鬱蒼とした木々が陽光を遮り、気味の悪い鳴き声だけが響くはずの湿地帯——迷宮のような沼地は、一人の人間の軽妙な語り口と、一人の蛇の少女の楽しげな相槌によって、普段の静寂が嘘のような姦しさに包まれていた。
「それでね、俺は言ってやったのさ。『空を飛べるからって偉そうにしてる、そこのトカゲ貴族さんたち?英雄アドリアンが、自慢の翼と、ついでに高い鼻っ柱もへし折って、俺たちと同じ泥水啜らせてやろうじゃないか!』ってね」
「そ、それで!?それで、どうなったの!?ねぇ、早く教えて!」
アドリアンが紡ぎ出す、臨場感溢れる武勇伝に、蛇の少女——ナーシャは、目をキラキラと輝かせ、身を乗り出すようにして聞き入っていた。
その言葉の一つ一つに、彼女の表情はくるくると変わり、時には息を呑み、時には声を上げて笑い、自分がその冒険の只中にいるかのように、物語の世界へと深く引き込まれていく。
その瞳には、ただ純粋な好奇心と、目の前の語り部に対する憧憬の色が浮かんでいた。
「ドラコニア皇国にいる竜人さんは、それはもう見事なくらいに傲慢でね。『我ら竜人こそ至高の種族!他種族など、我らの足元に傅く塵芥に過ぎん!』なんて、まぁ、聞いてるこっちが恥ずかしくなるようなセリフを、国のど真ん中で堂々と言っちゃうわけだ」
アドリアンは、わざとらしく芝居がかった口調で、竜人貴族のモノマネをしてみせる。
そのあまりの滑稽さに、ナーシャは思わず「ぷっ」と吹き出した。
「それで俺は、ほんの少しだけ、彼らに『現実』というものを教えてあげようと思ったんだ。ちょうど、皇国で一番偉い竜人の女王さまの前で、それはもう盛大な『空中パレード』みたいなのをやっててね。何百っていう竜の軍人たちが、ピカピカに磨き上げた鱗を煌めかせながら、優雅に大空を舞ってたわけだ」
アドリアンは、その光景を目に浮かべ、楽しげに語る。
「だから俺は、英雄の加護の力で、ほんのちょーっとだけ、風向きを変えてあげたんだ。ほんのちょっと、そよ風を起こすくらいのつもりだったんだけど……いやぁ、困ったことに、俺の起こす『そよ風』は、『嵐』よりも、ちょっとばかし強力だったみたいでさぁ」
「えぇ!?そんなことして大丈夫だったの!?」
ナーシャは、思わず立ち上がりそうになるほどの勢いで身を乗り出した。
彼女の虹色の尾が、興奮からかシュルシュルと音を立てて蠢いている。
「もちろん大丈夫さ。だって、空中で錐もみ回転しながら墜落していく竜人さんたちの姿は、それはもう見事な芸術作品だったからね。地上にいた観客や女王さまは、最初は何が起こったのか分からなかったみたいだけど、やがて腹を抱えて大爆笑さ。いやぁ、あれは爽快だったなぁ」
アドリアンは、本当に楽しそうに、そして心底愉快そうに、笑い声を上げた。
その悪戯っぽい、しかしどこまでも魅力的な笑顔を見て、ナーシャもついに堪えきれなくなった。
「ぷっ……あはははは!ひ、ひどい!なんてやつなの!?竜人相手にそんな悪戯するなんて、面白すぎるわ!あははは!」
そうして、ナーシャの快活な笑い声が薄暗い湿地帯に響き渡る中、アドリアンは彼女の滑らかな蛇の尾に導かれるように、沼地を奥へと進んでいく。
どうやら、『英雄のお話』を、ヘビのお嬢さんはお気に召したらしい。
このまま延々と、薄暗い沼地で遭難するという最悪の事態だけは避けられそうだ、とアドリアンは内心でそっと安堵の息を吐いた。
「はー、面白かった!人間って、意外と面白い生き物なのね!下半身が二つに分かれてて、鱗も尻尾もなくて、なんだか変な生き物だと思ってたけど……話してみると、私たちとそんなに変わらないじゃない!」
「お褒めに預かり恐悦至極でございます、下半身が一つに纏まっている素敵なお嬢様。ただ、人間が面白いんじゃなくて、この俺が特別面白いだけかもしれないから、そこは勘違いしないようにね?他の人間は俺と違ってもっと真面目だからね」
ナーシャはアドリアンの軽口に、くすくすと楽しそうに喉を鳴らして微笑んだ。
最早、彼女の中にあったはずの警戒心は、アドリアンの語る物語と、その掴みどころのない魅力の前に、すっかりと霧散してしまったようだった。
ただ目の前の、この不思議なアドリアンという存在に、純粋な好奇心と親しみを抱いている。
「それにしても、いい気味だわ!竜人なんて、みんなまとめて地面に落っことして、泥だらけにしちゃえばいいのよ!」
「おや、随分とお怒りだね。竜人は嫌いか?」
「大っ嫌いよ!あと、鳥の獣人も嫌い!空を飛んでるやつらは、みんな、みんな大っ嫌い!」
その声には、先ほどまでの無邪気な響きとは明らかに違う、どこか棘のある、強い感情が込められていることにアドリアンは気付いた。
ナーシャはぷいと顔をそむけ、美しい灰色の尾を不満げにパタパタと地面に打ち付けながら続けた。
「そうよ……だって、空を飛んでるやつらは気に食わないんだもの!私より目立ってるやつなんて、みんな酷い目に遭っちゃえばいいのよ!」
ナーシャは苛立たしげにそう吐き捨てると、くるりとアドリアンに向き直り、両手を大きく広げた。
そして、自慢の長大な蛇の尾を、これ見よがしにアドリアンの目の前でくねらせ、妖艶な笑みを浮かべる。
「見てよ、この尻尾! こんなに綺麗で、七色に輝く美しい鱗を持つ蛇の獣人なんて、この大草原……ううん、世界中探したって、私一人だけなんだから!」
陽の光が届きにくい薄暗い湿地帯の中でも、彼女の尾は確かに、不思議なほど鮮やかな虹色の光沢を放っていた。
それを見て、アドリアンは言った。
「うん、確かにキラキラ輝いてて、とっても綺麗だね。まるで作り物みたいに、不自然なほどに鮮やかな虹色だけど……。もしかして、その輝きを保つために、何か特別なお手入れの秘訣でもあるのかな? 」
アドリアンの言葉に、ナーシャはますます得意げに、くねくねと蛇の尾を揺らして答えた。
「ふふん、それはもちろん!これはね、私が特別に調合した七色の染料で……あっ! い、いや、な、何でもないわ!聞き間違いよ、今の!」
何かをうっかり口走りそうになり、慌てて口を押さえるナーシャの姿に、アドリアンは思わず苦笑いを漏らした。
だが、彼女のその可愛らしい失態を、これ以上追及するのは野暮というものだろう。
ナーシャは、ごほん、とわざとらしく咳払いをすると、再びぷいとそっぽを向きながら、強い口調で言い放った。
「と、とにかく!私より目立ってる奴は嫌いなの!私は空を飛べないのに、あいつらだけ空を自由に飛んでるなんて、そんなの、絶対に許せないんだから!」
なるほど、とアドリアンは内心で頷いた。
どうやらこのお嬢さんは、自分が世界で一番目立ちたいという、実に子供らしくて可愛らしい気性をお持ちらしい。
だが、その根底にあるのは、自分が一番美しいという過信からくる傲慢さではない。もっと何か、別の感情が原因のような気がする……。
それは……嫉妬……?
──いや、違う。これは、届かぬものへの……。
「ねぇ、ところでさ」
アドリアンが思考を巡らせていると、ナーシャはシュルシュルと蛇の尾を前に進ませながら口を開く。
「貴方、なんでわざわざセルペントスの里に行きたいわけ?」
その、あまりにも根本的な問いかけに、アドリアンは「おっと」と内心で呟いた。
そういえば、この好奇心旺盛なお嬢さんに、肝心の目的を伝えるのをすっかり忘れていた。
「実はね、俺はとーっても重要な使命を帯びていてね。この薄暗くてジメジメした場所に引きこもって、美しい鱗を苔まみれにしてるヘビさんたちに、久しぶりに燦々と輝く太陽の光を浴びさせてあげる、っていう崇高な使命を帯びてるんだ。ほら、たまには外に出て、みんなと一緒に魔王軍っていう名の的当てゲームでもして遊んだら、きっと気持ちいいと思うんだよな」
アドリアンの、どこまでも人を食ったような言葉に、ナーシャの身体が一瞬、ぴくりと硬直した。
「──あぁ、そういうことだったのね」
しかし、それはすぐに解け、何かを深く理解したかのように、彼女は何度も小さく頷いた。そして、顔を輝かせ、満面の笑みをアドリアンに向けて言った。
「じゃあ、任せて!私からもみんなに言ってあげる!この私が言えば、あの意固地な大人たちだって、きっと外に出てくれると思うから!」
その、妙に自信に満ちた言葉に、今度はアドリアンが首を傾げる番だった。
もしかして、この子供にしか見えない蛇のお嬢さんは、セルペントスの里において、相当な重要人物なのだろうか?いや、それにしても、まだあどけなさが残る少女に見えるが……。
アドリアンは、探りを入れるように、悪戯っぽい軽口を叩いた。
「おや、それは頼もしいねぇ。もしかしてキミは、この隠れ里を治める、ヘビの女王様だったりするのかな?だとしたら、随分と可愛らしくて、おまけに気さくな女王さまだ。これなら俺も、安心して忠誠を誓えそうだ」
しかし、その皮肉めいた言葉に、ナーシャは悪戯っぽくふふん、と鼻を鳴らし、大人の女性のように優雅に腰に手を当てて、口を開いた。
「んーん、残念だけど違うわ。私は、ただの美少女よ。でも──」
彼女は、しなやかな灰色の尾をくるりとアドリアンの足元に巻き付かせ、その顔をぐっと近づけて囁く。
その、小悪魔のような仕草と、自信に満ちた瞳に、アドリアンは思わず視線が外せなくなり──。
「──族長の娘だから、少しは影響力があるかもね?」
ナーシャの悪戯な呟きが、薄暗い湿地帯に小さく響き渡り、静かに消えていった。
♢ ♢ ♢
ふっと、アドリアンの意識が、遠い過去の追憶から、今この瞬間へと引き戻された。
目の前には、先ほどまでのあどけない少女の面影はどこにもなく、ただ冷徹な怒りをその切れ長の瞳に宿した、妖艶な蛇の女王ナーシャが、こちらを射殺さんばかりに睨みつけている。
傍らには、心配そうにこちらを覗き込むメーラと、完全に存在を忘れ去られ、未だに部屋の隅で気を失っている哀れな蛇の青年の姿があった。
「おっと、これは失礼。つい、懐かしい友人の可愛らしかった子供時代の思い出に浸っていたら、うっかり今の状況を忘れるところだったよ。それで、どこまで話したっけ?ああ、確か、女王様が俺に惚れちゃって、求婚してるところだったかな?」
アドリアンは、悪びれる様子もなく軽口を叩きながら、目の前の妖艶な女王に向かって、にこりと人の良い笑みを浮かべてみせる。
アドリアンのどこまでも人を食ったような態度に、ナーシャの顔がカッとみるみるうちに真っ赤に染まった。
「おのれ、下賤な人間めが……!このわらわを、どこまで愚弄すれば気が済むのじゃ!」
ナーシャは天に向かって叫ぶかのように、その優雅な虹色の蛇の尾を、限界まで鎌首をもたげるように高く、高く立たせた。
そして、その遥か高みから、怒りに歪んだ美しい顔で、大声で叫んだ。
「もうよい!皆の者!この無礼千万なる人間どもを、今すぐ引っ捕えい!いや……やはり殺せ!ズタズタに切り刻んで、この湿地帯の泥に沈めろ!」
ナーシャのその絶叫が合図となったかのように、それまで静まり返っていた部屋の至る所天井の梁や、壁にかけられたタペストリーの裏、床下の隠し通路から、シュルシュルという不気味な音と共に、無数の影が躍り出た。
腰から下を蛇の尾に変じた、屈強なセルペントスの戦士たちが、それぞれ鋭い毒の塗られた槍や曲刀を手に、あっという間にアドリアンとメーラを幾重にも包囲する──。