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第百二十九話

リマ湖の周囲は、かつての閑散とした面影はなく、新たな生命の息吹で満ち溢れていた。

透き通った湖畔には、様々な種族の獣人たちが集い、それぞれの知恵と技術を持ち寄って新たな住居を次々と築き上げている。

パンテラの戦士が器用に木材を組み上げれば、リノケロスの子供たちが泥をこねて壁を作り、ウサギの獣人たちが軽やかに屋根を葺いていく。

異なる部族の言葉や文化が混ざり合い、そこには以前の争いや不信感など微塵も感じられない、活気に満ちた交流の輪が広がっていた。


そんな活気あふれる集落の中を、一人のエルフの少女が慌ただしく駆け回っていた。


「えーっと……この木材は、あっちの新しいお家の骨組みだったよね……。こっちは……井戸の補強だったかな?」


エルフの姉妹の物静かな方——ケルナである。

陽光を浴びて金色に輝く髪を揺らし、その華奢で小柄な体躯にはおよそ不釣り合いな、数人がかりで運ぶような巨大な丸太を軽々と肩に担いでいる。

その摩訶不思議としか言いようのない光景に、このリマ湖の集落に最近やってきたばかりの獣人たちは、皆一様に目を丸くし、口をあんぐりと開けて唖然とする。

しかし、アドリアンたちと共に初期からこの集落の建設に関わってきた古参の者たちは、もはや見慣れた光景とばかりに、特に気にする様子もなく自分たちの作業を続けていた。


「ケルナ様! 食料地の準備が整いました!」


巨大な丸太を運び終え、一息つこうとしていたケルナに、一人の屈強なクマの獣人が声をかけてきた。その顔には、ケルナに対する尊敬と親しみが浮かんでいる。


「あ……はい。ありがとうございます。すぐ、行きます」


人見知りの極致とも言えるケルナだが、このリマ湖の集落での共同生活を通じて、少しずつではあるが獣人たちにも慣れてきたようだ。

以前ならば声も出せずに固まってしまっていただろうが、今ではおずおずとしながらも、きちんと返事をすることができるようになっていた。

ケルナは、声をかけてきたクマの獣人や、周囲で作業をしていた他の獣人たちと一緒に、新しく開墾された『食料地』へと向かう。

その道中、どこからともなく現れた獣人の子供たちが、きゃっきゃとはしゃぎながらケルナの周りに集まってきた。

ウサギの耳を持つ子供がケルナの服の裾を引っ張ったり、リスの尻尾を持つ子供がケルナの肩によじ登ろうとしたりする。


「ケルナ様、遊ぼー!」

「ケルナ様、お花あげる!」


ケルナは、大草原では珍しいエルフという種族であることも理由の一つだが、それ以上に、彼女のひたむきな純真さと、どこか放っておけない奇妙な奥手さが、種族を問わず獣人たちの心を掴んでいたのだ。

特に子供たちにとっては、優しくて少し変わったお姉さんのような存在として、すっかり懐かれていた。


「ここなのですが……」


しかし、案内されたその場所は、「食料地」と呼ぶにはあまりにも殺風景な場所だった。

見渡す限り、ただ平坦な土地が広がっているだけ。確かに獣人たちが懸命に整地したのだろう、地面は綺麗に均されてはいるが、そこに豊かな実りを期待させるようなものは何もない。

いくつかの小さな苗木が、申し訳程度に等間隔で植えられているだけだ。これでは、果物が実るどころか、まともな作物が育つのかどうかすら怪しい。

獣人たちは、ケルナの指示通り、彼女が持ってきた不思議な苗木を植え、申し訳程度に周囲の土を耕してはみたものの、内心では首を傾げていた。

こんな場所で、どうやってすぐに食料を確保出来るのだろうか、と。


「わぁ……!とっても素敵です……!」


だが、そんな獣人たちの不安をよそに、ケルナはその何もない平地を見て、ぱあっと顔を輝かせた。

その様子を見て、獣人たちはますます困惑するばかりだ。このエルフの少女は、一体この何もない土地のどこに「素敵」を見出しているのだろうか。

訝しむ獣人たちの視線など気にも留めず、ケルナは嬉しそうに、獣人たちが丁寧に植えてくれた苗木の一本へとゆっくりと歩み寄った。


「エルフの森で見ていたものと同じくらい……ううん、それ以上に生命力に溢れている、とってもいい苗木……」


愛おしむような眼差しで小さな苗木を見つめると、ケルナはそっとその細い幹に手を伸ばした。

そして、まるで壊れ物を扱うかのように、両手で優しく苗木を包み込む。


その瞬間だった。


「!?」


ケルナの手のひらから、柔らかな翠色の光が溢れ出した。

光に包まれた苗木は、まるで意思を持っているかのように、ミシミシと音を立てて成長を始めたではないか。

細かった幹は見る見るうちに太く、頼りなかった枝は力強く天へと伸び、そして青々とした葉が勢いよく茂り始める。そ

そして、ほんの数瞬のうちに、か細かった苗木は、見上げるほど立派な大樹へと姿を変え、その枝にはたわわに、瑞々しい果実がポコポコと実をつけていたのだ。

甘く芳醇な香りが、周囲にふわりと漂う。


「な……なんだ、これは……!?」

「木が……一瞬で……!?」

「しかも、もう果物がなってるぞ!?」


その信じられない光景を目の当たりにした獣人たちは、皆一様に言葉を失い、ただただ驚愕の表情で、目の前にそびえ立つ果樹と、その根本に佇むエルフの少女を交互に見つめることしかできなかった。


それは、エルフ族が代々受け継いできた森の魔法——ではない。

この奇跡的な現象は、ケルナがその身に宿す特別な力、女神より賜りし『豊穣の恵み』という名の加護によるものだった。

彼女の持つこの加護は、植物や作物の成長を飛躍的に促進させ、大地そのものを活性化させるという、まさに生命を育むことに特化した強力な祝福である。戦闘においては何ら役には立たないが、その希少性は極めて高く、森と共に生きるエルフ族の中でも、この『豊穣の恵み』を授かる者は数えるほどしかいないと言われている。


「さぁ、もっともっと、どんどん成長させちゃいます……!」


彼女の意思に応えるかのように、周囲の苗木は次々と天に向かって伸び上がり、植えられたばかりの種は瞬く間に芽を出し、葉を広げ、そして豊かな実りを結んでいく。

その奇跡を目の当たりにした獣人たちは、わっと歓声を上げた。先ほどまでの不安げな表情はどこへやら、誰もが笑顔で、突如として訪れた収穫期に沸き立ち、籠や袋を手に、次々と熟した果物や野菜を刈り入れ始めた。


——ケルナは、アドリアンからこのリマ湖の集落を守るという大役を任されたと同時に、ここに住まう者たちの食料を確保し、さらには今まさに大草原の東方へと遠征しているアドリアン本隊への補給物資を整えるという、極めて重要な任務を託されていたのだ。


「なんてすごいんだ、ケルナ様は!」

「ああ、英雄様が見込んだお方だけのことはあるわ!」

「これで腹いっぱい食えるぞ!」


次々と寄せられる賞賛と感謝の言葉に、ケルナははにかみながらも、ホッと胸を撫で下ろした。

自分に与えられた役目を、きちんと果たせているという安堵感が、彼女の心を温かく満たしていく。

しかし……同時に、ケルナは胸の内に、奇妙な違和感を覚えていた。


「……」


(よかった……みんな、喜んでくれてる。でも……なんだろう、この感じ。もっと……もっとたくさんの作物が、もっと大きく育ってもいいはずなのに。大地が少し……疲れているみたい……?)


嬉々として収穫に勤しむ獣人たちの姿を眺めながら、ケルナはそっと地面に手を触れた。

いつも感じるはずの大地の力強い鼓動が、今日はなぜか少し弱々しく感じられる。彼女の『豊穣の恵み』は確かに発動しているが、その効果が最大限に発揮されていないような、そんな奇妙な感覚を、ケルナは確かに感じていたのだ。

しかし、そんなケルナの微かな不安は、すぐに他の獣人たちの活気ある呼び声によってかき消された。


「ケルナ様!こちらの食料地の方も、ぜひお願いいたします!」

「あ……はーい、今行きます!」


ケルナは思考を中断し、声のした方へと駆け出す。

彼女の小さな背中を、大草原のどこまでも広がる、雲一つない快晴の空が優しく見守っていた。


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