それは、この世界とは、似て非なる理で動いていた、異なる世界の物語。
魔族が、その圧倒的な力で暴虐の限りを尽くし、血と絶望の嵐を世界中に吹き荒れさせていた、そんな時代の記憶。
獣人たちの聖地、広大なるフェルシル大草原もまた、魔王が率いる軍勢の容赦ない猛攻に晒されていた。
かつては生命の息吹に満ち溢れ、豊かな恵みをもたらしていたその大地は、夥しい量の血を吸い込み赤黒く染まり、誇り高き獣人たちは、圧倒的な力の前に、しかし最後までその誇りを失うことなく、絶望の中で次々と散っていった。
『忌まわしき薄汚い獣どもを、この世界から一匹残らず根絶せよ』
魔王が発したそのあまりにも残酷で無慈悲な命令一下、幾千幾万とも知れぬ魔族の精強なる軍勢が、鉄と血の匂いを纏い、大草原で狂ったような殺戮を繰り広げる。
だが、どれほど深い闇が世界を覆い尽くそうとも、光もまた、必ずや存在する。
魔王軍の暴虐が存在するところに、英雄あり——。
そう、これはアドリアンが、かつてその身に刻んだ、大英雄の追憶の物語—。
♢ ♢ ♢
「うーん……ここ、どこだろ?」
黒髪を無造作に掻き上げ、青年——英雄アドリアンは、途方に暮れたように呟いた。
彼が今いる場所は、大草原の東部に広がる広大な湿地帯。
足元はぬかるみ、一歩進むごとに気味の悪い水音が響く。鬱蒼と茂る木々は陽の光を遮り、昼なお暗いその場所は、方向感覚を狂わせるには十分だった。
「確か、あの妙にねじくれた枯れ木を目印に、毒蛇が三匹昼寝してるっていう泉を迂回して、それから……あれ?泉を迂回した後に、どっちへ行くんだったかな……」
アドリアンは、ぼろぼろになった羊皮紙の地図を広げ、眉間に皺を寄せる。しかし、そこに描かれているのはあまりにも大雑把な線と、解読不能な汚い文字だけ。
英雄と呼ばれる彼も、さすがにこの世界の全ての地理に精通しているわけではない。ましてや、巧妙に隠された獣人の里となれば、なおさらだ。
「くそっ、あの朴念仁ライオンめ、こんな殴り書きみたいな大雑把な地図を渡しやがって!おまけに、このミミズが這ったような汚い文字は何なんだ!もしかして、あの立派な獅子の爪が邪魔で、まともにペンも持てないのか……!?よし、次に会ったら、とびっきりの嫌味を言いながら、あの無駄に鋭い爪を根元から綺麗に切り揃えてやろう。うん、そうしよう」
アドリアンはにこやかな笑みを浮かべているが、その額にはくっきりと怒りを示す青筋が浮かび上がっている。
彼の視界に広がるのは、まさしく魔性の湿地帯。
一度迷い込めば二度と抜け出せないと噂され、魔王軍の兵士ですら道に迷った挙句、這う這うの体で逃げ出すという、悪魔の迷路のような場所だ。
「だからレオニスの奴も、ゼファーの奴も、案内役を買って出るのをあんなに嫌がったんだな。そりゃそうだ、こんな陰気でじめじめした、おまけに毒虫だらけみたいな場所に、好き好んで来たがる奴なんていやしないだろうからね!」
アドリアンは大きく溜息をつき、改めて周囲を見渡した。どの方角を見ても、代わり映えのしない鬱蒼とした木々と、不気味な静寂だけが広がっている。
そもそも、大英雄と謳われるアドリアンが、何故こんな陰鬱な湿地帯で一人、道に迷っているのかというと……。
「はぁ……隠れちゃった臆病なヘビさんたちを、わざわざ引っ張り出して口説き落とすだなんて……。こんなの、英雄の仕事じゃなくて、どこぞの探偵か交渉人にでも頼んだ方がよっぽど効率がいいんじゃないのかなぁ」
アドリアンは、うんざりしたように大きな溜息をついた。
──現在、獣人たちの聖地フェルシル大草原は、魔王軍の無慈悲な大群によって蹂躙されつつある。
アドリアンは、人間、エルフ、ドワーフたちからなる連合軍の総司令官的な立場で、この危機的状況にある大草原の救援に駆け付けたのだ。
しかし、戦況は芳しくない。獣人たちの主要部族の一つであり、その知略と隠密行動で知られるセルペントス——蛇の獣人たちが、里に引きこもって戦おうとしないのだ。
彼らの不在は、連合軍の戦術に大きな穴を開けていた。
『人間の英雄アドリアンよ……。まことに恥を忍んでお願いするが、どうかセルペントス族に、我らと共に魔王軍と戦ってくれるよう、説得してはくれぬだろうか』
『セルペントス……?ああ、蛇の獣人たちだったな、確か。でも、なんで俺が?獣人同士で話した方が早いんじゃないのか?』
『……我ら獣人の間にはな、長きに渡る部族間の確執という、根深いものがあってな……。特に、セルペントスは他の部族との間に少なからぬ因縁を抱えておる。人間である其方ならば、そういった獣人同士のしがらみとは無縁のはず。其方の言葉ならば、耳を傾けてくれるやもしれん……』
アドリアンの脳裏に、数日前、そう言って深々と頭を下げたリガルオン一族の族長の顔が思い浮かぶ……。
その時のアドリアンは、まさかセルペントスの隠れ家が、こんな悪魔の迷路と噂されるような魔境の奥の奥にあるとは夢にも思わず、いつもの調子で快諾してしまったのだ。
そして、彼らの貴重な戦力を借りるべく、この人跡未踏の秘境へと足を踏み入れたのだが……。
「うーん、どう考えても、絶賛迷子中ってとこかな……」
アドリアンは、再びぼろぼろの地図を広げ、ため息を重ねるのであった。
そうして、手近な苔むした大きな岩にどっかりと腰を下ろし、本格的に途方に暮れていると——。
「?」
不意に、アドリアンの鋭敏な気配察知能力が、微かなざわめきを捉えた。
それは、この湿地帯に無数に潜む小動物の気配ではない。かといって、魔族特有の禍々しく恐ろしい気配とも異なる。
では、いったい何が——?
アドリアンは素早く、しかし音もなくその気配がした方へと振り向いた。
すると、そこには……。
「あっ……気付かれちゃった」
鬱蒼と茂る木々の葉陰から、一人の少女がこちらを覗き見ていた。
腰まで届く艶やかな長い黒髪、切れ長の大きな瞳は好奇心にきらめき、唇は悪戯っぽく綻んでいる。上半身は、まだあどけなさを残しながらも、将来の妖艶さを予感させる美しい少女の姿。
しかし、その腰から下は、陽の光を浴びて七色に複雑な光を放つ、しなやかで長大な蛇の尾へと変じていた。
「おっと……?これはこれは……」
アドリアンの視線は、その不可思議で、そしてどこか神々しい姿の少女に釘付けになった。
獣人の中でも、特に珍しいとされる種族——下半身が蛇の姿を持つという、セルペントス部族。その神秘的な美しさに、百戦錬磨の英雄であるはずのアドリアンも、思わず見惚れてしまうのだった。
「ちぇっ、せっかく驚かせてあげようと思ってたのに、つまんないの」
そう言うと、蛇の少女は不満そうに小さく唇を尖らせた。そして、シュルシュルと音もなく、しかし滑るように美しい蛇の胴体を這わせ、アドリアンの座る岩の前までやってくる。
「ねぇ、貴方やっぱり侵入者でしょ?もしかして、魔族ってやつ?」
少女は、アドリアンの顔を覗き込むようにして、大きな瞳でじっと見つめながら問いかけた。その声には、まだ幼さが残っているものの、どこか人を試すような響きがあった。
アドリアンは苦笑いを浮かべ、やれやれと肩を竦めて言った。
「いやいや、残念だけど侵入者でもないし、魔族でもないんだ。実はね、ヘビのお嬢さん、俺は人間っていう、この大草原じゃあ滅多にお目にかかれない、実に珍しいレアな種族なんだよ。どうだ、驚いたかい?」
アドリアンのどこか人を食ったような言葉に、少女の大きな瞳が、さらに大きく見開かれた。
「に、人間!?アンタが人間なの!?」
次の瞬間、少女の態度は一変した。
先ほどまでの警戒心はどこへやら、目をキラキラと輝かせ、まるで珍しい玩具でも見つけたかのように、アドリアンの周りをシュルシュルと這い回り始める。
「へぇー!人間って、本当にいたんだ!はじめて見た!ねぇねぇ、何その下半身!二本足で立ってるの?変なのー!尻尾はないの?鱗は?毛皮はどこいったの!?」
少女は無邪気にそう言いながら、アドリアンの足に自分の蛇の尾を器用に巻き付かせたり、興味津々といった様子で彼の服を指でツンツンとつついたりし始めた。
その好奇心旺盛な姿は、先ほどの妖艶さとはまた違う、子供らしい愛らしさに満ちていた。
そんな彼女の奔放な振る舞いを、アドリアンは困ったような、しかしどこか安堵したような複雑な表情で見守っていた。
彼女は恐らく、間違いなくセルペントス一族の獣人だろう。そして、この様子から察するに、少なくとも敵意は持っていないようだ。
ならば、彼女に道案内を頼めば、目的のセルペントスの隠れ家に連れて行ってもらえるに違いない。つまり、この馬鹿げた遭難劇も、ようやく終わりを迎えるというわけだ。
「虹色に輝く鱗が実に素敵な、そこのお嬢さん。俺が人間だと分かって、そんなに珍しがってくれるのは嬉しいんだけど、実はおひとつ、頼みがあるんだが、聞いてもらえないかな?」
アドリアンのどこか芝居がかった言葉に、蛇の少女は興味津々といった様子で、こてりと首を傾げた。
「実は俺、今まさにセルペントスの里へ向かっている途中でね。もしよければ、そこまでの道案内を、ぜひとも君にお願いしたいんだけど、どう?……あ、もちろん、道に迷ったりなんかは全然してないんだけどね?そこは勘違いしないでもらえると助かるな。ただ、ほら、ちょっと近道とか、安全なルートとか、そういうのを知ってるかなって思っただけでさ」
その、誰が聞いても苦しい言い訳に、少女は何かを考えるように顎に指を当てていたが、すぐさまにやりと、悪戯な子供のような意地悪そうな表情を浮かべた。
「……あー、分かった!お兄さん、迷ってるんでしょ?」
にひひと、からかうように笑う少女に、アドリアンはしかし全く動じた様子もなく、むしろ余裕綽々の笑みを浮かべて言い返す。
「いやいや、お嬢さん、この大英雄アドリアンが、こんな散歩コースみたいな場所で迷うだなんて、天地がひっくり返ってもありえないよ。いやほら、君みたいな可愛い女の子のヘビさんと、ちょっとした湿地帯デートを経験しておくのも、英雄としての重要な責務かなーって、ふと思っただけでさ。これも民衆の期待に応えるため、ってやつだね」
アドリアンのそのどこまでもキザな台詞に、蛇の少女は「ふぅん……」と意味ありげに呟き、アドリアンの顔を頭のてっぺんからつま先まで、じろじろと値踏みするように見つめた。
「へぇ、人間でも、私のこの可愛らしさが理解できるんだ。なかなか見所があるじゃない」
「そりゃもう。この俺にかかれば、仏頂面の魔族の将軍も、人間を見下すエルフの守護者も、高慢ちきなドワーフの公爵だって、みんな可愛い女の子に見えちゃって、ついつい声をかけずにはいられないんだよね。あ、そういえば昔、気難しいドラゴンのメスにまでうっかり愛の言葉を囁いちゃって、危うく丸焼きにされそうになったこともあったっけな」
そんなアドリアンの、どこまで本気でどこから冗談なのか分からない軽口に、蛇の少女は一瞬きょとんと呆けたような顔をしたが、次の瞬間には声を上げて楽しそうに笑い出した。
「ぷっ……あははは!おもしろ~い!人間って、意外と冗談が上手いのね!」
(いや、大体本気なんだけどな……)
アドリアンは内心で肩を竦めたが、彼女はひとしきり笑った後、悪戯っぽく輝く瞳でアドリアンを見つめ、言った。
「いいわ、セルペントスの隠れ里まで、特別に案内してあげる。アンタ、なんだか噂に聞く血も涙もない魔族ってやつらとは違って、悪い奴じゃなさそうだし。——ただし」
そして、少女は楽しそうに、白魚のような細い指を一本、アドリアンの目の前に立てて、小悪魔のような笑みを浮かべて口を開いた。
「——道中、私を楽しませるような、とびっきり面白い話を聞かせてくれたら、ね」
その言葉を残し、少女はくるりとアドリアンに背を向け、シュルシュルと音もなく湿地の奥へと進み始める。
アドリアンは、やれやれといった表情で、しかしどこか楽しげに、その後を追うのだった。