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第百五十三話

風の衣を纏ったレフィーラが、ギエンへと舞うように距離を詰める。

大精霊の威圧感に、ギエンは顔を引き攣らせながらも、両手に禍々しい闇の力を収束させた。


「……いいでしょう。この私がお相手してしんぜますよぉ……!」


ギエンの手から、無数の闇の槍が放たれる。それは、先ほど屈強なヴォルガルドの戦士たちをいとも容易く屠った、必殺の一撃のはずであった。

だが、大精霊の力を宿したレフィーラの前には、その攻撃はあまりにも無力──。


「!?」


彼女が、すっと息を吸い込むだけで、その身を包む聖なる風が渦を巻き、全ての闇の槍を、その先端が彼女に触れる前に、綺麗さっぱりとかき消してしまったのだ。


「なにっ!?」

「──次は、こっちの番だよ」


レフィーラの手に持つ弓から放たれた無数の風の刃が、ギエンへと殺到する。

ギエンは、慌てて闇の障壁を展開してそれを防ぐが、障壁はあっけなく砕け散り、彼の身体は大きく後方へと吹き飛ばされた。


「がっ……は!?」


ギエンの身体に、無数の切り傷が刻まれていく。

もはや皮肉な笑みを浮かべている余裕などなかった。彼の表情から、いつもの余裕や嘲笑が完全に消え失せ、純粋な驚愕と恐怖が浮かび上がる。


(馬鹿な、馬鹿な、馬鹿な!これが、大精霊の力……!?聞いていない!『あの御方』からも、このような報告は一切……!こ、このままでは……!くそ、『アレ』はまだか……!?)


ギエンは必死に闇の力でその身を守りながら、逃げ惑う。

彼がこれほどまでに狼狽し、恐怖したのは生まれて初めてのことであった。

自らの完璧な計画が根底から覆されようとしている。その事実が彼の心を恐怖で満たしていた。


必死に攻撃するも攻撃は風によって掻き消され、レフィーラが一度動くだけで凄まじい暴風が巻き起こり、余波だけで風の刃が襲い来る。

戦いにすらなっていない。これは、蹂躙だ──。

だが、そんな死の恐怖が、皮肉にも彼のハイエナとしての生存本能を極限まで研ぎ澄ませた。


(……?今、一瞬……)


絶望的な状況下でギエンの狡猾な観察眼が確かに捉えたのだ。レフィーラの翠色に輝いている瞳が、ほんの一瞬だけ苦痛に歪んだのを。

そして──一瞬。彼女の美しい額に浮かんだ、玉のような汗。それが彼女が放つ魔力の光を浴び、音を立てて蒸発していのを……。


些細な、他の誰一人として気づくことのないであろう僅かな兆候。

それは──風の女神と化したエルフの少女のほんの僅かな、綻び。


次の瞬間、ギエンの顔に浮かんでいた恐怖の色は不気味で自信に満ちた、いつもの嘲笑へと変わった。


「ふぅ」


それまで必死にレフィーラの猛攻から逃げ惑っていたはずのギエンは、ぴたりとその場に足を止めた。

ギエンは内心で舌なめずりをすると、両手を禍々しく彩っていた闇の爪を霧のようにかき消す。次には、全てを諦めたかのように両手を大きく広げ無防備な姿をレフィーラへと晒した。

そしてゆっくりと膝をつき、言った。


「参りました……!参りましたぞ、エルフの守護者様!降参、降参致します!」


ギエンの声は心からの敗北を認めたかのように、殊勝に戦場に響き渡る。


「え……?こ、降参……?」


ギエンの殊勝な態度に、レフィーラはとどめを刺そうと構えていた弓を、思わず下ろしてしまった。

それを見逃さず、イルデラとゼゼアラが、そしてヴォルガルドの兵士たちが地面を揺るがさんばかりの勢いで叫んだ。


「騙されるんじゃねぇ、レフィーラ!」

「奴の言葉に耳を貸すな!こいつは、決して、降参などする男ではない!」


だがギエンは、そんな声すらも自らの策略のうちに取り込むかのように、さらに畳みかける。


「ええ、ええ!皆様が仰る通り、私は、許されざる大罪を犯しました!この命、ここで貴女様に刈り取られても、何ら文句はございません!ですが、ですが……!このまま死ぬ前に、せめて……!せめて、私が引き起こしてしまった、この大草原の混乱の、本当の理由を……そして、その裏で糸を引く、『とある御方』の正体だけでも、貴方がたにお伝えし……未来へのささやかな贖罪とさせて頂きたいのです!」


ギエンのその、真に迫った言葉。

そして謎の存在を匂わせるその響きに、レフィーラは反応せざるを得なかった。


「大草原の混乱の、本当の理由……?『とある御方』って……それって」


レフィーラが言葉を発した瞬間。それまで彼女の全身で荒れ狂っていた翠色の風の衣がふっと勢いを失い、輪郭がわずかに揺らいだ。

同時に、彼女の瞳から翠の輝きが一瞬だけ薄れる。


(──やはり!)


ギエンは勝利を確信し、口元を歪める。

そして彼が仕掛けた言葉に完全に乗せられたレフィーラが、答えを求めて無防備に一歩前に踏み出した。

まさに、その時だった。


「——シャアァッ!!」


ギエンの身体が、それまでの満身創痍の演技が嘘であったかのように凄まじい速度で弾かれた。

しかし、彼が向かったのは目の前のレフィーラではない。

彼女の背後、固唾をのんで成り行きを見守っていた小さなウサギの少年——モルの元であった。


「!?」


誰も反応できない。

唐突な、そしてあまりにも速いその動きにゼゼアラも、イルデラも、ただ目を見開くことしかできない。

ギエンの禍々しい闇の爪が、モルの小さな喉元に音もなく容赦なく突きつけられる。


「ひひ……ひひひひ……!!」


ハイエナの心底楽しげな高笑いが、戦場に響き渡った。


「純真でお優しいエルフのお嬢様はこれだから扱いやすい!『改心』ですと?馬鹿め!改心なんざ、この世で最も愚かな弱者のすることなんだよぉ!!」


ギエンの甲高い嘲笑が、戦場に響き渡る。

その腕の中では、モル少年が何が起こったのか理解できないといった表情で呆然と喉元に突きつけられた闇の爪を見つめていた。


「てめぇ……!モルを離しやがれ!」

「このハイエナ野郎……!」


両軍の兵士たちが、怒りに任せて武器を構えギエンを睨みつける。

だが、その中心で誰よりも怒りに震え、そして誰よりも深く後悔していたのはレフィーラであった。


(──油断した。みんなの言う通り、私が気を抜いたから……!)


ほんの一瞬の甘さが、最悪の事態を招いてしまったのだ。

しかし、彼女はまだ、守護者としての誇りを失ってはいない。レフィーラは再び手に精霊弓を構える。その矢先は、ギエンの眉間を確かに捉えていた。


「……今の私なら、アンタがモル君の首を掻き切るよりも早く、アンタの頭を吹き飛ばせる」


その声には揺るぎない殺意を宿していた。それは、決して虚勢ではない。

大精霊の力を宿した、エルフの守護者。その一矢の速さと正確さは、ギエンですら反応できないであろうことを、誰よりもギエン自身が誰よりもよく理解していた。


だが——。


「ひひ……そうかもねぇ……ひひひひ……!」


ギエンは必殺の矢を向けられながらも、全く臆することなく、喉の奥で不気味な笑い声を漏らす。

余裕のある、そして不気味な態度に、レフィーラはこの場の誰よりも早く、本質的な違和感を嗅ぎ取っていた。

人質がいるとは言え、大精霊の力の前では意味がない。


「どうして、貴方はそんなにも平気で笑っていられるの?」


静かに。しかし、鋭く。

レフィーラの問いに、ギエンはにたり、と。待ち望んでいた言葉をやっと聞けたとでも言わんばかりに心底楽しそうに笑って答えた。


「どうしてって?それはですねぇ……」


ギエンの瞳が煌めいた。


「いくらエルフの国の『守護者』様だと言っても、所詮はただの小娘。小さな器で大精霊という、巨大な力を長々と宿し続けられるわけがないと……気付いたからですよぉ」

「!?」


ギエンの言葉と、ほぼ同時であった。

レフィーラの全身を包んでいた、絶対的な万能感が、潮が引くかのように急速に失われていく感覚が襲う。


「な……なに……?これ……」


脳内に、大精霊シルフィードの声が響いた。


──愛しいエルフの子……。ごめんなさい。これ以上は、貴女の身体がもたないわ──


(え……?待って、そんな……!今、力がなくなったら……!)


レフィーラの焦りは、無情にも現実のものとなる。

次の瞬間、レフィーラの全身を包んでいた絶対的な万能感と、翠色の風の衣が陽光に溶ける朝霧のように、輪郭から薄れ始めていく。


「ま、待って……!お願い、まだ行かないで……!」


レフィーラは必死に、離れていこうとする大いなる力を繋ぎ止めようとする。

だが、その願いも虚しく、激しく風で靡いていた彼女の翠色の髪は、輝きを失い、元の穏やかな金色へと戻り、力なくその肩に垂れた。

全身を満たしていた、世界そのものと一体化したかのような感覚が、急速に失われていく──。


「くっ……!?あ……力が……身体から……抜けて……」


大精霊の強大すぎる力をその身に宿した代償として、凄まじいまでの虚脱感と、魂が根こそぎ抜き取られたかのような疲労感が、彼女の全身を襲う。


「あっ……」


レフィーラは、もはや立っていることすらできず、その場に膝から崩れ落ちた。

その様子を、ギエンは満足げに、頷き見ていた。


(──上手くいった。甘言を弄し、人質を取り……上手く時間を稼げた)


大精霊さえいなくなれば、もう怖くはないのだ。


「さて、さてぇ。舞台の主役が交代したところで……この無力で可愛らしい元主役殿を、どう料理してやりましょうかねぇ……?……ん?」


ギエンが禍々しい爪をレフィーラへと向け、一歩踏み出そうとした、まさにその時。


「ほう……?これはこれは……」


彼の前に、分厚い獣たちの壁が立ちはだかる。

同盟軍の犀も、豹も、熊も。そして……ヴォルガルドの狼も、

敵味方の垣根を越えて、膝をつくエルフの少女を守るように、彼女の前で仁王立ちになっていたのだ。


「てめえ、周りが見えてねぇのか?」

「そうだ。彼女の力がなくとも、貴様ごとき、我らで十分だ」


その壁の最前列には、イルデラとゼゼアラ、そしてフェンブレの姿もあった。


「……てめえは、生かしちゃならねぇやつだ。他の誰でもねえ、てめえだけはな」


イルデラが、獰猛な殺意を込めて、低く唸る。


「同感だ。こいつだけは、必ず殺す」


ゼゼアラもまた、絶対的な殺意を金色の瞳に宿していた。


「そ、そうだ!こいつだけは絶対に許さん!(こう言っておいた方が、後々の受けがいいだろ……)」


フェンブレもまた、必死に空気を読み、震える足で槍を構えるのであった。


「くくっ……ははは!!」


だが、そんな獣人たちの純粋な殺意の壁を前にして、ギエンは痩身をくの字に曲げて甲高い嘲笑を上げた。


「いやはや、皆さま、お忘れではございませんか?可愛らしいウサギの命が、今この私の手の中にあるということを。あんまり私を怒らせると、この子の細い首が、胴体から離れてしまいますぞぉ?」


そんなギエンの脅しに、イルデラは鼻で笑って言った。


「そのウサギの小僧だってな、さっき、立派に名乗りを上げたんだ!てめえと違って、とっくの昔に戦士としての覚悟はできてんだよ!」


その言葉に呼応するように、ギエンに喉元を掴まれながらも、モル少年は瞳から一切の意志を失っていなかった。

恐怖に震えながらも、彼は真っ直ぐに、レフィーラやイルデラ、ゼゼアラたちを見つめる。

声は出せない。

だが、瞳は確かにこう語っていた。


——僕のことは、気にしないでください!彼を、討つのです!と。


気高く、そして幼い戦士の覚悟を前に、ギエンは初めて表情から嘲笑を消した。


──くだらん。

この期に及んで、このガキも、この獣人たちも……誇りの為に、死ぬというのか。

ギエンの胸中に、強烈な不快感が巻き起こった。


「……ふん」


ギエンは忌々しげに呟くと、再び獣人たちへと視線を戻した。


「なるほど、なるほど。貴方たち相手では、この可愛らしいウサギの族長殿は、人質としての価値はない、と。……そういうことですかな?」


その表情からは、不気味な余裕が戻ってきている。


「……確かに。いくら『あの御方』から、この身に余るほどの力を賜っている私でも、この数相手に真正面から戦って勝てるほど、私は自惚れてはいませんよ」


敗北を認めたかのような言葉に、獣人たちが一瞬、訝しげな表情を浮かべる。

だが、ギエンはそこで、にたり……と。

口元を三日月のように、歪に吊り上げた。


「──ですが」


彼の全身から再び、禍々しい闇のオーラが立ち上る。


「私の頭脳はねぇ!どこぞのノーマとかいう、後先考えない間抜けとは、作りが違うのですよ!策を弄するならば、常に二手、三手……いえ、この私くらいになりますと、ちゃんと、ちゃーんと、『四の矢』まで用意しておくものなのですよ!ひひ……ひひひひ!!」


余裕綽々で、そして意味不明な態度に、獣人たちは困惑する。

これほどの絶体絶命の状況で、このハイエナはどうやって挽回するというのか。

もしや、恐怖のあまり狂ってしまったのか——?

戦場にいる誰もが、そう訝しんだ、まさにその時であった。


「あぁ……ちょうど来たねぇ……!」


ギエンが、大げさに芝居がかった仕草で、すっと天を指さした。

それと同時だった。

上空から、おびただしい数の、地を揺るがすほどの巨大な羽ばたきの音が、戦場全体に響き渡り始めたのだ。


「なっ……!?」


両軍の兵士たちが、その不吉な羽ばたきの音に、弾かれたように空を見上げた。

そして、そこに広がっていた光景に、誰もが、言葉を失う。


「な、なんで……」


──空が、埋め尽くされていた。

それは雲ではない。鋼鉄の如き、無数の巨大な翼。


「──アクィラントだ!アクィラントの軍勢が来やがった……!」


誇り高き鷲の獣人——アクィラントの大軍勢が、天を支配するかの如く、整然とした編隊を組んで上空に布陣していたのだ。

そして、その中心には……。


「……」


悠然と腕を組み、眼下の地獄絵図を冷徹な眼差しで見下ろす、大族長ゼファーの姿もあった。


「こんなタイミングで……嘘だろ……!こっちは、もうズタボロなんだぞ……!」

「くそっ!あそこには、ゼ、ゼファーまでいやがるじゃねえか……!?」


突然の強大な第三勢力の乱入に、それまで戦っていた獣人たちは右往左往するばかり。

ギエンはその光景に、心底満足げに頷くと高らかに宣言した。


「私が、この私が、次の手を打っていないとでも思ったか!!このような時の為に、このギエン……アクィラント大部族とも、ちゃーんと、固い固い『友誼』を結んでおいたのですよぉ!」


天には、無傷にして精強なる天空の軍勢。

地には、疲弊しきり、満身創痍の二つの獣の群れ。

そして、闇の爪を突きつけられたモル。


絶望的な光景が大草原の空の下に、広がっていた。


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