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第百五十五話

鮮血が、乾いた大地に生々しい染みを作っていく。

戦場を支配していたのは、驚愕を通り越した静寂であった。

自らの肩から失われた右腕と、それを切り裂いた張本人であるゼファーを信じられないといった表情で交互に見るギエン。


「な……なぜ……!?」


ゼファーはギエンの問いかけに答える価値すらないとでも言うように、一瞥もくれなかった。

彼は冷徹な視線を苦痛に呻くハイエナから、人質から解放された小さなウサギの少年に向ける。

そして戦場にいる全ての者の魂に響き渡るかのような、透き通る声で言い放った。


「元より貴様のようなハイエナの戯言に耳を貸すつもりなど、毛頭なかった。だが、確信したのだ。この少年の瞳を見て……」


ゼファーは続ける。


「貴様のような、澱んだ欲望に塗れた濁った瞳とは違う。大草原に本来吹くべき、清涼な風をその身に湛えた……真っ直ぐな瞳をな」


先ほどのモルの、真っ直ぐな魂の叫び。

それがゼファーの心を完全に動かし、彼に「どちらに与するべきか」という最後の決断をさせたのだ。


「……!」


モルは唖然としながらも、自らの身に起こったことを理解していた。


(この人は初めからギエンの味方じゃない──?)


だが、周囲にいる同盟軍の兵士たちは目の前の状況を理解できずに呟く。


「お、おい……どうなってやがるんだ?鷲の奴ら、あのハイエナを攻撃したぞ……?一体、何が……」

「アクィラントは、ギエンの奴の仲間ではなかったのか……?なぜ争っている……?」


ヴォルガルドの兵士もまた、信じがたい光景に思考を混乱させる。

そんな、困惑が支配する戦場の空気など意にも介さず。

瀕死のグレイファングは傍らで介抱する部下の肩を借りながら、隻眼でゼファーを見据え、そして言った。


「ちっ。最初から、そのつもりだったのだろう。随分と、もったいぶりやがって……」


あまりにも場違いな言葉。

対するゼファーもまた、冷徹な王の仮面をほんの一瞬だけ外し、笑みを漏らした。


「貴様が瀕死の様をもう少し長く、高みから見物していたくてな。まぁ……期待以上の粘りを見せたことだけは褒めてやろう」


その言葉は二人の王が単なる敵対者ではなく、互いの全てを知り尽くした古くからの知己であることを物語っている。

ゼファーは旧友との短い会話を終えると、冷徹な視線をハイエナの獣人へと移した。

そして、天にいる自らの軍勢に向かって、力強く命じた。


「このハイエナを取り囲め。絶対に、この場から逃がすなよ」


号令一下、それまで空で静観していたアクィラントの兵士たちが一糸乱れぬ動きで、ギエンの上空を完全に包囲する。

その光景に、地上の獣人たちも我に返った。


「おいテメェら!空は鳥が囲んでくれてんだ!地面はアタイらで取り囲め!」

「ねずみ一匹、逃がさん!」


イルデラとゼゼアラの叫びと同時に、ヴォルガルドの狼も、同盟軍の犀や豹も敵味方の区別なくギエンを中心とした分厚い、殺意の壁を作り上げていく。

そして、天と地……両方から、逃げ場のない完璧な包囲網が、完成した。


「ぐっ……!!」


一方で、信じがたい現実にギエンは激痛に顔を歪ませながら、必死に思考を巡らせていた。


(くそ、見誤った!大草原に生きる獣どもが持つ、あまりにも無駄で、非合理な『誇り』とやらと、くだらない『絆』の強さを……!)


そんな彼の元へゼファーが静かに歩み寄り、最後の通告を突きつける。


「さぁ、どうする、ハイエナよ。その不可解な闇の力を使って、ここで無様に死ぬまで抵抗するか?それとも、大人しく捕縛され、己の罪を認めるか?……俺としては、どちらでも構わんがな」


(完全に囲まれたか。だが……)


絶体絶命。

誰が見ても、彼に逃げ場はない。

しかしギエンは、顔に浮かべていた苦痛の表情を、不敵な笑みへと変えた。


「ひひ……!お忘れではございませんか、皆さま方……?」


彼は最後の切り札を誇示するかのように、高らかに叫んだ。


「今!この場所へ!この日のために用意しておいた、軍勢が続々と向かってきているということを!」


──確かに、ゼファー率いるアクィラント大部族を手中に収めることは叶わなかった。獣人たちが持つ『誇り』が、ギエンの計算を上回ったのだ。

しかし、ギエンの手中にある駒はアクィラントだけではない。


(そうだ……この大草原には私の甘言と物資によって、意のままに動く部族がいくらでもいるのだ!)


膨大な数の軍勢が、この場所へと向かってきている。

本来ならばアクィラントの軍勢と合流させ、そのまま大草原の中心——獅子王リガルオンの喉笛を掻き切るための、使い勝手の良い手駒とするはずであったのだが……。


(……最早、策も水泡に帰した。ならばすべきことは一つ。この戦場から、一刻も早く離脱する!)


無論……これから来る増援は、所詮、数の力だけが取り柄の烏合の衆。

この場にいるアクィラントやヴォルガルド、そしてあの厄介な混成軍を相手にして、まともに勝てるはずもないとギエンは冷静に理解している。

だがそれでいい。勝つ必要など、ないのだ。


(奴らは、この場を引っかき回し、混乱を生み出す時間稼ぎのための『捨て石』。それで、それで十分……!)


「ちっ……いつまでも往生際が悪いハイエナだ!」

「ならその軍勢とやらが、ここに辿り着く前に、貴様を血祭りにあげて、その後ゆっくりと料理してやろう……」


イルデラが、忌々しげに吐き捨て、ゼゼアラもまた目に獰猛な光を宿しギエンへと距離を詰める。

ヴォルガルド、同盟軍の戦士たちもまた、殺気を隠そうともせず、じりじりと包囲網を狭めていく。


「くく……群れが来る前に、私を倒せると思っているのか?無理だと思うけどねぇ……」


時間稼ぎさえすればいい……。その事実は、ギエンに圧倒的に有利なものであった。

残された最後の闇の力を左腕に収束させ、最後の抵抗を試みるギエン。


──まさに、その時であった。


「おや?もしかして誰かさんが心待ちにしている『獣人さんの群れ』とやらは……今から落ちてくる彼らのことかな?」


場違いなほどに飄々とした声が、遥か上空から響き渡った。


「!?」


聞き覚えのある声に、誰もがが驚愕に空を見上げた、その瞬間。


「な、なんだ……!?」

「空から……なんか降ってきた……!?」


彼らの頭上から無数の獣人たちが文字通り、ぼとぼとと雨のように降ってきたのだ。


「な、なんじゃこりゃあ!」

「戦士が空から降ってきた……!?」


熊の獣人も、猪の獣人も、猫の獣人も。

誰もが白目を剥いてぐったりとしており、地面に叩きつけられてぴくりとも動かない。


空から、意識のない獣人たちが延々と降り注いできた——。

理解不能な光景に戦場にいた誰もが、呆然と空を見上げる。


そして、彼らは見た。


獣人たちが降ってくる、さらにその遥か上空。先ほどまで空を支配していたはずのアクィラントの軍勢よりも、さらに高い天の高み。

そこに物理法則を無視して浮かぶ、新たな『軍勢』の姿を。


「うーん!ギリギリ間に合った!って感じかな?」


その中心で、一人の黒髪の青年──英雄アドリアンが地上を見下ろし、余裕の笑みを浮かべていた。


「アド!た、高い、高いよぉ!早く降ろしてってばー!」

「あのさぁ……。これを『間に合った』とは、流石に言わないんじゃないの?なんかもう、終わってるっぽいし」


英雄の腕の中には、悲鳴に近い声を上げる魔族の姫メーラが、必死にしがみついていた。

そして、その隣では、同じく風の足場に立つ女王ナーシャが、心底呆れ果てたという表情で、じっとりとした視線を向けている。

その後方には、女王ナーシャが率いるセルペントスの蛇戦士たちの姿があった。


「セルペントス……!?」

「おい、なんで蛇の獣人どもが、空を飛んでやがるんだ……!?」


地上にいる両軍の兵士たちが、物理法則を無視して浮遊するセルペントスの軍勢を信じられないといった表情で見上げていた。

そんな彼らの反応をアドリアンは満足気に眺めながら、隣で呆れ顔の女王ナーシャに、にこりと微笑みかける。


「いやいや、ナーちゃん。不貞腐れなくても大丈夫だよ。この物語の最後の悪役を、正義の味方がみんなで力を合わせてやっつけるっていう、一番美味しい『シメ』の場面には、ギリギリ間に合ったみたいじゃないか。──最高のタイミングだろ?」


天には、アドリアン率いるセルペントス軍。

その下には、ゼファー率いるアクィラント軍。

そして地上には、ヴォルガルド軍と、同盟軍。


「ばか……な……」


幾重にも重なる包囲網の中心で、全ての切り札を失ったハイエナの獣人ギエンは呆然と空を見上げ、そう呟いた。


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