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第百二十八話

「……というのが、斥候から伝え聞いた話の全てでございます」


フォクシアラの集落、その中心にある族長の屋敷の内庭。陽光が降り注ぐ静かな空間で、一人のフォクシアラの戦士が跪き、報告を終えた。

その言葉を、目の前に立つ女性——フォクシアラ族長アカネは、微かに身体を震わせながら聞いていた。


「……」


アカネは無言だった。

しかし、その沈黙とは裏腹に、彼女の豊かで美しい金色の尻尾は、落ち着きなく左右にせわしなく振られている。

跪く戦士は、アカネの尻尾の動きを不安げに目で追いながら、恐る恐る口を開いた。


「アカネ様……斥候が口走っていたという、人間の婚約者というのは……その……」


戦士が核心に触れる言葉を口にしようとした、その瞬間——


「わぁっ!?」


轟音と共に、戦士のすぐ横の地面から、空を穿つかのような巨大な火柱が何の前触れもなく立ち上った! 熱風が戦士の顔を撫で、そのあまりの威力と突然の出来事に、彼は顔面を蒼白にして尻餅をつく。

何事かと、恐る恐る視線を火柱の発生源——アカネへと向けると……。


「まさか、あの男……!あの時の尻尾の毛を……?だ、誰が求婚の証だと言った!ただの友好の、そう、友好の証として渡しただけだというのに!」


アカネは顔を林檎のように真っ赤に染め、わなわなと全身を震わせていた。金色の尻尾は怒りからか、あるいは羞恥からか、激しく左右に打ち付けられている。

そして、彼女の感情の昂ぶりに呼応するように、その周囲で制御を失った魔力が暴走し始めた。

地面がひび割れ、突風が吹き荒れ、先ほどまで浮かべていた小さな火の玉は巨大な炎の渦となり、美しい草花を無差別に焼き尽くしていく。


「ひぃ!?」


目の前で繰り広げられる天変地異のような光景に、戦士はもはや報告どころではない。這う這うの体で、アカネの怒りの魔法が降り注ぐ内庭から必死に逃げ出していく。

ほんの数分前まで静謐な美しさを湛えていたフォクシアラの族長の庭は、主の激しい感情の爆発によって、見るも無残に破壊されていくのだった。


やがて、荒れ狂っていた魔力の嵐が徐々に収束していく。アカネは肩で大きく息をしながら、ぜぇぜぇと荒い呼吸を整えようとしていた。

先ほどまで激しく左右に振られていた金色の尻尾は、今は力なく地面にへたり込んでいる。


「はぁっ……はぁっ……」


ふと我に返り、周囲を見渡す。

そこには、先ほどまでの静謐な美しさは欠片も残っていなかった。地面は抉れ、植えられていた美しい花々は無残に散り、壁には焦げ跡や氷の傷跡が生々しく残っている。

戦士はとうに逃げ去り、今は自分一人。


アカネはゆっくりと顔を上げた。その美しい顔には、まだ怒りと苛立ちの色が濃く残っている。整えられた眉は顰められ、唇は固く結ばれていた。

そして、抑えきれない感情と共に、その声が響き渡った。


「お、おのれ……おのれアドリアンっーーー!!」


フォクシアラの族長の、普段の優雅さからは想像もつかない絶叫が、静まり返った集落の空に木霊し、遠くへと消えていった。




♢   ♢   ♢




「……ん?」

「どうしたの、アド。何かあった?」


大草原の南西部。かつては名もなき平原だったその場所は、今やアドリアンを擁する新興部族同盟『みんな仲良し!平和大好き!』の戦士たちが集う、一大拠点と化していた。

簡素ながらも機能的なテントが立ち並び、その間を様々な獣人たちが行き交う。屈強な角を持つサイの獣人、しなやかな黒豹の獣人、そして先日の戦いで軍門に下ったばかりの、赤褐色の毛皮を持つキツネの獣人たちまで……。

多種多様な種族が、それぞれの武器を手入れしたり、談笑したりしながら休息を取っている。

アドリアンとメーラは、そんな戦士たちが思い思いに休息する間を、ゆっくりと歩いていた。


「いや、今なんか、ものすごーく甲高いキツネさんの咆哮みたいなのが聞こえた気がしてね。もしかしたら、俺の魅力に気づいた誰かさんからの、熱烈なラブコールだったりして」

「……そんなわけないでしょ。アドの聞き間違いだよ、きっと」


アドリアンのいつもの軽口に、メーラはぷいとそっぽを向いた。

その小さな角が、心なしかピクピクと動いている。


「ふん。聞いたんだから。アドったら、いつの間にかフォクシアラのアカネさんと、婚姻を結んでたんだってね。すごいねぇ、私が知らない間に、いつの間にか立派な妻帯者だったなんて。ふぅーん」


明らかに不機嫌そうな声色で、メーラはチクリと嫌味を言う。

それを見て、アドリアンは苦笑しながら、そっとメーラの頭を優しく撫でた。


「えっと……このやり取りも、ここ最近で何度目になるか、もう指折り数えるのも面倒になってきたんだけど……メーラ姫?あれはあくまで、あのデブキツネくんを黙らせるための、そう、外交辞令というか、一種の策だって言ったじゃないか。本気にしないでくれると助かるんだけどなぁ?」


アドリアンとメーラは、他愛のない、しかしどこか甘酸っぱい空気を漂わせながら、そんな会話を続けていた。

やがて二人の足は、拠点の中でもひときわ大きな、立派な幕舎の前で止まった。入り口を守る獣人の戦士が恭しく頭を下げ、二人を中へと通す。


「わぁ……すごい人……じゃなくて、もふもふ?」


幕舎の中は、様々な獣人たちの熱気で満ちていた。

中央には大きな円卓が置かれ、それを囲むように、この急ごしらえの部族同盟『みんな仲良し!平和大好き!』の主だった者たちが顔を突き合わせている。

パンテラ族長ゼゼアラ、リノケロス族長イルデラ。そして、今回の大草原侵攻……いや、平和的同盟締結作戦によって新たに仲間に加わった、大小様々な部族の長たち。狼の鋭い目つきをした族長、熊のような体躯の族長、あるいはリスのように小柄ながらも知恵のありそうな族長まで、まさに多種多様な顔ぶれだ。

彼らはアドリアンとメーラの姿を認めると、ある者は安堵の表情を浮かべ、ある者は興味深げな視線を向けた。


「あ!アドリアン!」


そんな中、ひときわ明るい声が響いた。先に幕舎の中にいたエルフの少女、レフィーラがアドリアンの姿を見つけるや否や、満面の笑みを浮かべて駆け寄ってくる。


「やぁ、レフィーラ。そっちの首尾はどうだった?みんな無事だったかい?」


アドリアンは優しく微笑み返し、レフィーラを迎えた。

彼女は、アドリアン本隊とは別行動を取り、パンテラとリノケロスの戦士たちを少数率いて、周辺の小さな集落に、同盟への参加を呼びかけるという重要な任務を担っていたのだ。


「もう、バッチリ!私の手にかかれば、こんなもんよ!」


友好的な部族には、穏やかに話し合い、同盟への参加を呼びかける。

しかし、時には力に物を言わせて他の弱小部族を圧迫するような部族に対しては、更に大きな力でこれを下し、解放するという荒事もこなしてきた。

彼女も色々と大変な目に遭ってきたのだろう、その表情には若干の疲労の色も見えたが、それでも任務はうまくいったようだ。

アドリアンは内心で、あのトラブルメーカー気質のレフィーラが、大きな問題を起こさずに帰還したことにホッと胸を撫で下ろした。


「皆さま!アドリアン様がお見えになりました!これより、今後の我らが同盟の方針について、話し合いを始めたいと存じます!」


凛とした少年の声が幕舎内に響き渡った。

声の主は、円卓の奥、上座に近い席にちょこんと座っていたモル少年だった。

最初に会った時の、怯えて震えていた姿はどこにもない。様々な種族の、屈強な大人たちが居並ぶこの場において、彼は臆することなく、堂々とした態度と表情でその場に佇んでいる。

モルは、円卓の中央に広げられた羊皮紙の地図を、小さな指で叩いた。それはフェルシル大草原の広大な領域を示しており、彼らが今いる場所は、その南西の端……人間の領域との境界線にも近い地点だ。


「現在、我々の同盟が拠点を置いているのは、この地点です。先の戦いでパンテラ、リノケロス、そしてルミナヴォレンの主要戦力を吸収したことにより、この南西部において、我らが同盟に単独で対抗しうる勢力は、もはや存在いたしません」


モルの言葉には、幼いながらも確かな自信が漲っている。

実際に、ルミナヴォレンという大部族を事実上解体し、その戦力を取り込んだことで、アドリアンたちの勢力はこの南西部一帯を完全に掌握したと言ってよかった。

名実ともに、大草原における一大勢力へと躍り出たのだ。


──しかし。


「……」


モルがよどみなく現状を説明し、今後の展望を語るのを耳にしながらも、アドリアンの意識は別の場所へと飛んでいた。

彼の脳裏には、もっと根源的な、この大草原の混乱の原因といった、様々な思考が渦巻いていた。


(ゼゼアラの奴、何か重要なことを知っていそうな素振りを見せるくせに……肝心なことは頑なに口を割ろうとしない。それに、パンテラの集落に火を放ったのは、一体誰なんだろうか……?リノケロスもパンテラも否定している以上、第三者の介入があったと考えるのが自然だけど……)


そう、今のところアドリアンの『大草原に秩序と愛を取り戻す旅』は、驚くほど順調に進んでいる——のだが、その実、順調に進めば進むほど、新たな謎が次々と湧き出てくる。

更にアドリアンを悩ませるのは、捕らえたルミナヴォレンの族長フェンブレが、尋問の際に言っていた言葉だった。


『わ、わしは……「アイツ」の言う通りにしただけなんだ!アイツの言う通りに事を運んでいたら、いつの間にか色々と上手くいってただけで……わしは悪くない!』

『アイツ……?誰のことだい』

『アイツはアイツだよ!ほら……あの……えっと……。……?あ、あれ?姿が……思い出せん……?い、いや違う!嘘はついてないぞ!本当なんだ、信じてくれぇ!』


フェンブレが言う『アイツ』。

どうやら彼には、いつの間にか謎の側近が取り入っており、その者の進言に従って侵攻を繰り返し、ルミナヴォレンの勢力を急激に肥大化させていたらしい。

だが、不思議なことに、フェンブレはその『アイツ』の姿形や、具体的にどのような言葉を囁かれていたのかを、綺麗さっぱり忘れてしまっているというのだ。

嘘……を言っているようには見えなかった。アドリアンの直感が、そう告げている。記憶だけを都合よく消されたか、あるいは……。


(『アイツ』、か)


どうやらこの大草原にも、ドワーフの帝国を裏で操っていたような、不穏な影が存在しているようだ。

この世界は光が強ければ強いほど、その影もまた濃く、深く、そして広範囲に蔓延っていくものらしい——。


「そして!我々の今後の方針ですが!」


モルの張りのある大きな声が、アドリアンの思考を遮った。

現実へと引き戻されたアドリアンは、モルへと視線を移す。


「現在、我々が制圧したこの南西部よりさらに東……その先の地方では、大草原の六大部族にも名を連ねる、狼のヴォルガルド、蛇のセルペントス、鷲のアクィラント、これら三つの勢力が複雑に入り乱れ、日夜激しい戦いを繰り広げる大紛争地帯となっております。期せずして、勢力を拡大した我々はその混沌とした地域と隣接することになったわけですが……」


ヴォルガルド、セルペントス、アクィラント——その三つの大部族の名がモルの口から出た瞬間、それまで静まり返っていた幕舎内がにわかに騒然となった。

無理もない。その三つの名は、今まで戦ってきたパンテラやリノケロス、あるいはルミナヴォレンといった大部族とは、明らかに『格』が違う。大草原にその名を轟かせる、正真正銘の大部族中の大部族なのだ。


「まさか……」

「六大部族と事を構えるのか……?」


不安と動揺の声が、あちこちから囁きのように漏れ聞こえてくる。

騒然とするその場に、しかし、アドリアンがゆっくりと手を上げた。その何気ない仕草だけで、不思議なことに、先ほどまでの喧騒が嘘のようにぴたりと静寂に包まれた。


「……」


人間の英雄……ここの状況で、一体何を言うつもりなのだろうか?

固唾を飲んで見守る獣人たちの視線が、アドリアンの一挙手一投足に集中する——。


「なるほどねぇ。次の標的……いや失敬、『みんな仲良く!愛の鉄拳お見舞い大作戦』の次なるターゲットは、そのビッグネームの彼らというわけだ。それで?その輝かしい最初の犠牲者は、一体どなたの予定なのかな?」


アドリアンの、いつもと変わらぬ軽薄な、しかしどこか底知れない響きを伴った声が、静寂を破った。

その問いかけに、モルは一瞬も怯むことなく……しかし、アドリアンの目を真っ直ぐに見据えて、はっきりと告げた。


「——三部族まとめて、同時に宣戦を布告いたします」


その瞬間、本当の意味での静寂が、幕舎を支配した。

全ての音が消え、全ての動きが止まる。集まった獣人の長たちは、硬直したまま、誰一人として動かない。

そんな異様な静けさの中、アドリアンの口元が、徐々に、しかし確実に笑みの形を作り上げていく……そして、それはやがて満面の、実に楽しそうな笑みへと変わった。

そして、言った。


「最高の作戦じゃないか!実に俺たちに相応しい、シンプルで、分かりやすくて、そして何より力に頼り切った、天才的な作戦だね!」


アドリアンの、心の底から愉快そうな声が、静まり返った幕舎に高らかに響き渡った。


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