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第百三十四話

湿地帯、その最も奥深く。巧妙に張り巡らされた木々の枝や、意思を持つかのように絡み合う蔓草が、天然のカーテンとなって外部の視線を遮っている。

その自然の迷彩の向こうに、セルペントス族の隠れ里は静かに息づいていた。

家々は周囲の木々に溶け込むように建てられ、その存在を見つけることすら容易ではない。


そんな、異世界に迷い込んだかのような光景の中に、不意に二つの人影。


──アドリアンとメーラである。


「す、すごい……!」


アドリアンの腕の中からそっと降ろされたメーラは、目の前に広がる光景に、ただただ感嘆の息を漏らした。

幾重にも重なる木々の間から、独特の意匠を持つ家々が垣間見える。静かで、どこか妖しい美しさを秘めた隠れ里の様子に、彼女は目を奪われていた。


「メーラ姫、綺麗なドレスを泥だらけにしないようにね。まぁ、俺の洗浄魔法で一瞬でピカピカになるけど、お転婆姫様のお世話も騎士の務めってことで、後でたっぷり手間賃は請求させてもらうからさ。お代は……メーラ姫の恥ずかしい昔話で!」


アドリアンのいつもの軽口に、メーラが何かを言い返そうとした。しかし、その言葉が口から出る直前、彼女はピタリと動きを止めてしまう。

その視線は、アドリアンではない、別の方向へと注がれていた。


「?」


アドリアンが不思議に思い、メーラの視線の先を追うと……。


「……え、に、人間……?」


そこには、木の陰からひょっこりと顔を出した、一人の若い獣人がいた。腰から下はしなやかな蛇の尾を持つ、紛れもないセルペントス一族の青年だ。

年の頃はメーラと同じくらいだろうか、その大きな瞳は驚きに見開かれ、アドリアンとメーラの姿を交互に見て、ぱちくりと瞬かせている。

どこか気弱そうで、戦士というよりは里の若者といった風情だ。


(み、見つかった!?)


メーラの心臓がドキリと跳ねる。こんな隠れ里の奥深くまで侵入してしまったのだ、敵と見なされても仕方がない。


だが、彼女は直後に思い出す。


——アドリアンは、ここへ戦いをしに来たわけではないのだと。


同盟の作戦会議で、アドリアンは確かに「セルペントスには俺一人で行ってくるよ」と宣った。周囲が「服従させに行くのか」と解釈する中、彼は笑ってこう付け加えたのだ。


『もちろん、力ずくで、なんて野蛮なことはしないさ。紳士的に、あくまで『話し合い』で、彼らを説得するだけだよ。ちょっとした世間話のついでにね』


その言葉を聞いて、メーラは心の底から安堵の息を吐いたのだった。

だから大丈夫、きっとアドリアンなら、今回も上手くやってくれるはず——。


メーラがそんなことを考えていると、アドリアンは木の陰から顔を出したセルペントスの若者に向かって、ひらひらと片手を上げ、にこりと人懐っこい笑みを浮かべて言った。


「やぁ、こんにちは!調子はどうだい?そこの元気なヘビくん!」


あまりにも陽気で、そして馴れ馴れしいとしか言いようのない態度に、蛇の青年は戸惑ったように大きな目をさらにぱちくりとさせた。

警戒するでもなく、かといって歓迎するでもなく、ただただ困惑しているようだ。

しかし、アドリアンの勢いは止まらない。彼はそのまま旧知の友人にでも会ったかのように、青年の肩にポンと手を置き喋り続ける。


「今日はいい天気だねぇ。日差しも柔らかくて、絶好の散歩日和って感じだ。あ、でも、この隠れ里は日の光なんて殆ど入ってこないから、晴れてても曇ってても、あんまり関係ないか。こりゃ失敬」

「え、えーっと……あ、あの……?」


青年は、アドリアンのその掴みどころのない態度に、ますます困惑と怪訝な表情を浮かべる。

彼の口からは、シュルル、と蛇特有の二股に分かれた舌が無意識に伸び縮みし、その内心の戸惑いを如実に表しているようだった。


「ところで青年、知ってるかい?実は俺たちね、キミたちの女王様である、ナーシャさんに直々にお呼ばれされて、はるばるこんな秘境の奥の奥までやって来たっていうわけなんだ。いやぁ、招待状がなかったら、絶対たどり着けなかっただろうなぁ、この隠れ里には」

「え?ナーシャ様に、ですか……?」


アドリアンが臆面もなく言い放ったその言葉に、青年の表情がわずかに変わった。

先ほどまでの完全な不審者を見るような目から、警戒心が幾ばくか和らぎ、代わりに驚きと興味の色が浮かび上がってくる。


「なるほど。女王様のお客人でしたか。失礼いたしました。僕はてっきり侵入者かと……」


蛇の青年は、ようやく緊張を解いたように、ぺこりとお辞儀をした。


「あはは、面白いことを言うじゃないか、ヘビくん。セルペントスの隠れ里といえば、ヴォルガルドの狼さんも、アクィラントの鷲さんも、血眼になって探しても見つけられないっていう、伝説の秘境じゃないか。侵入者が来れるわけないだろ?」


アドリアンは、当然のように、しかしどこか青年を試すような口調で言う。


「この里を発見できるのは、女王ナーシャ様が自ら招き入れた者だけ……つまり、俺たちはナーシャ様に正式に招かれた客人ってわけだ。──ねぇ、メーラ?」

「え!?あ……そ、そうですねぇ!?ナーシャ様から、それはもう、丁重なご招待を賜りまして……はい!」


アドリアンからの突然の無茶振りに、メーラは心臓が飛び上がりそうになるのを必死で堪え、なんとか笑顔を作って調子を合わせる。


(女王様に招かれた……?そ、そうだったっけ……?)


メーラは必死で記憶の糸を手繰り寄せようとするが、そんな約束があったとは到底思えない……。


「女王さまのお屋敷は、この里の中でもひときわ目立ちますので、すぐに分かるとは思いますが……よろしければ、僕がご案内いたしましょう。この里は入り組んでおりますし、不慣れな方は思わぬ沼地に足を取られると思うので」


青年は、アドリアンたちの言葉を信じたのか、親切に申し出てくれた。


「やぁ、これはこれは、なんと親切な青年だろう!うーん、実に有望だ、見どころがあるね!特にその艶やかな緑色の鱗、とってもクールでかっこいいじゃないか。俺もそんな鱗、欲しいなぁ」

「あはは、お客様は、なかなか面白いお方ですねー」


アドリアンは青年の肩を軽く叩き、蛇の青年もまた、警戒心を解いたのか、朗らかな笑みを浮かべる。そうして、二人は仲睦まじげに言葉を交わしながら隠れ里の奥へと歩き始めた。

メーラは、あまりにも自然なアドリアンのペースに若干の戸惑いを覚えつつも、首を傾げながら、アドリアンから離れないようにして、その後ろをちょこちょことついていく。


そうして、蛇の青年に案内されるまま、隠れ里の奥へと進むこと暫し。

木々の間を縫うようにして作られた小道の先に、ひときわ異彩を放つ豪奢な家屋が見えてきた。

周囲の家々が、巧妙にその姿を隠しているのに対し、その家屋だけは磨き上げられた黒檀の太い柱が天を突き、壁には金糸銀糸を用いたであろう精緻な蛇の紋様が煌びやかに施されている。


それを見て、アドリアンはわざとらしく目を見張り、やれやれと肩を竦めながら言った。


「おっと、これはこれは……。わざわざ案内してもらわなくても、一目で分かったね。いやはや、素晴らしい隠れっぷりだ。普通の隠れ家とは一線を画す、目立つという概念を一周振り切って、逆に『これだけ目立ってれば誰も屋敷だとは思わないだろう』っていう高度なカモフラージュを狙ってるのかな?実に独創的で素敵だねぇ!」


アドリアンの皮肉たっぷりな言葉に、案内役の青年は困ったように眉を下げ、言い淀んだ。


「えーっと……その……ナーシャ様は、煌びやかなものをお好みになる方なので……はは……」


乾いた笑い声には、族長への畏敬と、隠しきれない複雑な想いが込められているようだった。

メーラもまた、そのあまりにも自己主張の激しい屋敷を見て、唖然としていた。


(な、なんだろう、このお屋敷……隠れ里っていうから、もっとこう、ひっそりとした感じなのかと思ってたけど……全然隠れてない)


どうやら、セルペントスの女王様とやらは、随分と派手好きなお人……いや、お蛇らしい……。

三人は、豪奢な屋敷の入り口へとたどり着いた。青年が恭しく扉を開け、アドリアンたちを中へと促す。


「女王様!お客人をお連れいたしました!」


青年が、緊張した面持ちで屋敷の奥へと声を張り上げる。

そして、青年を先頭に、アドリアンとメーラは、外観に負けず劣らず豪華絢爛な装飾が施された屋敷の中を、ゆっくりと進んでいく……。

そして、一際豪華で、悪趣味なまでに装飾過多な両開きの扉を押し開けると、そこには——。


「……何事じゃ!今は取り込み中じゃと申したであろうが!」


部屋の中央、堆く積まれたクッションの上に、とぐろを巻くようにして鎮座する人影があった。

陽光を浴びて七色に輝く美しい鱗に覆われた長大な蛇の尾。その尾を器用に使い、何枚もの羊皮紙でできた地図を広げ、苦虫を噛み潰したような表情で睨みつけている。

上半身は、煌びやかな宝石や金細工で彩られた豪奢な衣装を纏った、妖艶な美女の姿——この隠れ里の主、女王ナーシャである。


しかし、その表情はの悩ましい問題でも抱えているのか、ひどく不機嫌そうな声色だ。

アドリアンたちが入ってきたことにも気づいていないのか、視線すら向けようとせず、ただ地図の一点を凝視したままである。


「あ、あの……そのぉ……ナーシャ様……お、お客様を……」


女王の機嫌が著しく悪いことを察したのか、案内役の青年はすっかり怖気づいてしまい、声がみるみるうちに小さくなっていく。

しかし、そんな青年の肩を、アドリアンがポンと軽く叩き、いつもの人懐っこい笑みを浮かべて囁いた。


「やぁ、ありがとう、ヘビくん。ここまで案内してくれて助かったよ。ここから先は、俺が喋るから、大丈夫だよ」


その言葉に、青年は心の底からホッとしたような表情を浮かべ、深々と頭を下げる。


「わらわは今、忙しいのじゃ!あの不埒な狼どもと、空を飛び回るだけの忌々しい鷲、それについ最近現れたという、得体の知れぬ愚かな人間とやらを、どうやってまとめて血祭りに上げてやるか、その策略を練るのにな!」


ナーシャは依然としてアドリアンたちに背を向けたまま、地図を睨みつけ、牙を剥かんばかりの冷たく、殺意の籠った声色で叫んでいる。

その威圧的な声に、青年だけでなく、アドリアンの背後に隠れるようにしていたメーラも、びくりと肩を震わせ、恐れおののいた。

だが、アドリアンはそんなナーシャの剣幕にも全く臆することなく、穏やかな声で言い放った。


「女王様。その『愚かな人間』が、わざわざこんな秘境の奥まで足を運んで侵入してきたので、こうして御前……いや、この場合は御後ろ?に罷り越しましたので、是非とも一度こちらを振り返っていただければと存じます。おそらく、机上で小難しい策略を練るより、実際にこうしてお話しした方が、色々と手っ取り早いと思われますので」


アドリアンの、どこまでも人を食ったような言葉に、部屋が静寂に包まれた。

そして、ナーシャの虹色に輝く長大な蛇の尾が、鞭のようにしなり、その上半身をぐるん、と凄まじい勢いで振り返らせる。


「……!?」


そして、アドリアンの姿をその切れ長の瞳に捉えた瞬間——ナーシャの時間が、完全に止まった。

その美しい顔は見開かれたまま固まり、先ほどまでの怒りはどこへやら、ただただ信じられないものを見るかのような、驚愕の色だけが浮かんでいる。


そんな女王の反応など初めから分かっていたとでも言うように、アドリアンはにこりと人の良い笑みを浮かべて言った。


「どうも、その噂の人間です。いやぁ、ヘビの女王様におかれましては、隠れ里にお住まいでありながら、そのお屋敷は全く隠れる気が微塵もないという、その斬新なスタイルに、このアドリアン、いたく感銘を受けましたよ。素晴らしい自己主張だなぁ、ってね!」


アドリアンのその言葉を聞き終えるか終えないかのうちに、ナーシャの蛇の尾に器用に握られていた羊皮紙の地図が、パサリ、と力なく床に滑り落ちた。


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