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第百三十八話

シュルシュルという不気味な音と共に、無数の影がアドリアンとメーラを取り囲んだ直後。

アドリアンは、芝居がかった仕草で周囲を見渡し、やれやれと肩を竦めた。


「おっと、これはこれは。……ちょっとふざけすぎたかな?どう思う、メーラ姫」

「ど、どう思うって……」


隣でカタカタと震えるメーラの小さな手を安心させるように軽く握り、アドリアンは悪戯っぽく微笑む。

その余裕綽々の態度に、ナーシャは勝ち誇ったように叫んだ。


「くくっ、この期に及んでふざけた人間よ!いつまでその余裕がもつかのぅ?」


その言葉が終わるか終わらないかの刹那、アドリアンは軽く溜息を吐く。


それと同時に、パチンと軽やかに指を鳴らした。


──ただそれだけの、あまりにも些細な動作。その時だった。


「!?」


アドリアンたちを取り囲み、今にも飛びかからんとしていた戦士たちが、時が止まったかのように一斉に動きを止めた。

殺気立った表情も、振り上げた槍も、曲刀も、全てがその場でぴたりと凍り付いたように静止している。彼らの瞳には、微かな困惑の色だけが浮かんでいた。


「な、なにをしておる……!?さっさと動かんか、お前たち!早くその痴れ者を八つ裂きにせよ!」


ナーシャが金切り声を上げるが、戦士たちは誰一人としてピクリとも動かない。

それどころか、その顔には脂汗が浮かび、明らかに何かに耐えるような苦悶の表情を浮かべていた。


「じ、女王様……も、申し訳ございません……わ、我ら……身体が、身体が石になったように、全く動きませぬ……!」

「そ、それに……! この男と、そ、その少女に武器を向けようとすると……魂の奥底から、とてつもなく恐ろしい何かが込み上げてきて……い、意識が……!」


屈強なセルペントスの戦士らしからぬ弱音と、その尋常ならざる様子に、ナーシャはわなわなと肩を震わせた。

アドリアンは、そんなナーシャの怒りも、戦士たちの苦しみもどこ吹く風といった様子で、楽しそうにくすくすと無邪気な笑みを漏らしていた。


「おや、どうしたんだい、皆さん? 急に大人しくなっちゃって。もしかして、この俺の圧倒的なカリスマに当てられて、ひれ伏したくなっちゃったとか?」


アドリアンが放ったのは、『威圧』の魔法であった。

術者と対象との間に絶対的な力量差が存在する場合、武器を向けたり、敵意を抱くだけで、対象は本能的な恐怖に囚われ、身体の自由はおろか、時には意識すら保てなくなるという広範囲精神干渉である。


「お、おのれ……!妙な魔法を……!?」


アドリアンのどこまでも人を食ったような軽口と、その圧倒的な力の前に、ナーシャの美しい顔は屈辱と怒りでみるみるうちに真っ赤に染め上がった。


しかし……。


(待て……今の魔法……こやつ、只者ではない。奥に控えさせておる隠密部隊を投入したところで、結果は同じかもしれん。いや、むしろ、これ以上手の内を晒すのは愚策か……!)


ナーシャは瞬時に思考を巡らせ、アドリアンの底知れぬ実力を肌で感じ取り、感情に任せてさらなる兵を投入しようとしていた自身を寸でのところで押しとどめた。


「おや、どうしたんだい?まだ部屋の隅々、天井裏から床下まで、わんさかと可愛らしいヘビの兵隊さんが隠れてるみたいだけど、もうお披露目は終わり?俺としては、もっと盛大な歓迎パレードを期待してたんだけど」


アドリアンのその、全てを見透かしたような皮肉に、ナーシャは顔をひくひくと引き攣らせながらも、必死に平静を装って言い返した。


「ふ……ふふん……!こ、これ以上は、流石に『大切なお客人』に対して無礼というもの……。そう、無礼じゃからな!」


そう言うナーシャの言葉とは裏腹に、その美しい虹色の尾は、苛立ちを隠しきれないとばかりに、床をビタン、ビタンと不規則に叩きつけている。

最初のアドリアンの『威圧』によって金縛りにあったかのように動けなくなっていた戦士たちも、その言葉と、部屋に漂う奇妙なほどに緊迫しつつも、どこか滑稽な雰囲気に、ただただ困惑した表情を浮かべるばかり。


「……というか!貴様、いったい何が目的で、このわらわの前に、そのふてぶてしい面を現したのじゃ!はっきり申せ!」


苛立ちと警戒感を隠そうともせず、ナーシャはアドリアンに鋭く問いかけた。その顔には、強い警戒感が浮かんでいる。

すると、アドリアンは待ってましたとばかりに、にっこりと、それはもう人の良い笑みを浮かべて言った。


「最初に言ったじゃないか。この荒れ果てた大草原に、再び燦々と輝く太陽の光と、ついでに愛と平和という名の、それはもう素晴らしいスパイスをふりかけるために、ぜひとも君たちセルペントス族にも、心からの『ご協力』を賜りたいってね」


アドリアンの、どこまでもふざけた言葉に、ナーシャの切れ長の瞳が、さらに怪訝な色を強めた。


「いきなり現れた、どこの馬の骨とも知れぬ、不気味な人間に協力……だと!?」


苛立ちを隠さず、ナーシャは言い放つ。


「そもそも、報告では、『枯れずの湖丘』で我がセルペントスの勇敢なる戦士たちを、蹴散らしたのはお前だというではないか……!そんな輩にそう言われて、はいそうですかと言うとでも思ったのか!?」


ナーシャの虹色の尾が、再びバシンッ!と、怒りを込めて床に叩きつけられた。


「あぁ、あの『枯れずの湖丘』での一件かい?あれはねぇ、いわば大規模な『椅子取りゲーム』みたいなものだったんだよ。みんなが魅力的な水飲み場を巡って、楽しそうに、わーわーキャーキャーやってたからさ。実はあれが『戦い』だなんて、認識していなかったんだよね。ごめんごめん」


アドリアンのどこまでも人を小馬鹿にしたような物言いに、ナーシャは怒りで言葉を失った。

美しい顔を引き攣らせながら、ギリギリと奥歯を力強く噛み締める。細い喉から、獣のような低い唸り声が漏れそうになるのを、必死でこらえている。


「ふ、ふざけるな……!貴様は、この大草原東部が、ヴォルガルド、アクィラント、そしてこのわらわが率いるセルペントスの三つの大部族による、一触即発の三つ巴によって、どれほど緊迫し、危険な状況に陥っているか、本当に、本当に理解しておるのか!?」

「もちろん。俺が……いや、俺たちが、ほんの気まぐれで、どこか一つの部族にちょっぴり肩入れしただけで、見事なまでに緊迫した三つ巴の均衡とやらが崩れちゃう、とーっても脆い状況だってのは、よーく理解してるつもりだよ?いやはや、英雄の血が騒ぐってもんだねぇ」


的確に現状の脆弱性を指摘し、そして暗に自らの影響力を誇示するアドリアンの言葉に、ピタリとナーシャの動きが止まった。

そして、彼女の内心は、アドリアンの言葉一つで、疑念と恐怖の渦へと叩き込まれる。


(ま、まさか……こやつ、このわらわを……脅しておるのか……!?確かに、今の東部の情勢は、ほんの些細なきっかけ一つで、容易く崩れ去る砂上の楼閣のようなもの……。この人間の底知れぬ強さは未知数だが……もしや、狼や、鷲と、既に何らかの密約を……!?)


次から次へと湧き上がる疑念と、最悪の想像がナーシャの頭の中を駆け巡り、彼女の心は疑心暗鬼という名の底なし沼へと急速に沈んでいく。

疑心暗鬼に囚われ、アドリアンの言葉一つ一つに過敏に反応し始めるナーシャ。そんな彼女の様子を、アドリアンは楽しむかのように、さらに言葉を続ける。


「いやぁ、それにしても、ヴォルガルドのオオカミさんたちの、あのもふもふの尻尾……触ったら気持ちよさそうだよなぁ。この里を出たら、オオカミさんのところに行く予定なんだけど、もふもふの毛を見たら『いい話』が出来そうだよね」

(なっ……グレイファングと接触するつもりか……!?いや、もしや、もうしている!?ありえん!あの隻眼の狼が、こんな得体の知れない人間に容易く……しかし、この男ならば……!?)


ナーシャの額に、じわりと脂汗が滲み始める。

アドリアンの言葉は、彼女の不安を的確に煽り、ありえないはずの疑惑を現実味のある恐怖へと変えていく。


「あ、そうそう、空を飛ぶアクィラントの鷲さんたちも、見晴らしの良い高いところから、色んなものが見えてるみたいだからねぇ。ああいう、情報通で、おまけに空の利を独占してる鳥さんたちとは、できることなら『友好的な関係』を築いておきたいものだよな~」

(ア、アクィラントまでも手懐けようと……!?まさか、既に……!?この人間、この人間は、一体どこまで……!?)


ナーシャの美しい虹色の尾が、恐怖と混乱で小刻みに震え始め、その切れ長の瞳は、もはやアドリアンの顔をまともに見ることすらできずに、せわしなく左右に揺れ動いていた。

アドリアンの根も葉もない、しかし妙な説得力を持つ言葉の前に、蛇の女王の冷静さは完全に失われようとしていた。


「昨日の敵は今日の友、なんて言葉もあるけれど、その逆もまた然り。水面下では、一体どんな『取引』や『約束』が、誰と誰の間で交わされているのやら……。おっと、これはただの独り言だよ、女王様。どうか、お気になさらず」


実際には、アドリアンはヴォルガルドともアクィラントとも、何の密約も結んではいない。

ただ、この大草原のパワーバランスと、ナーシャの警戒心を利用して、彼女を揺さぶっているに過ぎないのだ。

しかし、疑心暗鬼に陥ったナーシャには、アドリアンの言葉が、恐ろしい真実の断片のように聞こえてしまうのであった。


「さぁてと。いやぁ、女王様との有意義な『お茶会』、実に楽しかったよ。まぁ、同盟のお誘いは断られちゃったけど……俺たちはそろそろお暇させていただこうかなぁ。なにせ、この後も色々と『英雄活動』の予定が詰まってるもんでね。ねぇ、メーラ姫?」

「え?あ、そ……そうですねぇ……?」


突然、椅子から立ち上がり、満足げに背伸びをしながらそう言い放ったアドリアンに、メーラは訳が分からないといった表情で、目を白黒させるばかりだ。

だが、それ以上に狼狽し、血相を変えたのは、他の誰でもないナーシャであった。


(い、いかん!こ、この男を、今この里から出してしまっては……!もし、もし忌々しい狼どもや、空飛ぶ鳥どもと手を組むようなことになれば……!我がセルペントスは、三方から……!いや、しかし、この場で無闇に刺激して、この得体の知れない人間の逆鱗に触れるのも……!)


恐怖と焦りがナーシャの思考を支配し、もはや女王としての体面などかなぐり捨て、本能が彼女の身体を勝手に動かしていた。


「おや?」


ふと、アドリアンが自身の腕に奇妙な感触を覚え、視線を落とす。

そこには、いつの間にか、ナーシャの蛇の尾が、助けを求めるかのように、彼の手首に絡みついていた。

アドリアンは、わざとらしく小首を傾げ、その絡みついた尾と、必死の形相のナーシャを交互に見比べて言った。


「おやおや、どうかなされたのかな、女王様?俺たち、実はこの後、ちょっとした『予定』があって、そろそろ行かないと日が暮れちゃうんだけど……。同盟は断るみたいだし、話はもう終わっただろ?」


腕に、こっそりと、しかし確実に力を込めて絡みつくナーシャの蛇の尾を、アドリアンは面白そうに見つめながらそう言った。


(同盟を結ぶなどと、このわらわが軽々しく口にできるわけがない……。しかし、この得体の知れない人間を、今この里から野に放つのは、あまりにも危険すぎる……!かといって、力で捩じ伏せようにも、奴の底が見えぬ……!)


思考の渦にグルグルと飲み込まれそうになるナーシャであったが、もはや一刻の猶予もないと判断し、現状考えうる限りでの最適解を無理やり絞り出した。

そして、アドリアンに向かって、顔をひくひくと引き攣らせながらも、必死で優雅な笑み(のつもり)を浮かべ、こう言った。


「ま、待て、人間よ。せ……せっかく、このセルペントスの秘境の里まで足を運んでくれたのじゃ。し、暫く……そう、ほんの暫くでよい、泊まっていっては……どうかのぅ……?あ、いや、べ、別に引き留めているわけではないぞ?ただ、ほれ、わらわはまだ、大切なお客様に対して、十分な『おもてなし』というものを、何一つしておらんからのう……。それは、このセルペントスの女王として、少々、面目ないというか……」


(本当は、こんな無礼千万で、人の心を土足で踏み荒らすような非常識な男など、一秒たりともこの里にいて欲しくないわ!だが、だが今は……今はこう言うしかないのじゃ……!)


しかし、こんな苦し紛れの言葉で、果たしてこの食えない人間を引き留めることができるのだろうか……ナーシャがそう内心で冷や汗をかいた、まさにその時である。


「──そう?そこまで言ってくれるのなら、お言葉に甘えて、しばらくこの素晴らしい隠れ里に逗留させてもらおうかなぁ!」


先ほどまでの「お暇する」という素振りはどこへやら、アドリアンは突如として態度を豹変させ、待ち望んでいた言葉をやっと聞けたとでも言わんばかりに、ぱあっと顔を輝かせた。


「いやぁ、嬉しいなぁ!あ、もちろん、滞在中は『国賓待遇』で、食事も毎食、それはもう舌がとろけるような豪華絢爛なものでよろしく頼むよ!なにせ俺たち、女王様の『大切なお客様』なんだからね!」


言うが早いか、アドリアンは、先ほどまでナーシャが座っていた、一番ふかふかで豪華なクッションが置かれた長椅子に、遠慮のかけらもなく、実にふてぶてしい態度で再び腰を下ろした。


「えっ……」


その、あまりにも見事な手のひら返しと、厚顔無恥極まりない態度の豹変ぶりに、ナーシャはポカンと、口をあんぐりと開けたまま、ただただ目の前の人間を凝視するばかりであった。


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