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第百二十六話

アドリアンの背中にしがみつくモルは、風を切る感覚と、時折訪れる急な方向転換に必死に耐えていた。


「わぁ……!」


思わず漏れた声は、恐怖よりも驚嘆の色が濃い。

彼は今、英雄アドリアンの背に乗り、かつてない速度で戦場を駆けていた。

目まぐるしく移り変わる視界の中、アドリアンが舞うように敵を薙ぎ倒していく光景は、まるで夢物語のようだった。


普通ならば、その巨躯と獰猛さで震え上がるしかない屈強な獣人の戦士たちが、アドリアンが腕を軽く振るうだけで木の葉のように吹き飛んでいく。

大地を蹴れば、空中で華麗に回転しながら、屈強な戦士たちを蹴り飛ばし、空の彼方へと消える星にする——。


そんな、常識という言葉では到底捉えきれない光景が、次々とモルの純粋な瞳に焼き付いていく。


「どうだい、モル族長?特等席からの戦場見物は。英雄の背中って言うのは、意外と乗り心地いいだろ?」


戦場を疾風の如く駆け抜けながら、アドリアンは軽口を叩いた。

その言葉に、モルは振り落とされそうな体を必死に支えながら、それでも輝く瞳で叫び返した。


「は、はい!すごいです!アドリアン様の速さ、強さ……!これが英雄の戦いなんですね……!目が……目が回りそうですけど!」


アドリアンがくつくつと笑う。その動きに合わせて、モルの体も小刻みに揺れた。

しかし、まさにその時、モルの長い耳が危険を察知した。


「──アドリアン様、右です!」


モルの言葉が終わるか終わらないかの刹那、鋭い穂先がアドリアンの側面目掛けて放たれていた。

──熟練の戦士による投げ槍による必殺の一撃。

しかし、アドリアンは視線すら向けない。当然のように右手を伸ばし、飛来する槍の柄を寸分違わず掴み取る。

そして、その勢いを殺すことなく、腕をしならせて槍を投げ返した。


「借り物は返すのが礼儀だよな。送料はザラコスにツケとくよ!」


アドリアンの手から放たれた槍は、凄まじいエネルギーを纏い、白い軌跡を描きながらルミナヴォレンの密集した隊列へと吸い込まれていく。

大地が爆ぜるような轟音。槍が着弾した地点を中心に衝撃波が広がり、土煙と共に十数人のキツネ戦士たちが無残に吹き飛んだ。


「うわぁぁぁぁっ!?」

「ば、化け物だ!あんなの人間じゃねぇ……!」


一人の人間に蹂躙されるという悪夢のような光景に、ルミナヴォレンの戦士たちの間に恐慌が伝染していった。


「さぁ、もう少し速度を上げるよ!しっかり捕まってるんだ、ウサギくん!」


アドリアンはそう言うと、さらに深く大地を踏みしめた。

次の瞬間、彼の動きは一段と激しさを増す。重力から解き放たれたかのように、彼の動きは三次元的な軌道を描き、より華麗に、より予測不能になっていく。


リノケロスの屈強な戦士たちは、その人間離れした力強さと速度に驚嘆の声を上げ、畏敬の念を抱き──。

パンテラの俊敏な戦士たちは、影すら置き去りにするかのような、舞踊にも似た優雅で流麗な動きに、思わず見惚れ──。

そして、敵であるはずのルミナヴォレンの戦士たちですら、その圧倒的な速さと破壊力の前に恐怖で身動きが取れず──。


アドリアンの存在は、もはや戦場の趨勢を決する台風の目であった。

しかし、その白い嵐が、突如として一点に収束する。

目にも留まらぬ速度で動き続けていたアドリアンが、ピタリと、最初からそこにいたかのように、音もなく大地に着地したのだ。


「さて、と。ようやく到着だ」


静かに告げるアドリアンの視線の先には──


「ぐ……ぐぐぐぅ……!?」


でっぷりと太った巨躯を震わせる、族長フェンブレがいた。彼は、すぐ目の前に現れたアドリアンと、その背中にいるモル少年を、化け物でも見るかのように、大きく見開いた目で睨みつけていた。


「き、貴様……!いったい何者なのだ……!」


フェンブレの声は震え、驚愕に染まっていた。その目は目の前の人間に釘付けになりながらも、その背後に広がる惨状を捉えていた。

先ほどまで威勢を誇っていたはずのルミナヴォレンの精鋭たちが、まるで嵐に薙ぎ払われたかのように、大地に倒れ伏している。

そのほとんどが、この黒髪の青年、ただ一人によって蹂躙されたのだ。


——こいつは、ただの人間ではない!危険だ!


獣人としての、いや、長年弱肉強食の世界で生き抜いてきた者としての本能が、フェンブレの全身に警鐘を鳴らしていた。

目の前の存在は、絶対に敵対してはならない類のものだと。


「何者、かぁ。さてさて、モル族長、俺はいったい何者に見えるんだろう?通りすがりの親切な旅人?それとも、恐ろしい人間さんかな?」

「アドリアン様は……えっと、その……みんなを助けてくれる、優しい英雄様だと思います!」


アドリアンの茶化すような問いかけに、モルは少し考え込んだ後、純粋な尊敬を込めて答えた。

そのどこか間の抜けた、しかし真摯なやり取りを聞いて、フェンブレの太いキツネの尻尾が不安げにゆらゆらと揺れた。


(おのれ……!このわしを前にして、なんというふざけた態度だ……!)


しかし、恐怖に震えながらも、族長フェンブレの狡猾なキツネの目は、アドリアンの動きの中に一点の、あるいは唯一かもしれない『不自然さ』を的確に見抜いていた。

それは、彼の背中にしがみついているウサギの子供の存在……。

何故、戦場に子供を連れているのか。そもそも、あのウサギが何者で、どのような地位なのか、フェンブレには知る由もない。

だが……あの人間が、背中の子供を庇うように、どこか動きを制限しながら戦っているのは明白であった。あれこそが、この得体の知れない人間の『弱点』に違いない、と。


そんなフェンブレの思考を読み取ったかのように、アドリアンは不意に口を開いた。


「そこの太ったキツネさん。君が今、何を考えているか当ててあげようか?──『こいつの弱点は背中の可愛いウサギさんに違いない!そこを狙えば勝機が!』……てな感じかな?」


図星を刺され、フェンブレの心臓がドクンと大きく跳ねた。全身の毛が逆立ち、冷や汗がさらに噴き出す。

アドリアンは、そんなフェンブレの反応を愉快そうに眺めながら続けた。


「残念だけど……その推察は、ちょっと、いや、かなり的外れだ。彼は『弱点』なんかじゃ、決してないんだよ」


アドリアンの瞳が、冗談めかした光を消し、真っ直ぐにフェンブレを射抜いた。

その視線の圧力に、フェンブレは思わずたじろぎ、無意識に一歩後ずさる。


「彼は俺にとって、かけがえのない『強み』だ。肉体的な力だけが本当の強さじゃないってこと、君みたいな頭……いや、身体でっかちのキツネさんにも、これから教えてあげよう──」


その虚仮にしたような物言いに、フェンブレの弛んだ顔が怒りで赤黒く染まり、でっぷりとした巨躯がわなわなと震えた。


「この……このフェンブレ様に向かって、人間如きがいい気になりおって……!後悔させてくれるわ!」


フェンブレの怒号と共に、周囲から複数の巨大な影が躍り出た。屈強な肉体を持つルミナヴォレンの大戦士たち——族長を守る最精鋭の護衛たちが、アドリアンとモルを瞬く間に取り囲む。


「一斉に掛かれ!囲んでしまえば、あの素早い動きも封じられよう!」


大戦士の一人が号令を発する。次の瞬間、四方八方から屈強なキツネたちが、槍や剣、そして己の爪牙を武器に、アドリアンへと襲いかかった。

逃げ場のない、必殺の連携攻撃。対して、アドリアンは背中のモルに向かって、にこりと悪戯っぽく微笑んでみせた。


「頼りにしてるよ、モル族長」

「──っ!」


アドリアンの信頼に満ちた瞳に射抜かれ、モルの心に熱いものが込み上げてくる。恐怖は消え、代わりに強い決意が宿った。

アドリアンが、とん、と軽く地を蹴った。まるで重力など存在しないかのように、彼の体はふわりと宙に舞い上がる。


そんな無防備な彼に、四方から大戦士たちの凶器が殺到するが——


「右から槍、左から爪撃!」


モルの声が響く。アドリアンは空中で身を捻り、二つの攻撃を回避。

そのまま回転の勢いを利用し、右の槍兵の腕を蹴り砕き、左の爪撃を放った戦士の顎に強烈な一撃を見舞う。


「が……あっ!?」


大戦士たちの激しい殺気と交錯する剣戟の嵐の中、アドリアンは背中に感じる小さな温もりと、そこから発せられる驚異的な才能に、改めて感嘆していた。


──アドリアンには『危険察知』という、天から授かった強力無比な加護が備わっている。


この祝福は、自身に向けられるあらゆる敵意や物理的な脅威を、ほとんど予知に近い精度で直感的に知らせてくれる。

今この瞬間も、その力はアドリアンの神経を絶えず刺激し、四方八方から迫る危険を囁き続けているのだが……。


(『左後方、敵戦士の奇襲、軌道は下段薙ぎ払い』)


『危険察知』の加護が、脳内にそう警告を発した、まさにその刹那。


「アドリアン様、左後ろです!足元を狙った攻撃が来ます!」


背中のモルの澄んだ声が、寸分の狂いもなくアドリアンの耳に届くのだ。


(素晴らしい……本当に、素晴らしい才能だ)


アドリアンは内心で、驚きと賞賛の念を禁じ得なかった。

英雄の証たる『危険察知』は、数多の加護の中でも最高位に属する力の一つ。

未来を垣間見るに等しいその奇跡を、このウサギの少年は、特別な力など一切持たぬ生身のままで、その鋭敏な感覚だけを頼りに完全に再現……いや、むしろ凌駕している。

この事実は、幾多の死線を越え、英雄とまで呼ばれるようになったアドリアンにとっても、理解を超えた衝撃であった。


そして、舞いが終わるのに、時間はさほどかからなかった。

先ほどまでアドリアンを取り囲み、猛攻を仕掛けていたルミナヴォレンが誇る最精鋭の大戦士たちは、今や誰一人として立っている者はいない。

ある者は武器を砕かれ、ある者は意識を失い、無様に大地にひれ伏していた。


あっという間の出来事だった。


そして、後に残されたのは、族長フェンブレただ一人……。

彼は、アドリアンとモルが織りなした舞踏の結末を目の当たりにして、何度も目を瞬かせ、あんぐりと口を開けたまま、だらしなく舌を垂らしていた。


「……え?」


最早、族長としての威厳など欠片もない。ただ間抜けな声だけが、その場に響く。

そんなフェンブレの姿に、アドリアンは苦笑を漏らしながら言った。


「さぁて、大族長のキツネさん。英雄と天才少年による特別舞踏は、ご照覧いただけたかな?」


その言葉が引き金になったかのように、フェンブレはハッと我に返り、恐怖に顔を引き攣らせて後退る。立派だったはずの太い尻尾は、恐怖のあまり根本からくるりと丸まってしまっていた。

──生き残るには、逃げるしかない!

そう判断したフェンブレが、背を向け一目散に逃走しようとした、その瞬間——。


「おっと、逃がすと思うかい?」

「今更、逃げようとするとは……」

「ひっ……!?」


いつの間に回り込んでいたのか、フェンブレの退路には、イルデラとゼゼアラが仁王立ちになって塞いでいた。

戦場の趨勢は、もはや完全に決したようだ。

周囲を見渡せば、ルミナヴォレンの戦士たちはリノケロスとパンテラの連合軍に散々に打ち破られ、蜘蛛の子を散らすように退却を始めているのが見えた。


「さぁ、ルミナヴォレンの族長!お前も族長ならば、最期まで堂々と戦ってみせな!」


イルデラが肩に担いだ巨大な戦斧を振り下ろす。分厚い刃が陽光を反射し、ギラリと煌めいた。

完全に包囲され、逃げ場を失ったフェンブレは——その巨躯をわなわなと震わせ、脂汗を滝のように流しながら、突如として叫んだ。


「ぼ、暴力はいけない!そうだ、暴力は良くないぞ、キミたち!」


唐突に放たれた、場違いにも程がある言葉に、戦場の喧騒が一瞬にして静まり返った。


「そうだとも!こ、ここは平和的に……そう、キトゥラ・シャゼイで決着を付けようではないか!?獣人の神聖なる儀式たるキトゥラ・シャゼイで、遺恨なく、平和的に勝負を決めよう!うむ、それが最も理に適っている!」


フェンブレは、天啓でも得たかのように一人で納得し、ペラペラと捲し立てる。

その必死な形相と、くるくると変わる表情に、その場にいた者たちは互いに顔を見合わせ、呆れたような視線を交わした。


そんな中、アドリアンがゆっくりとフェンブレへと歩み寄っていく。

その顔には、いつものような悪戯っぽい笑みではなく、どこか底冷えのするような、穏やかな笑みが浮かんでいた。

その笑顔に、フェンブレは言いようのない悪寒と、強烈な嫌な予感を覚えた。


そして、アドリアンは立ち止まると、静かに口を開いた。


「キトゥラ・シャゼイ、ねぇ。あれは確か、互いの誇りを賭けて戦う、神聖な決闘だったはずだ。……残念だけど、最初に名乗りもせず矢を放ち、戦士としての誇りを自ら捨て去った君には、その資格は無いんじゃないか……なぁ!!」


その言葉が言い終わるか、終わらないかの瞬間。

アドリアンの拳が、音もなく、しかし恐ろしいほどの速度と威力で、フェンブレのたるんだ腹部に深々と突き刺さった。


「うごぉっ!?」


カエルの潰れたような悲鳴を上げ、フェンブレの巨体は抵抗する間もなく前のめりに崩れ落ちる。

そのままピクリとも動かなくなり、情けなく大地にその醜態を晒した。


「……結局、こいつ最後まで戦わなかったねぇ。口だけは達者だったけどさ」

「普通に戦っていれば、もう少しは善戦できたかもしれんが……。まぁ、自業自得だな」


イルデラとゼゼアラは、まるで汚物でも見るかのような冷ややかな目で、倒れ伏したフェンブレを見下ろして吐き捨てた。

そして、イルデラは高らかに、手に持った斧を振り上げた。


「さぁ、お前たち!勝鬨を上げな!我らの勝利だぁ!!」


イルデラの力強い叫びに呼応するように、リノケロスとパンテラの戦士たちが、大地を震わせるほどの雄叫びを上げた。

大草原の空へと響き渡る。戦士たちの雄叫び……モルは、ぴんと立てた長いウサギ耳で聞きながら、キラキラと目を輝かせていた。


「これが、英雄の力……!」


それは、新たな時代の幕開けを告げるかのような、力強い響きで──


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