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第百三十五話

女王ナーシャの豪奢な私室。その中央には、黒檀と金で装飾された趣味の悪い、しかし高価そうなテーブルが鎮座し、それを挟んで三人と……一人(?)が向かい合っていた。

部屋の主であるナーシャは、堆く積まれたビロードのクッションに、長い蛇の尾をゆったりと絡ませながら寝そべっている。


「……」


その態度は女王としての威厳を必死に繕っているようにも見えるが、切れ長の瞳は油断なくアドリアンとメーラの一挙手一投足を監視していた。

対するアドリアンは、ふかふかのソファーに深々と腰掛け、どこか楽しげな様子だ。メーラはその隣で、緊張した面持ちで姿勢を正している。


そして、そんなピリピリとした空気とは裏腹に、ソファーの傍らには、先ほど案内役を務めた蛇の青年が、置物のように直立不動で佇んでいた。

彼の顔からは血の気が失せ、冷や汗をだらだらと流しながら、小刻みに震えている。


(に、逃げ損ねた……。お、俺どうなっちゃうんだろう……?)


蛇の青年は、内心で悲鳴を上げていた。

彼は、アドリアンと女王ナーシャという、二つの強大な存在に挟まれ、完全に帰るタイミングを逸してしまった、哀れな犠牲者なのである。


最初に沈黙を破ったのは、アドリアンの軽口だった。

テーブルの上には、ナーシャの侍女らしき蛇の獣人が運んできた、深緑色の奇妙な液体がなみなみと注がれた杯が置かれている。


「いやぁ、このお茶、なんだか随分とエキゾチックな色をしてるねぇ。ひょっとして、セルペントス特製の歓迎の毒でも入ってるのかな?だとしたら、随分と手が込んでるじゃないか」


アドリアンのその皮肉めいた言葉を聞いて、ナーシャはわざとらしく一つ咳払いをする。

そして、改めてアドリアンたちを、射殺さんばかりの鋭い眼光で睨みつける。


「ふん、よく分かったのう。その茶を一口でも飲めば、いかなる巨体の魔獣であろうと、たちまち七転八倒して即死する猛毒じゃ。……まぁ、我らセルペントスの者にとっては、ただの美味しいお茶に過ぎんがな」


その言葉に、テーブルに置かれた深緑色の液体が注がれた杯を、ちょうど手に取って飲もうとしていたメーラの動きがカチン、と音を立てて止まった。

そして、無言のまま、そっとその杯をテーブルの中央へと戻す。その顔は、心なしか僅かに青ざめているように見えた。


「大丈夫だよ、メーラ姫。そのお茶には毒は入ってないから。……しかし流石は蛇の女王様、『お客人』に平然とそんな物騒な冗談を言うなんて、そのおもてなしの精神、感服の至りだよ。このアドリアン、感動で涙が出そうだ」


しかし、アドリアンのそのどこまでも人を食ったような軽口を、今度は完全に無視して、ナーシャは低い声で問い詰めた。


「……貴様、一体何者じゃ。そして、何の目的があって、わらわの前にその図々しい面を現した」


あくまで女王としての威厳を保とうとしているのだろう、その声は努めて冷静さを装っている。

だが、アドリアンには、その声がほんの僅かに上擦っているのが分かっていた。


「俺?ただの通りすがりの、ちょっとお節介焼きで、面白い話が好きな、しがない英雄だよ」

「……なに?英雄、じゃと?」


英雄、という言葉を聞いた瞬間、ナーシャの美しい顔に、あからさまな嘲りの表情が浮かんだ。

その切れ長の瞳が、値踏みするようにアドリアンを上から下まで舐め回す。


「くくく……『自称』英雄、とはな。片腹痛いわ。ふん、それで?その英雄様が、このわらわに一体何の用じゃ?まさか、わらわの美しさに惹かれて、一目だけでも拝みに来た、などという殊勝な心がけでもあるまいて」

「いやいや、用件はたった一つしかないんだよねぇ。さっきも言った通り、この大草原に平和を取り戻すこと。そして、その壮大で素晴らしい目的のために、君たちセルペントスにも、ぜひとも協力してもらいたいと思ってるんだ」


アドリアンは、にこやかな笑みを崩さぬまま、しかし有無を言わせぬ口調で「提案」する。

その言葉を聞いた瞬間、ナーシャは先ほどよりもさらに甲高い声で、腹の底から湧き上がるような高笑いを響かせた。


「きょ、協力じゃと!?ぷっ……あははは!笑止千万!片腹痛いわ!このわらわが、どこの馬の骨とも知れぬ、お前のような人間の小童に手を貸すとでも思うてか?身の程を知れ!貴様こそ、今すぐこのわらわの美しい尾の前にひれ伏し、セルペントスへの永遠の忠誠を誓うのが筋であろうが!」


ナーシャは再び殺気をその身に纏い、アドリアンを威嚇する。虹色に輝く長大な蛇の尾が、まるでそれ自体が意思を持ったかのように床を力強く打ち、部屋全体に低く不気味な振動を響かせた。

その凄まじい威圧感に、メーラと、未だ帰る機会を逸したままの哀れな蛇の青年は、揃って顔を青ざめさせ、息を飲むのであった。


「ふむふむ……」


しかしナーシャの凄まじい威圧感にも、しかしアドリアンは全く動じる様子を見せない。

それどころか、どこか楽しげな表情すら浮かべている。


「そう怖い顔をしないで欲しいなぁ、女王様。そんなに殺気を撒き散らさなくても、君の魅力は十二分に伝わっているからさ。……それにしても、その自慢の虹色の尾、今日も一段と綺麗に輝いているねぇ」


そして、にやりと笑って言った。


「まさかとは思うけど、子供の頃みたいに、毎朝一生懸命、七色の絵の具でペイントしてたり……なんてことは、もう流石にしてないよね?あの頃は『地味な灰色なんて蛇の女王に相応しくない!』なんて泣きべそかいてたけど、今はもう立派な女王様なんだからさ」


アドリアンが、まるで昔馴染みの友人に語りかけるような、親密で、しかし確実に相手の神経を逆撫でするような口調でそう言った瞬間──それまで威圧的に床を打っていたナーシャの蛇の尾の動きが、ピタリと止まった。

そして、彼女の切れ長の瞳が、ありえないものを見たかのようにカッと見開かれ、その顔からは血の気が失せ、明らかに狼狽しているのが見て取れた


「え?今なんて……?ナーシャ様の尾が……ペイント……?」


傍らに控えていた蛇の青年が、今何か信じられない、そして聞いてはいけない言葉を聞いてしまったかのように、恐る恐るアドリアンに聞き返した。


「シャアッ!」


しかし、その言葉が彼の口から完全に発せられるよりも早く、凄まじい風切り音と共に、ナーシャの太くしなやかな蛇の尾が青年の顔面を的確に捉えた。


「うぎゃあっ!?」


乾いた音と短い悲鳴。哀れな蛇の青年は、部屋の壁まで吹き飛び、そのまま気を失ってずるずると床に崩れ落ちた。

ナーシャは、顔を真っ赤に染めたり青くしたりと忙しなく変化させながら、必死に言葉を紡ぎ出す。その声は上擦り、もはや女王の威厳など欠片も残っていない。


「な、ななな、何を根も葉もないことを言っておるのじゃ、貴様は!?わ、私の……あ、いや……わ、わらわのこの美しい虹色の尾は、生まれながらにして七色の光を放つ、セルペントス族の至宝でおじゃるよ!?ペ、ペイントなどと……そ、そのような下賤な真似、このわらわがするはずなかろうがぁ!」


あまりの動揺に、妙な語尾まで飛び出す始末。

そのあまりにも人間くさい、そしてどこか滑稽な女王の姿を、メーラはただ呆然と見つめ、アドリアンは昔を思い出すかのように、懐かしさと面白さが入り混じったような、複雑な笑みを浮かべて眺めていた。

そしてアドリアンは、まるで駄々をこねる子供をあやすかのように、さらに言葉を続ける。


「いやぁ、それにしても、君のその威厳のある話し方、昔から本当に変わらないよねぇ。でもさ、本当に困った時とか、ものすごーく焦った時なんかは、決まって早口になって、尻尾の先っちょが、ピクピクピクッて小刻みに震える癖があったっけ。……あ、いや、これはただの独り言だよ。うん、今の状況とは全く関係ないから、ぜーんぜん気にしないでくれよな!」


アドリアンは、わざとらしく首を振りながら、しかし確実にナーシャの心の奥底を抉るような言葉を、悪戯っぽい笑みと共に投げかける。

その言葉は、ナーシャにとって、先ほどの「ペイント疑惑」以上の衝撃だったのかもしれない。

彼女の切れ長の瞳が、信じられないものを見るかのように大きく見開かれ、そして次の瞬間には、金縛りにでもあったかのように、ピクリとも動かなくなってしまった。

ただ、アドリアンの指摘通り、美しい虹色の尾の先端だけが、かすかに、しかし確実にピクピクと震えているのが見て取れた。


「まぁ、細かいことは抜きにしてさ。俺たちはなにも、君たちセルペントスと敵対しに来たわけじゃないんだ。むしろ、俺としては、君とはもっと……そうだな、昔みたいに、色々と『深い仲』になれるんじゃないかなって思ってるんだよ」


そう言って、アドリアンは意味深な、それでいて悪戯っぽい笑みをナーシャに向けた。

ナーシャは、混乱の色を隠せないまま、必死に平静を装おうと、震える声でアドリアンに問い詰める。


「……き、貴様……一体、何を訳の分からぬことを言っておる……。わらわと貴様が、いつ『昔みたいに』などという、馴れ馴れしい関係であったというのだ……!」


その言葉に、アドリアンはふっと表情を和らげ、どこか遠くを見るような、懐かしむような目をした。


「そうだなぁ……それは、この大草原の、この世界の話じゃないんだ。もっとずっと昔……君がまだ、こんなに気高くて立派な女王様になる前の、もっと……そう、無邪気で、泣き虫で、それでいて誰よりも可愛らしかった頃の話さ」


アドリアンがそう呟いた瞬間、彼の目の前にいる威厳に満ちた蛇の女王ナーシャの姿が、ふっと薄れ、大きな瞳にあどけなさを残す、素朴な蛇の少女の面影が重なって見えた。


「そう、あの頃のね──」


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