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第百二十七話

激しい戦いの喧騒が嘘のように、大草原には静寂が戻っていた。

しかし、それは平穏な静けさではない。あちこちに残る戦いの爪痕、漂う血の匂い、そして敗者の呻き声が聞こえてくる……。


戦場の一角には、捕虜となった獣人たちが集められ、丈夫な縄で縛り上げられていた。

かつてルミナヴォレンに吸収されたクマやオオカミといった他部族の戦士たちは、力なくうなだれ、その大きな体躯をしょぼんと縮こまらせている。


だが、その一方で——。


「いや、違うんだ!俺たちは悪くない!あのデブキツネに脅されて逆らえなかっただけなんだって!」

「そうだそうだ!あいつが全部悪いんだ!あ、ちなみに俺は族長様の名乗りの時に矢なんて放ってませんからね!射ったのはそこのアイツですよ!」


——赤褐色の毛皮を持つルミナヴォレンのキツネ戦士たちは、縛られているにも関わらず、口々に叫び、必死に責任転嫁と自己弁護を繰り返していた。

互いを指……ではなく、尻尾で指し、罵り合い、見苦しい言い訳をまくし立てている。


そのあまりの騒々しさと見苦しさに、見張りをしていたリノケロスとパンテラの戦士たちは、やれやれといった表情で耳を塞ぎながら呆れていた。


「こいつら、捕虜になってからずっと喋りっぱなしだが、口を閉じるっていうことはできねぇのか……?」

「口を閉じたら死んでしまう、そういう特殊な種族なんだろう。きっと……」


呆れ果てたような、あるいは心底うんざりしたような声で、二人の戦士は囁き合った。

そして、捕虜たちの中心には、ひときわ巨大な縄が幾重にも巻かれた塊があった。他の戦士たちよりも一回りも二回りも太い、でっぷりとした赤褐色のキツネ——ルミナヴォレン族長フェンブレである。

彼は地面に座り込み、縄で自由を奪われた状態でもなお、必死に言い訳を続けていた。


「だ、だからわしは悪くないんだって!わしほど善良で平和を愛するキツネは、この大草原広しと言えども他にいないんだぞ?だがな、血気盛んな部下どもが『族長!今こそ我らの力を示す時ですぞ!』なんて唆すもんだから、つい、その気になっちまって……いやいや、わしだって本当は嫌だったんだ!争いなんてまっぴらごめんだ!でも、族長としての立場っていうもんがあるからさぁ……」


他の戦士たちと何ら変わらない……いや、むしろ酷い見苦しい自己保身と言い訳のオンパレード。

そのあまりの醜態に、傍らで聞いていたイルデラとゼゼアラのこめかみに青筋が浮かび、苛立ちが隠せない様子だった。


「なぁ、やっぱりこいつ、殺さないか?聞いてるだけで胸糞悪いんだよ」

「ああ、同感だ。このような者が族長とは、大草原全体の恥だ。生かしておく価値があるとは思えん……」


聞こえよがしに放たれた二人の族長の言葉に、フェンブレはギョッとして飛び上がらんばかりに目を見開いた。


「ひぃ!そ、そんな物騒なこと言わんでくれぇ!わ、わしが悪かった!もう二度と逆らいません!だから命だけは!なんなら、もうルミナヴォレンなんて部族は解散してもいい!いや、むしろ解散させてくれ!ぶっちゃけ、あんな捻くれたキツネ共をまとめ上げるなんて、骨が折れるだけでちっとも面白くなかったんだ!」


フェンブレは太い尻尾を犬のようにブンブンと振りながら、おそらく嘘泣きだろう涙を浮かべて必死に命乞いを始めた。

自分がその『捻くれたキツネ』の筆頭であることに、彼はやはり全く気づいていないようだった。


そんな殺伐としたやり取りの中、イルデラとゼゼアラの背後から、ひょっこりと小さな影が現れた。

長いウサギ耳を持つ少年、モルだった。


「イルデラ様、ゼゼアラ様。あの、申し訳ないんですが……僕たちの同盟では、処刑というむごいことは、できるだけしない方針なんです……」


モルはおずおずと、しかしはっきりとした口調で二人の族長に告げた。その言葉に、イルデラとゼゼアラは互いの顔を見合わせ、やれやれといった様子で肩を竦めた。

突如現れたウサギ耳の救世主(?)に、絶望の淵にいたフェンブレは、まるで後光でも見たかのように顔を輝かせ、満面の笑みを浮かべた。


「おおっ、流石はウサギくん!話が分かる!そうだろう、そうだろう!野蛮で残酷な肉食獣と違って……あぁ、サイは草食だったか。まぁ兎にも角にも!ウサギは我らキツネと同じく、平和を愛する理性的な種族だからな!暴力なんて好まないよな!」


助かったとばかりに、フェンブレは再びペラペラと喋り始める。その変わり身の早さと都合の良い解釈に、モルは苦笑いを浮かべるしかなかった。

そんなフェンブレの言葉が終わった、まさにその時である。

モルの更に背後から、すっと長身の人影が現れた。


「やぁ、調子はどうかな、大族長の大きなキツネさん」


穏やかな声と共に現れたのは、黒髪の人間、アドリアンだった。彼は相変わらず爽やかな、しかしどこか底の知れない笑みを浮かべている。

だが、その姿を認めた瞬間、フェンブレの表情は一変した。「ひぃっ!?」と短い悲鳴を上げ、縄で縛られたまま必死に後ずさり、逃げようとする。

彼の脳裏には、先ほどの戦場で繰り広げられたアドリアンの圧倒的なまでの力——大戦士を一蹴し、戦場を舞うように蹂躙した、あの悪夢のような光景が鮮明に蘇っていたのだ。


「に、人間は駄目だ!人間なんぞ、大草原の神聖な掟を土足で踏みにじる、クソみたいな種族だからな……!ええい、近寄るな、化け物め!」


恐怖のあまり錯乱したのか、フェンブレはアドリアンに向かって罵詈雑言を浴びせた。

自分がつい先ほど、獣人の誇りである名乗りの最中に矢を射るという、掟破りの卑劣な行為をしたことなど、都合よく忘却の彼方らしい。

周囲の者たちはその身勝手な言い分に呆れ返るが、アドリアンは意に介さず、尚もニコニコとした人懐こい笑みを浮かべたまま、フェンブレに顔を近づけていく。


「いやぁ、実に的確で素晴らしいご指摘だ、フェンブレ族長。人間の心を深く理解している……というか人間みたいだねぇ。いや、君の言う通り、人間ってのは本当にどうしようもない種族だよな」


フェンブレはアドリアンの瞳に射竦められ、恐怖を隠しきれない。

そして、フェンブレは震える声で、本質的な疑問を口にした。


「そもそも、なんで人間なんぞが、この神聖なる大草原の争いに関与しているんだ!?」


その言葉は、アドリアンだけでなく、イルデラ、ゼゼアラ、そしてモルにも向けられていた。


「そうだ!貴様ら、獣人の誇りはないのか!?我らルミナヴォレンとの戦いに、関係のない人間の力を借りて勝ったところで、嬉しいのか!?卑怯者どもめ!何をしようとしてるかは知らんが、部外者の力を使って、大草原の獣人たちの支持を集めれると思っているのか!?」


フェンブレは開き直ったように悪態をつき、その場にいる者たちを罵倒する。

三人には言い返したい言葉は山ほどある。だが、フェンブレの言う通り、この勝利がアドリアンという規格外の人間の力に大きく依存していることは紛れもない事実——。

すぐには言葉を返すことができなかった。


そんな重苦しい沈黙の中、アドリアンだけが、にやぁ、と実に楽しそうな、悪戯っぽい笑みを深々と浮かべていた。


「ところでフェンブレくん。君はさっきから『部外者』だの『人間』だの言っているけれど、そもそも、どこからどこまでが『部外者』って呼ぶんだろうね?」

「……はぁ?何を言っておるのだ貴様は。決まっておるだろう、獣人以外は皆、部外者だ!」


フェンブレは、何を当たり前のことを、とでも言いたげに答える。

しかし、アドリアンは首を傾げた。


「本当にそうかな?例えばさ、もし仮にだよ?ある人間が、獣人と婚姻を結んで、家族になったとする。その人間は、その伴侶や、生まれた子供たち、そして所属する部族にとって、それでもまだ完全な『部外者』なのかな?」


アドリアンは、まるで世間話でもするかのような軽い口調で問いかける。

その予想外の角度からの問いに、フェンブレは「むぅ……?」と口ごもり、視線を泳がせた。


「そ、それは……その……なんというか……。まぁ、確かに、そうなったら……完全な部外者とは、言えん……かもしれんが……」


フェンブレは、アドリアンの巧みな言葉の誘導に、不本意ながらも一応の理屈としては納得せざるを得ない、といった表情で、しぶしぶ言葉を返した。


「ほうほう、なるほど。婚姻を結べば部外者とは言えなくなる、か。……じゃあ、そういう意味では、俺も既に部外者じゃないっぽいなぁ」

「……なんだと?」


アドリアンの思わせぶりな言葉に、フェンブレだけではなく、隣にいたモルやゼゼアラまでもが目を丸くした。

まさか、この人間には獣人の妻がいるというのだろうか?初耳である。

しかし、イルデラだけは違う思考回路に直結したらしい。彼女はぱあっと顔を輝かせ、アドリアンに向かって大きく手を広げ、熱烈な言葉を口にしようとした。


「アドリアン!ついに、ついにアンタもその気になったんだね!いいよ、アタイはいつでも準備万端さ!アンタにならアタイの全てを捧げてやっても……!」


だが、イルデラの情熱的な告白は、アドリアンが気まずそうに浮かべた苦笑によって、あっさりと遮られてしまった。


「あー……悪いね、イルデラ族長。でも、ほら、今まさに大草原がこんな騒ぎになってる最中に、急に婚姻関係を結んだって、どうせ『この状況を有利にするための仮初の関係だろ?』なんて勘繰られちゃうだけじゃないか?だからさ、その話は、この騒動が落ち着くまで、一旦、そーっと干し草の上にでも置いておこう?ね?」


アドリアンの遠回しな拒絶に、イルデラは「ちぇっ……」と唇を尖らせ、不満げながらも渋々引き下がった。

しかし、イルデラとの婚姻でないとすれば、一体アドリアンは何を根拠に『部外者ではない』などと言ったのだろうか。


皆の訝しげな視線を一身に浴びながら、アドリアンはどこ吹く風といった様子で、ふと懐を探り始めた。

そして、ゆっくりと一つの首飾りを取り出す。それは、磨かれた大きな牙を模した、野性味あふれる装飾品だった。

その首飾りがアドリアンの手の中に現れた瞬間、その場にいた全員が息を呑み、驚愕に目を見開いた。


「これはねぇ……随分と昔に、とあるアカネちゃんっていう、そりゃあもう可愛いフォクシアラのキツネさんから貰ったものでね」


大戦士の証である首飾りとは違う、素朴ながらも力強い意匠。

だが、一同が驚いたのは、そのデザインにではない。


「ほら、よーく見てごらん?この牙の根元に、キラリと光る金色の毛が一本、結び付けられているのが見えるかい?」


アドリアンが指さす先、陽光を浴びて眩しく煌めく一本の、美しい金色の毛……それは紛れもなく、キツネの尻尾の毛であった。


——獣人の世界には、多種多様な求婚の方法が存在する。その中でも、自身の尻尾や鬣の毛を一本抜いて相手に贈るというのは、多くの部族に共通する、最も一般的で真摯な求婚の意思表示であった。

そして、知恵と幻術を尊ぶフォクシアラの一族においても、この方法は伝統的な求婚の儀式として受け継がれているのだ。


「つまり、何が言いたいかっていうと」


アドリアンは、牙の首飾りを高々と掲げた。その先端で揺れる金色の毛が、小さな太陽のようにキラキラと輝いている。


「俺はもう、とっくの昔に、『求婚の証』たるこれを受け取った時点で……大草原の部外者なんかじゃ、とっくになくなってるってことさ」


ヒュウ、と乾いた風が吹き抜け、その場にいた者たちの間に一瞬の沈黙が落ちた。


「なるほどな……お前は、フォクシアラの一員だったという訳か。それならば、そのデブキツネが言う、大草原での支持とやらも得やすいだろう」

「フォクシアラっていったら、大部族の中の大部族じゃないか。ちっ、アドリアンを狙う女狐が既にいたってワケかい!ますます手強いねぇ!」


ゼゼアラは冷静に状況を分析し、イルデラは新たな恋敵の出現に露骨な対抗心を燃やす。

そんな二人を横目に、アドリアンはにっこりと人の良い笑みを浮かべながら、再びフェンブレに顔を向けたが……


「どうだい、フェンブレ『元』族長。これで俺が部外者じゃないって理由は分か……って、あれ?」


その時、アドリアンはフェンブレの様子が明らかにおかしいことに気がついた。

フェンブレは、アドリアンが掲げる首飾り——特に、そこに結び付けられた金色のキツネの毛を、信じられないものを見るかのように凝視していた。


「ア……アカネ……だと……?わ、わしの……わしの愛しいアカネが……こ、こんな得体の知れない人間なんぞと……こ、婚儀を結んでいた……だと……?」


途切れ途切れに漏れ出た言葉は、驚愕と、絶望が滲み出ている。

そして——フェンブレの巨躯が、ぶるぶると激しく震え始めたかと思うと、次の瞬間。


「おえーーーっ!!!」


凄まじい音と共に、フェンブレは胃の内容物を盛大にぶちまけ、そのまま白目を剥いて無様に気絶してしまった。

突然の出来事に、アドリアンは眉をひそめ、困惑した表情で隣に立つモルに問いかける。


「モル族長。このキツネさん、なんで急に気絶しちゃったと思う?太り過ぎたのかな」


すると、モルは少し顔を赤らめながら、おずおずと答えた。


「そ、そのぉ……あくまで僕の推測ですけど……多分、フェンブレ族長は、フォクシアラの族長であるアカネさんのことを、ずっと……その、懸想、していたのではないでしょうか……。それで、アドリアン様との関係を知って、ショックで……」


しばしの静寂が流れた。

アドリアンはモルの言葉を反芻するように宙を見つめ、やがて、ポン、と手を叩いた。


「なるほどねぇ!そういうことだったのか!いやぁ、色恋沙汰ってのはいつの世も複雑怪奇だな!」


その声は妙に明るく、どこか他人事のように響いた。

ヒュウ、と再び大草原の風が吹き抜け、気絶した族長と、それぞれの思いを抱える者たちを残して、静かに流れていった。


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