとも皮肉な組み合わせだった。

漆黒の尻尾を持つパンテラの戦士、屈強な角を持つリノケロスの戦士、そして……つい先日まで敵同士だったはずの、赤褐色の尻尾を持つキツネの戦士。

彼は元ルミナヴォレンの兵士である。


「……もう、この手の捨て台詞も見飽きたな」


パンテラの戦士が、やれやれといった様子で肩を竦める。


「ああ、捕虜になった連中は、決まってこう言うもんだ。自分たちの族長が最強で、すぐに助けに来てくれる、とかな」


リノケロスの戦士も、退屈そうにアクィラントの兵士を一瞥して同意した。


そして、その二人の言葉に大きく頷くように、無駄に立派な体格をしたキツネ——元ルミナヴォレンの戦士が、したり顔で口を開いた。


「だよなぁ。まったく、見苦しいったらありゃしないよなぁ。自分たちが負けたって現実を、いつまでも受け入れられないんだから。困ったもんだぜ、本当に」


そんなキツネの言葉を聞いて、パンテラの戦士とリノケロスの戦士は、この日一番と言ってもいいほど呆れ果てた視線を交わした。


(お前たちルミナヴォレンほど、見苦しい言い訳と責任転嫁を繰り返していた部族を、我々は今のところ見たことがないのだが……)


そう喉まで出かかった言葉を、しかし二人はぐっと飲み込んだ。

ここで何か言おうものなら、また言い訳と泣き落としの嵐が吹き荒れ、面倒くさいことになるのは火を見るより明らかだからだ。


「ところで、族長たちはどうした? アドリアンどのも含めて、姿が見えんが」


気を取り直したように、リノケロスの戦士が尋ねる。


「ああ、なんでも幕舎で、今後の戦略について話し合っているそうだ。あの三部族をどうするか、とかな」


パンテラの戦士が答えた。その口元には、わずかな興奮の色が浮かんでいる。


「これから、か……。いやぁ、楽しみだぜ、この大草原がこれからどうなっちまうのか……!」


リノケロスの戦士もまた、瞳を獰猛に輝かせた。

彼らの胸中には、六大部族という、大草原において絶対的とも言える格上の存在に牙を剥いたことへの後悔など、微塵も存在しなかった。

むしろ、この大草原の歴史を塗り替えるかもしれない「下剋上」の真っ只中に身を置いているという事実が、戦士としての滾る魂を激しく揺り動かしているのだ。

しかし、元ルミナヴォレンのキツネ戦士は違うようだ。


「ろ、六大部族に喧嘩売って、本当に大丈夫なんだよな……?いや、もちろん、あの人間がいれば、全部やっつけてくれるとは思うんだけど……なぁ、そうなんだよな……?」


赤褐色のキツネの尻尾を不安げに震わせ、その立派な体格には全く似つかわしくない、怯えた上擦った声を出す。

その、どこまでも他力本願なキツネ戦士の姿を見て、パンテラとリノケロスの両名は、この日何度目になるか分からない深いため息を、揃って吐くのであった。




♢   ♢   ♢




一方、その頃。


『みんな仲良し!平和大好き!』同盟の拠点、その中心に設えられたひときわ大きな幕舎の中では、今後の戦略を巡って熱のこもった議論が交わされていた。

アドリアン、メーラ、そしてモル少年。さらにはパンテラ族長ゼゼアラ、リノケロス族長イルデラ、エルフの姉妹レフィーラ。そして、新たに同盟に加わったいくつかの部族の長たちが、大きな円卓を囲んでいる。

幕舎内は、様々な獣人たちの種族特有の匂いと、戦いの後の興奮、そしてこれからの戦いへの緊張感が入り混じり、独特の熱気を帯びていた。


「……以上が、斥候からの報告と、捕虜たちの証言を統合した、東部三大部族——ヴォルガルド、セルペントス、アクィラントの現状です」


モル少年が、その小さな体には不釣り合いなほど冷静沈着な口調で報告を終える。

彼の指し示す地図には、東部地域の勢力図と、三つの大部族の推定兵力などが詳細に記されていた。


「ふむ……いずれも一筋縄ではいかぬ相手だな。特にヴォルガルドの組織力と、アクィラントの制空権は厄介だ」


ゼゼアラが腕を組み、低い声で唸る。


「へっ、数が多いだけじゃねぇか! 真正面からぶつかりゃ、あたしたちが負けるわけねぇだろう!」


イルデラは鼻息荒く反論するが、その表情にはいつものような自信だけではなく、わずかな警戒の色も浮かんでいる。六大部族の名は、彼女にとっても無視できない重みを持っていた。


「ですが、三部族を同時に相手にするのは、いくら今の我々の勢いがあっても危険です。一つずつ確実に……あるいは、どこか二部族が争っているところに介入し、漁夫の利を得るというのはどうでしょう?」


新たに同盟に加わった、ネコの獣人の族長が慎重な意見を述べる。彼の言葉に、いくつかの小部族の長たちが頷いた。


「いや、それでは時間がかかりすぎる。我々の電撃的な勝利と、『英雄どの』の噂が広まれば、他の部族がどう動くか分からん。奴らが本格的に手を組む前に、一気に叩くべきだ!」


別の熊の獣人の族長が、力強く反論する。

各部族の長たちが、それぞれの立場から意見を述べ、議論は次第に白熱していく。

危険性、戦力を集中させるべきか分散させるべきか、あるいは外交による揺さぶりは可能か——。


そんな喧々囂々の議論の片隅で、縄で縛られたまま放置されている、でっぷりと太ったキツネ——元ルミナヴォレン族長フェンブレが、おずおずと声を上げた。


「あ、あのぅ……そろそろこの縄、解いてくれると非常に嬉しいんだけどなぁ……。別に逃げたりしないし、むしろ積極的に協力する所存なんだけど……」


しかし、その弱々しい懇願は、白熱する議論の熱気にかき消され、誰一人として彼に注意を払う者はいなかった。

フェンブレは、しょんぼりとその太い尻尾をへにゃりと垂れさせるのだった。


そうして、喧々囂々の議論が平行線を辿り、幕舎内の空気が煮詰まってきた、まさにその時だった。


「みんな、ちょっといいかな?」


それまで黙って皆の意見を聞いていたアドリアンが、すっと手を上げた。

その瞬間、あれほど騒がしかった幕舎内が水を打ったように静まり返る。もはや、この場にアドリアンの人智を超えた力を知らない者はいない。

人間の英雄、その一挙手一投足に、皆の視線が固唾を飲んで集中した。


そして、アドリアンは穏やかな、しかし有無を言わせぬ口調で言った。


「色々意見はあるみたいだけど、ここはシンプルに、ヴォルガルドとセルペントス、この二つを同時に、さくっと叩いて、一気に服従させちゃおうじゃないか。その方が俺たちらしいだろ?」


そのあまりにも大胆不敵な提案に、幕舎内は再びどよめいた。


「ヴォルガルドとセルペントスを同時に……?いや、先の戦場では三部族を同時に相手取ったが、あれは敵の戦力のほんの一部……」

「それに、何故その二つなのです?天空を制するアクィラントこそ、最も警戒すべき相手だと思うのですが」


驚きの声、疑問の声、そして無謀を諫める声が、次々とアドリアンに浴びせられる。


しかし、アドリアンはそんな周囲の喧騒を、ただ楽しむかのようににこやかな笑みを浮かべているだけで、それらの疑問には一切答えようとしない。

そして、おもむろに話を続けた。


「それでね、セルペントスの方なんだけど……あそこは、ほら、湿地帯で道も悪いみたいだし、大軍で移動するのも大変そうじゃないか。だから、俺とメーラの二人で、服従させてくるよ。うん、魔族のお姫さまもたまには気ままに散歩でもしたい気分みたいだし」


アドリアンのその言葉が放たれた瞬間——幕舎内は、先ほどとは比較にならない、絶対的な静寂に包まれた。

時間が止まったかのように、誰もがアドリアンを凝視したまま、身動き一つしない。風の音すら聞こえないほどの静寂が、その場を支配していた。

なお、アドリアンを驚愕の色で見る者の中にメーラも含まれている。


「じょ、冗談……だよな、アドリアン、メーラ姫?セルペントスに二人っきりで行くなど、いくらお前たちでも……」

「え、いや私は何も言ってな……」


ゼゼアラが、ようやく絞り出すように言葉を紡ごうとし、何も知らされていないメーラが首をぶんぶんと振った、その時だった。

アドリアンは、まるでその言葉を予期していたかのように、誰にも口を挟ませない穏やかな、しかし有無を言わせぬ口調で再び言葉を紡いだ。


「それでね、残るヴォルガルドなんだけど……あそこには、俺以外の全戦力を投入する。総大将はもちろんモル少年で……軍を率いる『将軍』は、キミに任せようと思うんだ。どうだい?」


アドリアンは、そう言って楽しそうに、円卓の一点を指さした。

幕舎内にいる全員の視線が、固唾を飲んでアドリアンの指の先を追う。

その指が指し示した先には……。


「?」


美しい金色の髪を指先でくるくると弄び、どこか退屈そうに、会議の行方を見守っていたエルフの少女——レフィーラがいた。

彼女は、自分がアドリアンに指名されたこと、そして幕舎中の有力者たちの視線が一斉に自分に集まっていることにようやく気づくと、不思議そうに小首を傾げて、ぱちくりと大きな瞳を瞬かせた。


「え?……わたしぃ?」


その間の抜けた、しかし鈴の音のように可憐な声が、静まり返った幕舎にぽつんと響き渡った。


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