大草原東部、ヴォルガルド族の広大な陣営は、戦の緊張感と獣人たちの荒々しい活気に満ちていた。
鋭い牙を剥き、屈強な肉体を誇る狼の獣人たちが、武具の手入れをしたり、持ち場へと急いだりと、絶えず行き交っている。
「『枯れずの湖丘』の状況はどうか?上手く制圧できていればよいが……」
その陣営の中を、数人の供だけを連れて歩く、一際大きな影があった。
片方の目を眼帯で覆い、もう片方の残された瞳は、獲物を狙う狼のように鋭く。歴戦の勇士であることを示す無数の傷跡が、その精悍な顔つきに凄みを加えていた。
──隻眼のグレイファング。
勇猛果敢にして、大草原でも屈指の勢力を誇る狼の獣人族ヴォルガルドを統べる大族長。
その名は、大草原に生きる獣人であれば知らぬ者はいない。個人の武勇においても、戦略家としても、彼は大草原全土で五指に入ると言われる実力者である。
「はっ。我が戦士の中でも、隠密に長けた者たちを送りました。必ずや『枯れずの湖丘』を族長様に献上するくれることでしう」
供の戦士はよどみなく答える。
グレイファングは小さく頷き、残された右目で鋭く前方を睨んだ。その足取りは力強く、揺るぎない自信に満ち溢れている。
陣営の狼たちは、族長の姿を認めると、皆一様に畏敬の念を込めて道を譲り、頭を垂れた。
その時だった。
陣営の遠方から、土煙が濛々と立ち昇り、一騎の狼戦士が凄まじい速度でこちらへ向かってくるのが見えた。
その狼狽ぶりは尋常ではない。四肢を駆使して大地を蹴り、息も絶え絶えといった様子でグレイファングの眼前まで辿り着くと、そのまま前のめりに跪いた。
「大族長さま!で、伝令!伝令にございます!」
そのただならぬ様子に、グレイファングの供をしていた戦士が鋭く問い質す。
「何事か!騒々しいぞ!」
しかし、伝令の戦士はその言葉を遮るかのように、それを上回る大声で、絞り出すように叫んだ。
「『枯れずの湖丘』へ向かわせておりました我が部隊が……ぜ、全滅……!全滅し、敵の捕虜となりました……っ!」
その絶叫が響き渡った瞬間、周囲の喧騒が嘘のように消え失せ、絶対的な静寂がグレイファングたちを包み込んだ。
風の音すら聞こえないような静寂の中、グレイファングの顔がみるみるうちに怒りに染まっていく。
「我がヴォルガルドの部隊が、全滅……だと?なにを、なにを言っている!」
グレイファングの怒声が轟く。しかし、伝令の戦士は顔を上げることなく、ただ震えるばかりだった。
信頼する供の戦士が、厳しい表情で伝令に詰め寄る。
「おい、貴様、正気か!確かな情報なのか!?」
「は、はい……。第二陣として向かった部隊からの報告にございます……間違い、ございません……」
その言葉に、グレイファングの全身から凄まじい威圧感が放たれる。
怒りと、そして信じられないという屈辱に、その巨躯がわなわなと震えていた。
「……我らの戦士を退けたのは、セルペントスの卑劣な罠か?それとも、アクィラントの空からの奇襲か……。いや、どちらにせよ、全滅など……」
供の戦士が苦々しげに呟く。
その言葉に、伝令の戦士はさらに声を震わせ、信じられないという表情で顔を上げた。
「それが……敵は……敵は、人間……。たった一人の人間と、これまで見たこともない……雑多な獣人たちの連合軍であった、と……」
「……人間、だと?」
グレイファングの呟きが、陣営に響き渡った。
♢ ♢ ♢
大草原東部の湿地帯、その奥深く。巧妙にカモフラージュされた木々や蔓草の向こうに、セルペントス族の隠れ里は存在した。
湿った土と草いきれの匂いが立ち込め、時折、蛇の鱗が擦れるような微かな音が聞こえてくる。まさに、蛇の獣人たちが潜むに相応しい、陰鬱で神秘的な雰囲気を醸し出していた。
しかし、そんな隠れ里の中にあって、一際異彩を放つ豪奢な家屋があった。
周囲の家々が自然との調和を重んじているのに対し、その家屋だけは磨き上げられた黒檀の柱が使われ、壁には金銀の細工が施されている。
隠れ里の家というにはあまりにも目立ち、そして贅沢なその館……。
「ふふふ……」
その館の奥、陽光が差し込む天窓の下で、一人の女性が長椅子にゆったりと身を預けていた。
上半身は、艶やかな黒髪と切れ長の瞳を持つ、妖艶な美女の姿。しかし、その腰から下は、虹色に輝く美しい鱗に覆われた、しなやかで長大な蛇の尾へと変じている。
尾の先は、女王の威厳を示すかのように、床に静かな弧を描いていた。
「この陽光、わらわが身にまとう輝きを、一層引き立てるようじゃの。隠れ里といえど、真の威光というものは、こうして自ずと現れるものよ。まぁ、それもまた、一興……」
その長大な尾を静かに床に横たえ、射し込む光に目を細めるでもなく、ただ女王としての威厳をあたりに漂わせるこの女性こそ、大草原にその名を轟かせるセルペントス族の族長……。
──毒舌のナーシャである。
その名に違わず、女王ナーシャの言葉は、ある時は臣下を鼓舞する甘露の如く、またある時は敵の心を打ち砕く鋭利な刃と化す。
比類なき美貌と威厳に気圧された者は、知らぬ間に彼女の深謀遠慮の前にひれ伏すであろう。
美しさのみならず、老獪とも言える知略、蛇の獣人ならではの俊敏さ、そして万物を侵す猛毒を操るその実力は、彼女を真に恐るべき『蛇の女王』たらしめているのだ。
「長らく玉座を温めておったが、そろそろ下々の者らに『女王』の威光を示す時が来たようじゃの。あの思慮の浅い狼ども、そして空を舞うことしか能のない鳥ども……まとめて始末するには、いかなる策が興を添えるか」
ナーシャはやおら長椅子から気品ある上半身を起こすと、傍らに置かれた羊皮紙の地図を広げ、その上に自らの虹色の尾を厳かに滑らせた。
その切れ長の冷徹な瞳は、戦場の地勢と敵の配置を睥睨し、次なる一手を見据える。
「ふふ……狼どもは、ただ数に任せて押し寄せるのみ。鷲どもも同じよ。わらわの知謀の前では、いかなる者も赤子の手を捻るに等しい。このナーシャの威光、そして深遠なる策略を前にしては、如何なる屈強の戦士も戦意を喪失する。……戦とは、かくも容易く、そして興の深いものよのぅ」
ナーシャは練り上げた策に静かに満足の息を漏らし、ふと自らの尾に輝く虹色の鱗に目をやった。
それはセルペントスの女王たる血統と、侵し難き威光の証。その輝きを改めて確かめた、まさにその折であった。
「?」
館の入り口から、ズザザザッ!と何かが滑り込むような音が響いた。
見れば、一人の若いセルペントスの斥候が、文字通り這う這うの体でナーシャの御前へと進み出ていた。その鱗は所々剥がれ落ち、衣服は破れ、息も絶え絶えといった様子だ。
「ぞ、族長……も、申し訳…ございません……」
その見るも無残な姿に、ナーシャは柳眉をわずかにひそめたが、その声は氷のように冷静であった。
「何事じゃ!その無様な姿、すぐに仔細を報告いたせ!」
「ナーシャ様……そ、それが……」
女王の厳しくも変わらぬ威厳に、若い斥候は一層恐縮し、必死に言葉を紡ごうとする。
「『枯れずの湖丘』が……お、落ちました……。正体不明の……に、人間と……見たこともない、大軍勢に……」
その言葉が館の空気を凍らせた。ナーシャの常に冷静沈着を保っていた怜悧な面差しから、初めて血の気が引いたかのように見え、その切れ長の瞳が驚愕に見開かれる。
永遠にも思えるような、重い静寂が館を支配する。
そして……。
「──え?マジで?」
先ほどまでの氷のような威厳をたたえた古風な声とは似ても似つかぬ、どこか間の抜けた軽い声が、ナーシャの唇から呆然とこぼれ落ちた。
♢ ♢ ♢
大草原東部に聳え立つ、天を摩するかの如き巨大な断崖絶壁。その頂に、鷲の巣のように築かれた堅牢な砦こそ、アクィラント族の本拠地、天空の砦である。
切り立った崖は天然の城壁となり、吹き上げる強風は侵入者を拒む。ここからならば、大草原の支配領域を一望の下に見渡すことができた。
そして、その天空の砦よりもさらに遥か上空——。
一点の雲すらない紺碧の空に、一人の巨大な鷲の獣人が、翼を羽ばたかせ、佇んでいた。
壮年の域に達したその鷲の獣人は、歴戦の勇士であることを示すように、その翼や体にいくつかの古い傷跡を刻んでいた。
——彼こそが、誇り高き鷲の獣人族アクィラントを率いる大族長、天空の覇者ゼファー。
彼は常に大局を見据え、感情に流されることなく、最も合理的な判断を下そうと努める、冷静沈着な指導者である。
しかし、その彼の瞳の奥には、深い憂いの色が浮かんでいた。
「……この騒乱は、いつまで続くのだ。これでは、誇り高き大草原の風も、やがては死んでしまう……」
ゼファーの呟きは、誰に聞かれることもなく、ただ大空を渡る風と共に静かに流れていった。
そうしているとしたから一羽の若い鷲の戦士が、翼を必死に羽ばたかせながら急上昇してくるのが見えた。
その飛行は乱れ、羽毛は所々抜け落ち、明らかに尋常ではない様子だった。
「ゼファー様!ご報告……ご報告、申し上げます!」
ゼファーの目前まで辿り着いた偵察兵は、肩で大きく息をしながら、翼を震わせ、言葉を絞り出した。
その瞳には、信じられないものを見たかのような恐怖と混乱の色が浮かんでいる。
「落ち着け。何があった。枯れずの湖丘の戦況に変化でもあったか?」
ゼファーは冷静に問いかける。
「それが……それが……枯れずの湖丘の我が軍、及びヴォルガルド、セルペントスの軍勢までもが……た、ただ一人の人間と、これまで見たこともない雑多な獣人どもの混成軍によって……蹂躙され、壊滅状態にございます!もはや、戦線は崩壊いたしました!」
偵察兵の報告は、にわかには信じがたい内容だった。六大部族の三つが、正体不明の勢力によって打ち破られたというのだ。
ゼファーはその衝撃的な報告を、表情一つ変えることなく黙って聞いていた。
「……」
しばしの静寂の後、ゼファーはカッと目を見開き、まるで何かを悟ったかのように、静かに、しかし力強く呟いた。
「──風が、吹いたか。清らかな、風が……」
その言葉と共に、ゼファーは巨大な翼を、大空を覆い尽くさんばかりに大きく、そしてゆっくりと広げた。
その瞳の奥には、新たな時代の到来を予感させるかのような、深遠な光が宿っていた。