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第百五十四話

天を仰いだ獣人たちの目に映ったのは、空を黒く埋め尽くさんばかりの無数の翼。

風に乗り、悠然と一糸乱れぬ陣形を保つ、鷲の獣人——アクィラントの大軍勢。

その一体一体が、疲弊した眼下の兵士たちを、冷徹な狩人の目で見下ろしている。


「く……くそっ……!」

「鷲どもが大人しいからおかしいと思っていたんだ……!この時を、狙ってやがったのか!」


そして軍勢の中心には威厳を放つ、一人の若き鷲の獣人が、腕を組み静かに佇んでいた。

鍛え抜かれたその肉体と勇壮な顔つきは、彼がアクィラントの頂点に立つ者——大族長ゼファーであることを、雄弁に物語っている。


「ひっひひ……!そう、その顔!その顔が見たかったのですよ!」


獣人たちの絶望を、極上の酒のように味わいながらギエンは満足げに頷く。


「天空の王者アクィラントもまた、私の友人でございます!……まぁ、セルペントスの蛇どもは、その陰気な隠れ家が見つからなかったので、交流できませんでしたがねぇ」


ギエンは、そこで一度言葉を切ると、さらに追い打ちをかけるように高らかに宣言した。


「ですが、驚くのはまだ早い!これだけではございません!私が今まで、物資を供給してきた『友人』たち……大草原に散らばる全ての部族にも、既に召集をかけております!そう、今この瞬間にも、お前たちの息の根を完全に止めるため、この数の何倍もの軍勢が、続々とこの場所へ向かってきているのですよ!」


すべてはヴォルガルドの長であるグレイファングを、そして彼に与する可能性のある全ての芽を確実に、完全に摘み取るために──。

これこそがハイエナの獣人、ギエンが周到に張り巡らせた、巨大な包囲網であった。


天を覆うアクィラントの軍勢と、今まさにこの地へ向かってきているという、さらなる増援。

あまりにも圧倒的な戦力差。もはや勝敗は決した。


万事休す——。


戦場にいる誰もが、その言葉を脳裏に刻み付けた。

しかし、それでも彼らは獣の誇り高き戦士。


「けっ、上等じゃねえか!どうせ死ぬなら、派手に散ってやるぜ!」

「……ああ。最後にあの卑劣なハイエナの首に、爪を立ててくれる」


イルデラとゼゼアラは、満身創痍でありながらも、その闘志を些かも衰えさせることなく、眼前の絶望を真っ直ぐに睨みつける。


「ひ、ひぃ!ゼ、ゼファー様!どうか、どうかお慈悲を!わ、わしは、こいつらに騙されていただけなのです!どうか、命だけは……!」


対照的に、フェンブレはいち早く天にいるアクィラントの族長ゼファーに向かって、それはもう見苦しい命乞いを始めていた。

それぞれの覚悟が交錯する戦場でただ一人、瀕死のグレイファングだけは、天にいる旧知の顔をじっと見つめていた。


「……」


──隻眼に宿る光が、何を伝えようとしていたのか。それはゼファーにしか分からない。

辺りは絶望的な状況にあった。だが、獣の誇りは、まだ折れてはいなかった。


「かかってこい、鳥野郎ども!」

「あぁ、ヴォルガルドの牙は、最後の一本になるまで、折れはせんぞ!」


ヴォルガルドの兵士も同盟軍の兵士も、再び武器を構え最後の抵抗を試みようと天に向かって雄叫びを上げる。

そんな絶望的な状況にありながらもなお、闘志を失わない獣人たちの姿。そして、人質だというのに命乞いをしようとしない、モルの姿。

それをギエンは、出来の悪い茶番でも見るように、嘲笑した。


「まぁだ諦めないのかぁ……まぁ無駄ですけどね。──私は、準備を怠らない。この世で負けるのは、いつだって、準備を怠った愚か者だけなのですから!ひっひひ!」


全てを見下したような甲高い笑い声が、戦場に響き渡る。

ギエンの言葉を合図にするかのように、天空を支配していたアクィラントの王が巨大な翼を広げ、ギエンの前へと音もなく静かに舞い降りた。


誰もが息を呑む。

アクィラント族長ゼファーは、眼下に広がる凄惨な戦場の跡を冷徹な瞳で一瞥すると、重い声でギエンに問いかけた。


「ギエンよ。この者たちが、大草原を混乱に陥れている、悪しき存在か」


その問いに、ギエンは待ってました、とばかりに身を深く折り曲げ、熱っぽく語り始める。


「えぇ、えぇ!まさしく、その通りでございます、ゼファー様!この者たちこそ、大草原に無益な争いの炎を撒き散らす、諸悪の根源!こいつらを討ち、その勢いのまま他の大部族、そして最後に、玉座にふんぞり返るだけの獅子王リガルオンを打倒すれば……この大草原は、正しき指導者である、貴方様のものになるのでございます!」


ギエンの、歪んだ甘言。

それに最初に異を唱えたのは、小さな……だが、誰よりも強い意志を持つ、ウサギの少年だ。


「……違います!僕たちは、この大草原の争いを収めるために……!」


ギエンの腕の中で、モルが震えながらも、必死に声を張り上げた。

だが、その言葉は天空の王ゼファーの、ただ静かな一瞥によって遮られる。


「……」

「っ!」


王者が放つ絶対的な覇気。それは、モルの小さな身体を、そしてその心を、完全に圧倒した。


「ひっひひ……!無駄ですよ、無駄!お前が何を言おうと、無駄なのさぁ!まぁ、何も言えないようだけどねぇ……?」


ギエンはそんなモルの様子を見て、勝ち誇ったように甲高い嘲笑を漏らす。


(だめだ……彼の前では、声が……でない……!!)


ギエンの、全てを嘲笑うかのような甲高い声。天空の王ゼファーから放たれる、そこにいるだけで魂まで凍てつかせそうな、絶対的な覇気。

二つの巨大な圧力に圧迫され、モルの小さな心は張り詰めた糸のように、今にも切れそうになっていた。


「あっ……あっ……」


絶望に、全てが飲み込まれようとした、まさにその時。


「!」


不意に、金色の髪のエルフ……レフィーラがモルの視界に入る。

そこにいたのは、膝をつき、荒い息を繰り返し、大精霊の力を失って満身創痍となった、か弱い一人のエルフの少女。

しかし——その瞳は、決して、死んではいなかった。


「……」


彼女は、声こそ出せない。だが、その眼差しは確かにモルを真っ直ぐに見つめていた。

それは決して、可哀そうな子供を見るような憐憫の目ではない。

自らが認めた、一人の軍師に向ける、絶対的な信頼の眼差し。


『目を逸らさないで。ちゃんと見てるんだよ、モル君』


──彼女の言葉が、鮮やかに脳裏で蘇る。


(そうだ……レフィーラさんは、僕に言ったじゃないか。『最後まで、ちゃんと見てるんだよ』って……)


彼女が自分にかけてくれた、あの言葉。それがモルの心に、再び熱い勇気の炎を灯した。


続いて、アドリアンの顔が脳裏に浮かぶ。

飄々とした、だけど底なしに優しく、強い大英雄。


『モル。本当の強さってのはね、肉体的なものじゃないんだよ。──それはね……』


そうだ。僕は、彼に憧れているんだ。


肉体的な強さじゃない。


そう、それは──


『──信念』


「……っ」


──もはや恐れない。

震える足を叱咤し、耳と尻尾に力を入れる。顔を上げ、ゼファーのその冷徹な瞳を真っ直ぐに見返した。

モルのその目が開かれた時、そこには、恐怖の色はどこにもなかった。

あるのは、自らの死を受け入れ、大草原の未来を見据える、一人の「指導者」としての、気高い覚悟の光──。


「──確かに、僕たちは戦って戦って、ここまできた!だけど……その道は、覇権を争う覇道じゃない!この血に塗れた大草原に、もう一度みんなが笑って暮らせる、平穏な日々を取り戻したい……!その一心で、僕たちは、王道を歩んでいるんです!」


モルの、一瞬の淀みもない叫び。

爪を突きつけているギエンも、モルの瞳を見返すゼファーも、周囲にいる獣人たちもみな、小さな少年を見つめるばかり。


そうして訪れる静寂。

そんな中、ゼファーがモルを見据え、ゆっくりと口を開いた。


「王道、か」


その声には、感情の色が一切ない。


「お前の言う『王道』とは、一体何だ?力で敵を打ち破り、その骸の上に平和を築くことか?だとすれば、それはお前が否定した『覇道』と、一体何が違う?」


重く、そして残酷な問い。

事実、同盟軍も力をもって敵を打ち破り、勢力を拡大してきたのだ。

しかしモルは、その問いに目を逸らさない。


「僕たちの『王道』は、覇道とは違います」


モルは、静かに告げる。

その声には、不思議なほどの落ち着きがあった。


「覇道とは、力で他者を支配し、その骸の上に、偽りの秩序を築く道。ですが、僕たちの『王道』は、違う。僕たちは、倒した相手を支配するために、戦わない。僕たちが戦うのは、無益な争いを止めさせるため。──そして、戦いが終われば、敵も味方もない……同じ大草原に生きる仲間として、手を取り合いたいんです!」


それは青臭く、理想論に過ぎない言葉だった。


「おやおやぁ……まるで子供の考えですねぇ……あぁ、子供だったか?くくっ……」


それを聞いたギエンは、腹を抱えて笑い出そうとする。

だが、ゼファーは笑わない。彼は、さらに冷徹な問いを重ねた。


「では、その『王道』が正しかったと、誰が決める?結局は、最後に立っていた、強者の正義が全てではないのか?この大草原は、そうやって歴史を紡いできたはずだ」


大草原を支配する、残酷なまでの真理。

誰もが抗うことのできない現実を、ゼファーは容赦なく幼い少年に突きつける。


だが——モルは、それでも、揺るがなかった。


「僕たちは、目を逸らしません。この戦いで流れた、全ての血を、その悲しみを、全部背負ってでも!僕たちは、本当の平穏を掴み取ります!誰かが決めるんじゃない!僕たちが、僕たちの手で、それが正しい道だったと証明するんです!」


モルは、その言葉を自らの行動で証明しようとした。

彼は、自らを捕らえるギエンの腕の中で、最後の力を振り絞り、自らの首を喉元に突きつけられた闇の爪へと、強く押し付けたのだ。


「……っ!?」

「僕の命が、そのための礎になるのなら……喜んで、差し出してやる!」


だが——。

ギエンの闇の爪が、モルの白い喉を切り裂くことはなかった。


「ちっ……!」


ギエンは咄嗟に、モルの首を突き刺そうとしていた腕を止め、代わりに小さな身体を殺さない程度に羽交い絞めにし、動きを完全に封じ込めた。


「ん……んむぅ……!」


彼は、理解している。

今、この場でウサギの少年を殺すこと——それは自らの手で、最も厄介な『殉教者』を生み出すことに他ならないと。


(……今この小僧を殺せば、残された獣どもが怒りで、さらに厄介な結束を見せる……!人質としての価値は元よりあまりないが……完全になくなるのはまずい!)


純真で真っ直ぐで、そして気高い魂の叫びと、自己犠牲の行動。

眩しい光景を前に、ギエンは自らの計画に生じた僅かな、しかし致命的な計算違いを苦々しく噛み締める。


「……お涙頂戴で英雄気取りに死なれては、周りの馬鹿どもが、さらにやる気を出してしまいますからなぁ。それは実に、面白くない」


そして、ゼファーに向けて言った。


「ですが、戯言は……そこまで!さぁ、ゼファー様!理想論に溺れる、愚かな子供ごと、ここにいる全ての者どもを、皆殺しにしてしまいましょう!」


ギエンの言葉を受け、ゼファーはゆっくりと、手を天高くへと掲げた。


「……ああ、そうしよう」


彼の声は冷徹で、表情からは一切の感情が読み取れない。


「大草原で繰り返される、無意味で、そして悲しい戦いを終わらせるために……ここで、死んでもらうしかなさそうだ」


その言葉にギエンは勝ち誇るような、下卑た笑みを浮かべた。

それと同時に、天にいるアクィラントの兵士たちが、一斉にその武器を構える。


「いいか……お前ら……!モルの覚悟を無駄にするんじゃねぇぞ!」

「あぁ、上等だ!やってやる……!」


地上ではヴォルガルドも同盟軍も、獣の戦士としての最後の誇りを胸に、必死に身構えを固める。

そんな彼らの姿を見て、ゼファーは目を細め、口を開く。


「──ただし」


ゼファーがそう告げたのが先か、彼の手が動いたのが先か。

天空の王の腕が、風そのもののように、音もなくしなやかに振るわれたように見えた、次の瞬間。


「……あがっ!?」


鮮血が、舞った。


ハイエナの獣人ギエンの右腕が、根元から綺麗さっぱりと切り裂かれ、赤い軌跡を描きながら、宙を高く、虚しく舞っていた。

遅れてやってきた、ギエンの獣じみた絶叫が、戦場に響き渡る。


「がっ……がぁぁぁー!!!??」


裏切り者の絶叫と、その腕がべちゃり、と生々しい音を立てて地面に落ちる音だけが、やけに大きく響き渡った。

その場にいた誰もが、何が起きたのかを正確に認識することが、できない。


「えっ……?」


モルの呟きが、静寂で響く中──ゼファーは、血飛沫を浴びた自らの手刀を、汚れたものでも払うかのように一度軽く振るうと、こう言い放った。


「──ただし、死ぬのはお前だ。ギエン」


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