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第百三十話


月光の下で銀色の毛皮を輝かせ、影のように戦場を駆ける狼の獣人——ヴォルガルド。

大地を滑るように進み、毒牙と狡猾な策略で敵を翻弄する蛇の獣人——セルペントス。

大空を支配し、鋭い爪と誇り高き戦士の魂で敵を圧倒する鷲の獣人——アクィラント。


かつて、獅子の獣人リガルオンが大草原に絶対的な秩序を敷いていた時代……その威光を支え、側近として名を連ねた六つの部族。

皮肉なことに、その栄光ある六大部族の内の実に三つまでもが、今やこの東の地で互いに滅亡を賭けた死闘を繰り広げているのだ——。




♢   ♢   ♢




大草原の東部地域は、終わりなき戦火に焦土と化した──。

かつては豊かな緑が地平線まで続いていた大地も、今は三つの大部族が血で血を洗う泥沼の戦場となり果て、無数の骸と折れた牙、そして乾いた血の匂いだけが支配する不毛の地へと変わり果てている。


どの部族も決定的な一打を欠き、戦線は奇妙な均衡を保ったまま膠着状態に陥って久しい。

長すぎる戦いは兵士たちの心身を容赦なく蝕み、部族の蓄えも底が見え始めていた。

焦りと不信感だけが、野営地の焚火の煙のように、各陣営にじわじわと蔓延していく──。


「また蛇どもの毒矢か!クソッたれ!一体いつまでこんな消耗戦が続くんだ!?」


ヴォルガルドの屈強な狼戦士たちは、持ち前の組織力と粘り強さで広大な戦線を維持していた。

しかし、蛇獣人たちが湿地帯や森に仕掛ける巧妙な罠と毒は彼らの進軍を阻み、鷲獣人たちが空から仕掛ける神出鬼没の奇襲は、補給線を脅かし後方を混乱させる。

前線では、今日の配給の乏しさに不満の声が漏れる。


「今日の配給、これだけかよ……」

「このままじゃ、戦う前に飢え死にするぜ」


若い狼の戦士が、配給の食料を見て、吐き捨てるように言った。

その時、見張りの鋭い声が響く。


「上空に鷲の影だ!飯を食う暇もねぇのかよ!」


一方、蛇の獣人たちは、湿地帯や鬱蒼とした森といった地の利を最大限に活かし、ヴォルガルドの猛攻を巧みなゲリラ戦術で凌いでいた。

しかし、アクィラントの鋭い目が空から彼らの潜伏場所を暴き、ヴォルガルドの圧倒的な物量が無限に攻め寄せてくる。

得意の奇襲も、敵の警戒心が高まるにつれて効果を薄れさせ、兵力の少なさを補うための策略も、徐々に限界が見え始めていた。


「鷲どもめ、弓矢も届かない空で覗き見しやがって……!」

「狼の奴ら、また数に物を言わせてきやがった!キリがないぞ……」


毒蛇の牙を持つ、下半身が蛇と化した異形の戦士たちが、息を殺しながら悪態をつく。


そして、大空を支配するアクィラントの鷲戦士たちは、制空権を握り、ヴォルガルドとセルペントスの両軍に散発的な攻撃を仕掛け、戦況を有利に進めているように見えた。

だが、地上戦力に乏しい彼らは、一時的に敵陣を混乱させても、占領地を維持することができない。ヴォルガルドの執拗な進軍と、セルペントスのゲリラ的な反撃に、徐々にその翼の力は削がれていく。


「また蛇どもが森深くに逃げ込んだぞ!深追いはするなよ、引きずり込まれる!」

「狼の奴らの進軍が止まらん!このままでは押し切られるぞ!」


地上部隊からの悲鳴にも似た要請が、風に乗って彼らの耳に届く。


三つの巨獣が互いを睨み合い、がんじがらめになった大草原の東部は、出口の見えない巨大な闘技場と化し、獣人たちはその命と気力をすり減らし続けていた。



──だが、長きに渡る睨み合いは、些細な切っ掛けで崩壊の時を迎えた。



大草原東部に連なる丘陵地帯の中でも、ひときわ戦略的価値の高いとされる「枯れずの湖丘」。その名の通り、清冽な水を湛える数少ない水場だ。

長引く戦いで水と兵糧の確保に苦慮していた各部族にとって、干天の慈雨にも等しいその重要拠点……。


この丘陵を巡っては、これまでも小競り合いが繰り返されてきたが、三部族いずれも決定的な支配には至っていなかった。


しかし、とある日、状況は一変する。

夜明けと共に、ヴォルガルドの狼たちが動いた。長引く兵糧不足に焦りを覚えた彼らは、この枯れずの湖丘を電撃的に占拠し、戦況の打開を図ろうとしたのだ。


「音を立てるな……鷲と蛇に気付かれるぞ……」


統率された狼の軍勢が、夜陰に紛れて丘陵の麓へと迫る。

しかし、その動きを、地の利を知り尽くしたセルペントスが見逃すはずもなかった。ヴォルガルドにそのような戦略的要衝を渡すわけにはいかない。

蛇の獣人たちは、地の底を這うように密林を抜け、ヴォルガルド軍が泉に到達するよりも早く丘陵地帯に布陣し、待ち伏せの態勢を整えた。


そして、大空の支配者たるアクィラントもまた、この二つの大部族の不穏な動きを上空からの偵察で察知していた。二大勢力が一つの場所に集結しつつある──それは、大きな衝突の予兆。漁夫の利を得る好機か、あるいは自軍が挟撃される危機か。鷲の戦士たちは、状況を見極めるべく、精鋭部隊を率いて急行した。


こうして、意図せずして三つの大部族の主力部隊が、その「涸れずの泉」を擁する丘陵地帯で、ほぼ時を同じくして睨み合う形となった。


「くそっ……気付かれてやがったか!」


ヴォルガルドの戦士たちは、泉を目前にしてセルペントスの伏兵に気づき、怒りの咆哮を上げる。


「この地を渡せば、最早ヴォルガルドの物量に太刀打ちできんぞ!死ぬ気で死守せよ!」


セルペントスの戦士たちは、木々や岩陰から毒を塗った矢を放ち、牽制する。


「空から急襲を仕掛ける!だが、焦るな!手負いをまず殺せ!」


そして、その両軍の頭上から、アクィラントの戦士たちが鋭い爪をきらめかせて急降下してきた。


誰が最初に本格的な攻撃を仕掛けたのか、もはや定かではない。

一人のヴォルガルドの若武者が、渇きと怒りに駆られてセルペントスの潜む茂みに突撃したのかもしれない。あるいは、セルペントスの斥候が放った威嚇の矢が、偶発的にアクィラントの戦士に当たったのかもしれない。


きっかけなど、何でもよかった。

張り詰めた糸は断ち切られ、三つの獣の群れは、互いに憎悪と生存本能を剥き出しにして、激しくぶつかり合った。


そうして、剣戟の音、怒号、そして断末魔の悲鳴が入り乱れる大混戦の最中──突如として、戦場の片隅で、これまでのどの部族とも異なる、圧倒的な速度と破壊力を持つ「何か」が出現した。


「──な、なんだ!?」


その「何か」の正体は、黒髪を風になびかせた一人の人間の青年だった。

彼は三部族が死闘を繰り広げるまさにその中心に、嵐のように割って入り、敵も味方もないかのように、ただ進路を阻む獣人たちを次々と薙ぎ倒していく。


「やぁ、みんな!随分と楽しそうに踊ってらっしゃるじゃないか!俺もその輪に混ぜてもらっていいかな!?」


軽やかな、しかしどこか戦場の空気を読まない皮肉めいた声と共に、青年はヴォルガルドの屈強な戦士たちが密集する地点へと突っ込んだ。

狼の獣人たちが誇る鉄壁の陣形も、彼の前ではまるで紙細工。

一瞬の交錯。次の瞬間には、数人の狼戦士たちが、まるで巨大な何かに弾き飛ばされたかのように宙を舞っていた。


「な、なんだ!?人間……!?」

「悪いけど、君たちの踊りは少しばかり荒っぽすぎるみたいだ。もう少しステップを軽くしないとね」


青年は肩をすくめ、さらに奥へと進む。

次に彼の進路上に現れたのは、湿地の影から奇襲を仕掛けようとしていたセルペントスの蛇たちだった。

彼らが毒の牙を剥くよりも速く、青年は彼らの懐に飛び込む。


「人間……!?そ、総員構えろ!隠れて、奇襲を……ぎゃあっ!?」


蛇たちが得意とする隠密行動も、青年の前では意味をなさない。彼らの気配を完全に読み切り、先回りするかのように次々と打ち倒していく。


「蛇さんたち、どうして隠れてるんだい?せっかく晴れてるんだからさ、気持ちよく日光浴しないと!」


上空からは、アクィラントの鷲戦士たちが急降下攻撃を仕掛けてくる。鋭い爪が青年の頭上へと迫るが、青年はそれを紙一重でひらりとかわした。

そして信じられないことに、その勢いのまま鷲の翼を蹴り上げ、逆に叩き落とす。さらに青年は、空中で体勢を立て直すと、空を蹴って跳躍し、他の鷲戦士たちの群れへと突っ込んでいった。空を飛ぶ鷲たちを、空中で蹴り飛ばしていくという、常識では考えられない光景が繰り広げられる。


「なんだ、この人間は……!?と、飛んでる……!?」

「空の踊りなら、俺も少しは心得があるんだよな。だから、もっと高く、もっと華麗に舞おう、空の王者さんたち!」


ヴォルガルドの力自慢も、セルペントスの狡猾さも、アクィラントの空の利も、彼の前では何の意味もなさない。


「──はぁーっ!!」


青年は、三部族の戦士たちが織りなす死線の間を縫うように駆け抜け、ことごとくその攻撃を粉砕しながら、ついに三軍が睨み合う戦場のまさに中心地点へと到達した。

彼の周囲には、先ほどまでの勢いを完全に削がれた三部族の兵士たちが、恐怖と畏怖の念に染まった目で彼を遠巻きにしている。

あれほど激しかった剣戟の音も、怒号も、悲鳴も嘘のように消え失せ、戦場には奇妙な、張り詰めた静寂が支配していた。


アドリアンは、その静寂の中で不敵な笑みを深々と浮かべると、魔法で増幅した、その声を戦場全体へと響き渡らせた。


「やぁやぁ!大草原で元気にチャンバラごっこに明け暮れる獣人さんたち!聞こえているかな?俺こそは、この荒れ果てた大地に真の平和と、ついでに愛と秩序をもたらすためにやって来た、大英雄アドリアン!そして、俺が誇りを持って掲げる、それはもう素晴らしい旗の名は、『みんな仲良し!平和大好き!』同盟だ!よろしく頼むよ!」


そのふざけた同盟名と、場違いなほど陽気な声が、緊張感に満ちた戦場にこだまする。

そして、アドリアンのその宣言を待っていたかのように。

それまで静まり返っていた地平線の彼方から、突如として大地を揺るがすような、凄まじい数の獣人たちの鬨の声が轟き渡った。


「「「ウォォォォォォォーーーーーッ!!!」」」


地平線を埋め尽くさんばかりの勢いで、新たな軍勢が姿を現す。

先頭には、漆黒の毛皮を風になびかせるパンテラの戦士団、その隣には大地を揺るがすリノケロスの重装歩兵、そしてその後方には、かつてルミナヴォレンに属していたキツネの獣人たちや、その他多種多様な部族の戦士たちが、怒涛の如く押し寄せてくる。


「へへっ、いるじゃねぇか……!イキのいい奴らが、わんさかとな!」


イルデラが、肩に担いだ巨大な戦斧を嬉しそうに振り回しながら叫ぶ。

その瞳は、眼下に広がる三部族の軍勢を捉え、戦いの悦びに爛々と輝いていた。


「イルデラ、油断はするなよ。相手は六大部族の、それも三つだ。一筋縄ではいかん」


ゼゼアラは冷静に状況を分析しながらも、その黒豹の如き瞳の奥には、新たな戦いへの静かな闘志が燃えている。


「わぁ!狼さんと、鷲さんと……あれは蛇の獣人さん?初めて見た!……でも、とりあえず悪いことして暴れてる獣人さんは……みんなまとめて、ぶっ飛ばしちゃえばいいのよね!」


エルフの少女レフィーラも、その可憐な外見からは想像もつかないような物騒なことを言いながら、嬉々として弓に矢をつがえている。

イルデラ、ゼゼアラ、そしてレフィーラ。三者三様の個性を放つ指揮官たちを先頭に、『みんな仲良し!平和大好き!』同盟の精鋭部隊は、凄まじい気迫で、膠着していた三部族の戦場へと雪崩れ込んできた。

第四の勢力の、しかもこれほどまでに大規模な軍勢の出現は、三部族の兵士たちにとって、まさに青天の霹靂──。

口を開けたまま、武器を取り落とし、ただ唖然として、自分たちの戦場が新たな侵略者によって蹂躙されようとしている光景を、悪夢でも見ているかのように眺めている。


そんな彼らの頭上で、アドリアンは悪戯が成功した子供のような、しかしどこか冷徹な笑みを深々と浮かべ、高らかに宣言した。


「俺たち『みんな仲良し!平和大好き!』同盟は、キミたち三部族全てに、今、高らかに宣戦を布告する!安心しなよ、キミたちの退屈で血生臭い三つ巴の争いは、今日この瞬間をもって、めでたくお終いだ!良かったじゃないか、兵隊さんたち!今日の夜からは、敵の奇襲に怯えることもなく、お腹いっぱいご飯を食べた後、あったかい寝床でぐっすり眠れるんだからね!」


その声は、戦場を支配する喧騒を突き抜け、大草原の隅々まで響き渡った。


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